鵜住居復興スタジアム

釜石・大槌を訪れて

【釜石・大槌を訪れて】
去る12月8日・9日に、地域おこし研究員として岩手県釜石市に移住している友人の元を訪ねて、2日間釜石市・大槌町を案内していただきました。

私の地元である茨城県鹿嶋市も、
震度6弱の地震と2 mを超える津波の被害を受けましたが、
家が地盤のよい高台にあり、大きな被害をまぬがれた分、
津波がきたこと、そしてまたくるかもしれないことは、
自分ごと化しきれずにいました。

そんな私が釜石を訪れたのは、被災地としてではなく、
たくさんのあたたかい人たちと、
美味しい食べものに出会える魅力的なまちとしての釜石を、
友人の投稿で知ったからでした。

2日間で、すぐには言語化できなくなるほど心が揺さぶられ、
多くのことを感じ、学びました。

ここでは、私たちがどのような場所を訪れて、
そこで何を見て、感じたのかを記せればと思います。


【浜町避難道路】(画像は「釜石・大槌地域情報WEBサイト キックオフ」より)
最初に訪れたのは、釜石市役所から海岸線にそうような形で高台に伸びている「浜町避難道路」です。

釜石は過去120年あまりで4回も大津波に襲われており、
2011年3月11日の東日本大震災の前から、
津波のときに避難できる場所が整備されてきました。
この浜町避難道路はその一つで、東日本大震災の津波がきたときには約100名の方がこちらに避難して一命をとりとめたそうです。

いまでは避難道路の海側にも多くの家や工場が立ち並んでいますが、
ここに避難して目の前で自分の家が流されるのを見た人たちのことを思うと、言葉が出ませんでした。


根浜復興団地・根浜海岸】
根浜地区は、津波で大きな被害を受けたものの、
それでも地区の人たちは海を愛し、
津波で失われてしまった砂浜を取り戻すために、
高い防潮堤を築くのではなく、集団で高台に移転することを決めました。

地区の人たちが別々の場所の仮設住宅に入ってばらばらになってしまっても、月1回は集まって結束を維持し、2017年4月に根浜復興団地が完成したことで、6年ぶりに根浜地区に帰ってくることができました。

旅を通じて感じたことですが、釜石・大槌では地区単位のコミュニティがしっかりと生きていて、市や町が動き始めるよりも前に自分たちの未来を描き、自分たちのことは自分たちで決めてきていました。
これが復興を力強く支える原動力になってきたのだと感じます。

復活した根浜海岸は水が青く透き通って、とても美しかったです。ぜひまた夏に訪れたいと思います。


鵜住居復興スタジアム
2019年のラグビーワールドカップの釜石への招致を受けて、津波で大きな被害を受けた鵜住居地区に建てられた、鵜住居復興スタジアム。

ラグビーワールドカップの招致は、住民からの反対の声も大きかったそうですが、招致が決まったことで、ワールドカップに向けて道路などの整備が急ピッチで進み、復興を加速するきっかけとなっています。

私たちは突然訪れたのですが、偶然にも新年用の写真撮影と重なり、プレーをする大切なグラウンドに入れていただけただけでなく、写真撮影にも入れていただき、よそ者の私に大漁旗をもつという大役(?)まで任せていただきました。

ご公務でいらしていた釜石市長ともお話するお時間をいただきました。
「震災後にした、もっとも大変だった決断は何か」という質問には、
震災で200人以上が犠牲になった、鵜住居地区防災センターの取り壊しだったとお答えになりました。

鵜住居地区防災センターでは、東日本大震災の3日前に避難訓練が行われ、実際は避難場所ではなかったのですが、
仮の避難場所として使用されました。
そこで避難場所だと思ってしまった人たちが、
東日本大震災当日に押し寄せたことが、
大きな犠牲を生む一因になってしまったようです。

この取り壊しにあたっては、
「震災の教訓を刻む場所として保存してほしい」という声と、
「悲惨な記憶を思い出してしまうため取り壊してほしい」
という声がありましたが、
最終的には、取り壊してその跡地に「祈りのパーク」をつくる、
という決断をされたそうです。

釜石市を代表する市長というお立場と、
被災者の1人であるという感情が交錯するとき、
決断を下すには並々ならぬ困難が伴うのではないかと想像されました。

もともと幼稚園の園長をされていた市長は、私たちにも終始優しく接してくださり、お忙しい中写真撮影にも快く応じてくださりました(アイキャッチ画像)。


釜石市防災市民憲章フォーラム
私たちが訪れた日にちょうど開催された、
第2回釜石市防災市民憲章フォーラムに参加しました。

この釜石市防災市民憲章は、釜石市防災市民憲章制定市民会議という、
市民の自主的な会議によってつくられた後、市長に提言され、
市民への広いパブリックコメントなどを経てまとめられました。
来年2019年3月11日に正式に制定される予定になっています。
このフォーラムではそれに先立ち、この防災市民憲章をどのようにして活かし、広げていくかというテーマが話し合われました。

登壇者の方々がくりかえし強調されていたのは、
この防災市民憲章は津波だけではなく、どの災害にも当てはまるもの。
だからこそ、避難訓練などで、日常的に触れるものにしていきたい。
それを通して、防災を文化にしていきたい。ということでした。

