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福島第一原発を訪れて

先日、福島第一原子力発電所を訪れました。
東日本大震災当時、私は高校1年生。地元の茨城県鹿嶋市は震度6弱の揺れに襲われましたが、幸い自宅は地盤の強い高台にあり、インフラは無事でした。
テレビをつけると、ニュースでは福島第一原発の映像。津波によりすべての電源が失われ、みるみる悪化していく状況。何が起こっているかも、何が本当なのかもわからず、ただただ不安でした。
茨城にも放射線量が高い「ホットスポット」ができ、農水産物が基準値を超えて出荷できないなど、さまざまな影響がありました。

あれから12年。ようやく、その地を訪れることができました。
現地を実際に目で見て、そこで働く人たちの声を聴き、感じたことを書き留めておきたいと思います。


境界線の内側へ


原発構内には、隣の富岡町にある東京電力廃炉資料館から、バスに乗り込んで向かいます。東京電力には「福島第一廃炉推進カンパニー」という、名前の通り福島第一原発の廃炉のためにつくられた子会社があり、そこの「リスクコミュニケーター」という肩書きを持った方たちが案内をしてくれます。

検問所を通り、いよいよ構内へ。
機密情報の流出を防ぐため、スマホやスマートウォッチは原則持ち込めず、バスに置いていきます。
まず、入退域管理施設でテロ対策のためのセキュリティチェックを受けます。事前に提出した身分証を忘れると政府高官でも入ることができません。持ち物は中が見える透明な袋に入れ、中身を確認されるなど、入国審査よりも厳しい体制が敷かれていました。

構内ではまず、"Whole Body Check"という、全身からの放射線量を測定する検査を受けます。これを入構前後に行うことで、内部被ばくが起きていないかをチェックします。

それから、「大型休憩所」という作業員の方が休憩する建物で説明を受けます。大型休憩所には食堂やローソンがあり、コロナ禍前は視察で訪れた人たちも食堂が使えたそうです。2015年に大型休憩所が開所する前は、作業員の人たちはそれぞれの休憩場所で持ち込んだものを冷たいまま食べるしかないことも多く、休憩所がオープンしたことで作業環境は大きく改善したといいます。私たちもローソンで買い物をし、「ローソン東電福島大型休憩所店」のレシートを記念に持ち帰りました。

廃炉の現状についてお話を伺い、建物の窓から構内を俯瞰します。目についたのは貯水タンクの多さです。1,000基以上あるそうですが、震災前には1基もなかったことを思うと、以前はどんな景色だったのだろうかと考えました。実際、タンクを建設するために構内の木を伐採したりもしたようですが、構内の道沿いの桜の木だけは、切らずに残しておこうと決めているそうです。

汚染防止のため、防じんマスクをし、軍手をし、靴下を使い捨てのものに履き替え2枚重ねて履きましたが、防じんマスクはホームセンターでも買えるようなもので、装備としては非常に軽装だと感じました。構内の除染が進んでおり、一部エリアを除いて全身を覆う防護服は必要なくなっていました。
個人線量計をつけて、いよいよ管理区域内へ。警備の方の声掛けが「ご安全に」だったことが心に残っています。


すべてがはじまり、いまも終わっていない場所


構内ではいちばん最初に、「原発事故」のすべてが始まった場所、1号機から4号機の原子炉建屋の目の前に行きました。
何年も画面越しに見てきたその場所。

1号機から4号機のそれぞれで状況が大きく異なることを目の当たりにしました。今も大きながれきが使用済燃料プールの上に覆いかぶさり、骨組みがあらわになった1号機。唯一水素爆発を起こさなかったため建屋の壁が残り、それがかえって使用済燃料の取り出しを難しくしている2号機。使用済燃料の取り出しに成功した3号機・4号機。
廃炉がどこまで進んでいるのか、何が困難なのか、それをどう進めていく計画なのか、これまで「怖い」という感情が先に立っていましたが、冷静に現状を理解することができたと感じています。

ただ冷静にみても、格納容器の底に残る燃料デブリの取り出しが相当困難なのは間違いないようでした。燃料デブリがどのような性質を持っているかもまだほとんどわかっておらず、これから巨大なロボットアームを2号機の格納容器の中に入れ、880トンあるといわれている燃料デブリのうち、まずは耳かき1杯分を回収して分析してから、取り出しの方法を検討するそうです。実際の取り出しが行えるようになるまで、かなり時間がかかると思います。

