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厳しさが無くなるほど厳しくなる矛盾した社会

厳しく𠮟りつける時代は終わった。
これからは優しくほめて伸ばす時代。

ほんとうにそれがいいことだろうか?
他人から厳しくされない時代は、ほんとうにいい時代になるのか?
ぼくは思う。人が厳しくなくなったら、社会はますます厳しくなるだろうなと。

どうして矛盾する?

人が厳しくなくなれば、社会だって厳しくなくなるはず。そう思うのが普通だと思う。
だけど現実はどうか?社会が厳しくて、生きるのが辛い人たちは増えている。叱られなくなったゆとり世代に、社会はもっと厳しいものとなった。

ぼくの考えは、社会の厳しさは変わっていない。昔のままだ。しかし、厳しさに慣れていない人にとっては、いきなり感じる厳しさは壮絶に感じるだろう。まるで、南国で過ごしていた人がいきなり南極に連れていかれるように。

社会が求めるものは、どの時代も変わらない。
例えば、不愛想で、無礼な人と関わりたい人はいない。愛想がよく、礼儀正しい人と関わりたい。初対面ならなおさら。
だけど、厳しさが無くなれば、それを指摘する人はいない。パワハラを恐れて、そういったことを言う先輩や上司はいなくなった。

結果、不愛想で、無礼では人と関われないということを、自分で気づかなければいけなくなった。厳しい人がいない。それではダメだと言ってくれる人がいない。
気づくまで、ずっと孤独になる。何がダメで、だからどうしなければいけないのか、誰も教えてくれない。指摘してくれない。

厳しさとは、そのままでは社会で生きづらくなるぞという警告だった。その警告を排除した。そのツケが、今回り始めているんじゃないだろうか。

社会の厳しさとは

社会の厳しさには恐ろしい面がある。
それは、誰かに言われたわけでもないのに存在するということだ。

先に挙げた例を使えば、不愛想で無礼な人間と関わりたくないというのは、教えられたからそうしている人は、いないだろう。
誰しも、自然と不愛想で無礼な人と関わりたくないと思い、そうしているだけ。そんな、誰しもが自然と思っていることが、社会の厳しさだ。

社会は、そんな厳しさを一切告げることなく与えてくる。社会は教えてくれない。どうして厳しいかを。
その厳しさは、誰かがわざわざ作ったものでもない。ただ、もうすでにそこにあるだけ。

教えてくれるのは人間だけ。社会の厳しさを身に受けた人だけが、その厳しさを言葉にして伝えることができる。

自分で自分に厳しくするしかない時代

わが身可愛さ。
他人に興味なし。
他人に厳しくすることがなくなっていく時代。

だからこそ、これからは自分で自分に厳しくしていくしかない。社会の厳しさを乗り越えるために。

誰も自分には教えてくれない。届けてくれない。何がダメなのか、誰も教えてくれない。知りたければ、自分から聞きに行くしかない。

人に厳しい時代は、頼まれても無いのに色々な言葉が届けられた。それが鬱陶しいと思うこともあった。
今は逆。
誰も言葉を届けてくれない。自分から取りに行くしかない。自分から、わざわざ厳しさを取りに行かなければならない時代になった。

これからの時代は、ますます生きづらくなる。誰も道を示してくれない。
自由という言葉とともに、どうするのかを、全て自分で決めなければならない。動かなければ、誰も何も届けてくれない。
自由とは、言い換えれば自分で動かない限り何も手に入らない状態。
社会の自由とは、そういうものだから。



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