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『ソナチネ海域の向田諸島とナンシー島』

私が二十歳の頃、向田潮とナンシー潮が日本列島の東でぶつかる『ソナチネ海域』に諸島群があった。『向田諸島とナンシー島』だ。その海域は、洗練された言葉と青すぎる真水の渦をつくり、危険で魅力的な視座と、人間の腹の腹のさらに奥深い腹の底をらくらくと書ききる名文を次から次に生んで、誰も近づけない孤島になった。

『ソナチネ海域の向田諸島とナンシー島』に憧れない者はいない。だれもがのぞむ『文の山』だけで生まれた孤島だ。その孤島に手をかける者もいた。でもそれは、たまたま漂着した偶然であることを誰もが知っていた。その者は力つきて、海のなかの青すぎる真水に流されて、いづれまた何処ぞに漂流するようになるのだ。「時代にめぐまれただけだ」と嘯いて絶望してゆくのだ。

賢い者は、『向田諸島とナンシー島』の『ソナチネ海域』のそばに、自らの島を探す者もいた。ながめているたけでいい。その真水を舐めるだけでもいい。それが賢明な判断だった。神仏と『いのち』の取引をして引き換えられた『文の山』『青すぎる真水』に挑むなど、割にあわない馬鹿げたことなのだ。せめて、近くの島で『ソナチネ海域の向田諸島とナンシー島』から流れ着く、漂流物のおこぼれに預かるだけでも、十二分に食えるのだ。

さて、私は私の島を探さなければならない。『ソナチネ海域の向田諸島とナンシー島』に近づきすぎればいのちとりになる。では、どこで島を探せばいいのだ。一生漂流しつづけるという、乱暴なやり方もあるだろう。どうしたものか。自ら島をつくるのか。もう、49歳だ。おそろしいことだ。うじうじしている間にこんな歳になってしまった。愚痴の多い中年男になったもんだ。

そういうわけで、もう、おそろしくて、向田邦子とナンシー関の本を二十年くらい読んでいない。打ちのめされるのがわかっているからだ。北野武監督作『ソナチネ』もその意味で二十年くらい観ていない。単純明快に、ファンになればらくになれるのに、ファンにもなりきれない。『ソネチネ海域の向田諸島とナンシー島』をどこかで見て暮らしたい。一方でその荒海に乗り出してもみたい。生まれてからずっとうじうじしている私が、うじうじしながら荒海に乗り出す滑稽さが、私の島か。

たまに、勢いだけでスマホで書いてしまうことがある。それが、これで、とりとめのない、うじうじしたものになってしまった。老眼の限界が来た、終ろう。一応公開して、また直そう。

朝がきた。読み返してみた。ギャグがない。でも、直さない。
しかし、傑作『ソナチネ』を、海のなかの「青すぎる真水まみず」と表現した、夜の私を朝の私は褒めようと思う。
私だけの滑稽な島もいい。夜の『滑稽島』。朝だ「コケコッコー」

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