廃炉までの道のりはまだまだ遠いですが、それでも着実に1歩1歩進んでいて、そこには作業員の方たちの懸命な努力があることが分かりました。


「処理水」の行く末


次に、発生した汚染水を浄化する設備「ALPS」とALPSによって処理された水を貯めるタンク、そしていま計画されている海洋放水を行うための設備を見学しました。

ALPSによって62種類もの放射性核種を取り除くことができますが、唯一取り除けないのがトリチウムです。トリチウムは水の形で存在しているためです。いま計画が進められているのは、この処理水をトリチウムの濃度がWHOの飲料水基準未満になるまで薄めてから海洋放出しようとするものです。

トリチウムは事故が起きなくても常に原子力発電所から排出されていて、原子力発電所そのものを容認するなら、行われようとしている海洋放出も大きな問題ではないと思います。
どちらかといえば正しい知識が多くの人に広まるまで、あるいは感情的な面で、福島、ひいては三陸や茨城・千葉の水産物が風評被害に遭う社会的なリスクの方が大きく、それを避けるためのコミュニケーションはしっかりと行ってほしいと、茨城の港町で生まれた私としては感じました。


原子炉の上に立つ


最後に、特別に5号機の原子炉建屋の中に入らせていただきました。

5号機・6号機は震災当時定期検査中で運転を停止していて、1~4号機よりも3メートルだけ海抜が高い位置にあったこと、また非常用発電機のうち1台だけが原子炉建屋の外に新しく作られていて、その発電機がある建物のドアが陸側につけられていたため、浸水せず生き残り、使用済燃料の冷却を続けられたことで大事には至りませんでした。
いまも使用済燃料は原子炉建屋の使用済燃料プールの中に残っていて、冷却が続けられています。

格納容器のすぐ外側を歩いた後、エレベーターで格納容器の上にあるオペレーティングフロアへ。分厚い鉛の二重扉で、外側の世界と隔てられています。
実際の使用済燃料プールを見て、格納容器の真上にある蓋(シールドプラグ)の上に立ちました。燃料はすべて取り出されていて、使用済燃料プールの方にあるのですが、真下に原子炉があると思うと言い知れない怖さを感じました。


賞賛されることのない仕事に全力で向き合うこと


大型休憩所に戻り、最後にリスクコミュニケーターの方たちとディスカッション。

リスクを背負って働いているにもかかわらず、社会からは常に批判の目を向けられている、廃炉の仕事。
それを続けられている原動力は何か、気になって質問しました。

リスクコミュニケーターのうちのお一人は、震災前から福島第一原発に勤め、原子炉のメンテナンスをされてきた方でした。その方にとって原子炉は、愛着を持って世話をしてきた、子どもたちみたいなものだったということです。それが暴走し、多くの人を不幸にしてしまった。長い間福島に住み、地元の人たちともよい関係を築いてきたのに、一瞬にしてそれが崩れてしまった。それがとても悲しかったと語っていました。だから、廃炉のために、福島を再び安心して暮らせる場所にするために努力することは、やりがいのためにすることではなく、自分の責務だと思っていると。

このような思いを持って、決して社会から賞賛されることのない仕事に、日々全力で向き合っている人たちがいる。
そのことに私は胸が熱くなり、自分の仕事の向き合い方についても考えさせられました。

自分はどんな世界をつくりたいのか


福島第一原発を訪れて理解したのは、一度この規模の事故を起こした原発を元に戻すことは、少なくとも今の人類の叡智では不可能だということでした。
普段は恩恵を受けることができても、ひとたび制御できなくなれば、その場所に人間は住めなくなる。
そのリスクを考えたとき、自分はできる限り原発に頼らないで生きていける社会をつくりたいと、改めて思いました。

地域ごとに、そこに住む人たちが、自分たちの使うエネルギーを自ら選択し、自分たちの力で共同で運営する。
そのプロセスを通じて地域の中にある力が育まれ、外の大きな力に頼らなくても生きていけるようになる。
そんな地域を日本中に広げていきたいという決意を新たにしました。


この訪問は、フリーアナウンサーの大和田新さんのご案内のもと、 私が所属するClimate Youth Japanの視察として行いました。福島市内から福島第一原発に至る道のりも含めてご案内いただき、そこにあった暮らしに思いを馳せるきっかけを与えてくださった大和田さん、一緒に訪れたClimate Youth Japanのメンバーに、この場を借りて深く感謝申し上げます。

この文章を読んでくださったみなさんにも、福島第一原発をぜひ自分の足で訪れ、自分の目で見て、考えてみていただけたら嬉しいです。大和田さんにお繋ぎできますので、関心ある方は気軽にご連絡ください。

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