シンナー中毒者(呼ばわりされた)人の手記

ネイルをする人はシンナー中毒者らしい。
このnoteの題名も「シンナー中毒者の手記」にしようとしたけどあまりにもインパクトが強いすぎるし、ふつうによくないと思ったのでチキった。

直接言われたわけではないところがあまりにも鬱陶しいのだが、こんなオモシロ偏見を披露したのは、うちの家の中になぜかずっと居座っている自称僕の父のオッサンだ。どうやら僕がネイルをしているのはネイルから漂うシンナーの香りが目的だかららしい。アホか。人間やめろ。おっと、失敬。

傷つけることと寄り添うことについて考えてみた。

傷つけた側に寄り添う価値はあるのか

Twitterを見ていると、最近、これまでマイノリティだった側の人たちの主張がどんどん広がっていて、すごくいいな、と思う。もちろん僕の界隈だけの話だから世界は狭いけど、でもたぶん、SNSがこれまで抑圧されていた人たちの主張の場として広がっていることは事実だろうし、良いことだとも思う。

彼ら、マイノリティだった側の主張は正しい。すごく正しい。正しすぎて、嫌になる。正しいのはわかっているんだけど、それを簡単に肯定するのはなんかこう、何かが壊れてしまう気がしてすごく怖い。マイノリティとマジョリティが逆転していく瞬間、すごく怖い。

彼らを見ていると、すごく偏見なのはわかっているんだけど、こう、なんというか「傷つけた側」に対して容赦なさすぎないか?と思ってしまうんだよな。例えば、「私はこんな被害を受けた」みたいな話で、いや、そういう話ができるのはいいんだけど、それで「こいつクソだね」みたいな感じで周りがはやし立てて盛り上がるのはやりすぎでは?と思うんだよね。

僕はチョロいからさ、嫌いだと思ってしまった人にもやさしく話しかけてくれたら「実はいい人なんじゃないの?」って思ってしまうんだよね。だからこう、その人の一面しか知らないのにその人が「無知なために人を傷つける加害者」というレッテルを貼られて、いや、その「加害者」は間違いなくクズだけどさ……。「無知なために人を傷つけてしまった加害者」の側に寄り添わなくてもいいのかよ、というか、その加害者がどの基準で無知になるんだよ、と思ってしまう。

これについては答えが自分の中で出ていて、ツイートもした。結局、被害の程度の問題だった。「無知なために人を傷つける加害者」を非難するツイートをした人は被害に遭った人だから。つらい目に遭った人が、自分をつらい目に遭わせた人間を気遣ってやる道理はない。そいつからは逃げていい。でも、関係のない、余裕のある人間は、どちらにも寄り添うことができる。つまり、加害者に寄り添うべきなのは、その被害加害の現場に関して第三者である人間であって、被害者ではないということなんですね。

ちょっと偏見の多い文章な気がする。自分の中では筋が通ってると思うんだけど、言語化がムズいな。

人間関係の第一原則

結局、すべてのルールは「他者を傷つけない」ということに帰着されるんだろうな。政治も、経済も法律も、できるだけ傷つく人が少ないように、ひとりひとりの傷が少しでも小さくて済むようにするためのものだ。先述の「無知」は「自分の言動が他者を傷つける」ということに関しての無知なんだろうね、でもたぶん「傷つく傷つかない」の基準もまた被害を受ける側の価値観やその周囲の社会状況にもよるからこれめちゃくちゃむずくない? つまり、男性による女性への同意なきスキンシップが横行していてそれに誰一人として違和感を持っていない気持ち悪い世界を想像した時に、その同意なきスキンシップは「傷つける言動」には該当しない……。

正しさって何だろう。暫定的に「今正しいとされていること」くらいで考えておくか。そんな、「今正しいとされていること」に敏感にならないといけないのつらいけどな。

寄り添うって、難しいけど、加害者に寄り添うって、何が正しいかを一緒に考えるってことなんだと思う。ていうか、正しいかじゃなくて、「自分ららしく」自己表現をしながら、でも「人を傷つけない」ためにはどうしたらいいのか一緒に考えることだと思う。

どれだけがんばっても修辞のために「一緒に考える」は「一緒に考えて”あげる”」になってしまうし、「寄り添う」は「寄り添って”あげる”」「寄り添って”やる”」になってしまう。違うよ、そんな、上から目線なことをしたいわけじゃない。わかんないけど、「寄り添う」という行為の上から目線性が相手を傷つけてしまうんじゃないのか………

コミュニケーションなんて所詮

コミュニケーションなんて、所詮、傷つけ合い。人を傷つけて、傷つけられて幸せを感じるんだ。痛みを知って、自分なんだとわかるように。

コミュニケーションが「交わりの場」だとしたら。コミュニケーションなんて、意図せずして勝手に相手の領域に踏み込んで、相手が自分の領域に踏み込んでくる。暴力的な傷つけ合い。そうせざるをえない僕ら。

だれも傷つけないなんて、無理。コミュニケーションそのものがもう傷つけ合い。だから、どれだけ相手をやさしく、どれだけ楽しく、どれだけキモチヨく傷つけ合うかが大切なんだろうね……

これまではヤツも一人の人間だから尊厳をもった対応をしないとと思っていたんだけど、もう気遣う必要もなくなった。自分を傷つける人間と関わる必要はない。別の、その人に傷つけられることがない誰かがヤツのことを気遣ってくれるから。

だれにも彼にも配慮するのは怖いと思っていたけど、コミュニケーションそのものがそもそも暴力的な傷つけ合いだとわかったら、もう少し楽に人と関われるような気がした。

今回は偏見の多いnoteだったから、もう少しちゃんと考えたいね。

おやすみなさい。あるいは、あけましておめでとうございます。今年も、こんな僕をよろしく。

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