参加者のみなさんも、自らのご経験をもとに、東日本大震災の前の過去120年あまりで3回も大津波に襲われた釜石でも、教訓を活かしきれていなかったことから、どうすれば語り継いでいけるか、真剣に議論されていました。

東京にいると、日常的に「防災」というテーマに触れる機会はなく、
「災害=非常」という意識があります。
ですが、釜石では、防災は非常ではなく日常であり、過去の教訓ではなく、今を生きる知恵であるということを強く感じました。


夜は、復興プロジェクトの一つとしてつくられた「釜石漁火酒場かまりば」の一角にある居酒屋「マミー」にて、美味しい海の幸をいただきました。
マンボウ、イカ、イクラなど、新鮮な食材がふんだんに使われた漁師町ならではのごちそうを、香り高い釜石の地酒「浜千鳥」とともに心ゆくまで味わい、大満足でした。


【蓬莱島】
2日目は大槌町へ。まず最初に訪れたのは、『ひょっこりひょうたん島』のモデルの一つといわれる、蓬莱島。

東日本大震災の津波で灯台は流されてしまいましたが、弁財天を祀るお堂は流されなかったそうです。
町の人たちの努力によって修復され、一時は閉ざされていた島への道も、再び渡れるようになりました。

道を囲む海は美しく、ワカメを育てるためのロープが浮かべられて、厳しい冬の先に来る春を待ちわびていました。


【大槌町旧庁舎】
東日本大震災当時、大槌町の町役場は海のすぐ近くにあり、屋上に避難した当時の町長を含む職員40人が犠牲となりました。
これによって町の行政機能がストップしたことが、
市役所の本庁舎が1階の浸水被害で済んだ釜石に比べて、
大槌の復興が遅れてしまう原因となりました。

この旧庁舎については、釜石の鵜住居地区防災センターと同じように、保存と取り壊しの間で市民感情が二分されました。
現町長が、議論が落ち着くのを待たずに取り壊しを決めたことで、町民からの反発が強まり、工事が滞っています。

旧庁舎の前に建てられた献花台に手を合わせ、この旅で学んだことを必ず未来に活かすことを誓いました。


【大槌町文化交流センター「おしゃっち」】(画像は公式Facebookページより)
おしゃっちは公民館と図書館が一体となったようなコミュニティスペースで、開放的な空間で地域の人たちが集まったり、学生が勉強したりなど、自由な使い方ができるようになっています。

木のぬくもりあふれる心地よい場所で、東京にあったら一瞬で席がなくなってしまうだろうなあと思いました。

その一角に、震災伝承展示室がありました。
ここでは、東日本大震災当時に大槌の人たちがどのように行動したかを記録したドキュメンタリー映像と、町に生きる人たちの声を集めたパネル展示、そして、犠牲者の方々の人柄などを、1人1人ご遺族に聞きとって作成した回顧録『生きた証』などが展示されていました。

町の行政機能が停止している中で、大槌の人たちが懸命に自分のできることを考え、行動に移していたことが印象に残りました。

例えば、内陸部の金沢地区の人たちは、沿岸部が津波の被害にあったことを聞き、避難者がくる前から、避難所と炊き出しの準備を自主的に始めていました。

大槌高校の高校生は、避難所になった体育館で、避難所の運営のボランティアとして働き、それに感銘を受けた後輩たちは、2013年に大槌高校復興研究会を立ち上げて、大槌町の復興の記録を残す活動を始めました。

これらを知って、胸が熱くなると同時に、いまの自分にも何かできることがあるはずと、不思議と力がこみ上げてくるように感じました。


【千葉 淳さん訪問】
最後に訪れたのは、釜石市内に設置された遺体安置所でボランティアとして活動された、千葉 淳さんのご自宅。

千葉さんは、震災の3年前まで葬儀屋でお仕事をされていたご経験をもとに、ご遺体に声をかけたり、お化粧をしたりなど、
生きている人と同じように丁寧に接することで、
安置所を訪れたご遺族の心に寄り添われていました。

このような千葉さんのご活動が、ノンフィクション作家の石井光太氏の目に留まり、のちに君塚良一監督によって
『遺体 明日への十日間』(予告編
として映画化されました。

私はこの映画を、千葉さんのお宅で初めて、
千葉さんに当時のことを伺いながら観たのですが、
ご遺族や、仲間を失いながらも懸命に安置所で働く方々の心中が想像されて、とても切なく、胸が一杯になりました。

東日本大震災で亡くなった人の、
あまりの多さに圧倒されていた私でしたが、
その1人1人に、それぞれの人生があり、家族や友人がいた。
どんな状況にあっても、1人の命の重さは変わらない
という当たり前だけどとても大切なことに気づかされました。


私自身、東北の被災地を訪れるまで、
東日本大震災で起こったことや、
悲劇を繰り返さないための防災について、
あまり意識することはありませんでした。
でも、被災地に行けばいまでも、
当時の記憶・記録が、目に見える形で刻まれています。
その風景と重ねて、実際に被災された方の声を、
聞き、読むことで、震災、そして防災が自分ごと化されました。
ボランティアとしてではなく、
主な目的は観光でも、グルメでもいいと思います。
その中に少しでも、震災当時のことを知るきっかけを作ることで、
自分の身の回りも違った角度から見えるようになると思います。


今回このような機会を与えてくださった友人と、
釜石・大槌のみなさん、本当にありがとうございました。

必ずまた、釜石にきます。

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