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#4 ホテル暮らしの日記:あったかいんだから

今日はクマバチを野に返した。

京都市にある河原町通りという道路を歩いていると、足元でもぞもぞしてる黒い塊を見つけた。近づいてみると弱ったクマバチだった。

彼の複眼の間を見ると、白いデルタがあったのでオスだと判明。針を持つのは働きバチのメスのみ。

コンクリートの上でもがきながらウロウロ掴む場所を探しているので、指に捕まらせてあげた。

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弱い力でありながらも、足先に備えられた爪でがっちりと私の皮膚をつかんでいる。愛おしい。かわいい。

なんだと思ってるんだろう。木にしては熱すぎるだろ。

この時ポツポツ雨が降ってきていたので、このまま彼をコンクリートの上に放っておいたら、水で排水溝に流されて、どこかのゴミと一緒になって処分されるだろうという未来が容易に想像できた。

自然に生まれたものを人間の作り上げた無機物の中で死なせるというのがどうも嫌いなので、鴨川沿いの木陰にでも置いて、回復するならそのチャンスを与えたいし、もし無理だとしても食物連鎖の輪の中に返してあげたいという気持ちになった。

ちなみに、私が死んだ後は生身で地面に埋めて欲しい。もしくは他の動物に食べさせるか、別の誰かに食べて欲しい。火葬というのは納得がいかない。自然から生まれて、自然のものを散々食べてここまでデカくなったのに、それを全く自然界に還元せずに骨以外全て気化させるなんていうのは全く道理にかなっていない。人間社会でなく地球で死なせてくれ。

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あばよクマさん。

他の昆虫よりずっしりとした重量感があるのが印象的だ。これがクマという名前を冠している由来だろう。

というか虫の方が古くからいるはずだけど、人間の認知の上ではクマの方が先だったんだな。

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だいぶ弱っていたのでこのまま死ぬか、鳥に食べられるかのいずれかだろうが、”気化”だけは免れた。

ところで、虫嫌いの人に理由を聞くと、明確な答えを持たないことがほとんどだ。「気持ち悪い」「なんで動いてるのか意味不明」「危ない」などなど。

私は正直、こういった感情が他者に向いた時、それが『差別』になると考えている。理由なく虫を嫌う人間は、自らの未知・無知を認めないために対象を排除する。無かったことにする。

その差別の根源は自己愛である。「もう新たに知ることはない」という高慢でエゴイスティックな動機である。こんなものは全く褒められたものではない。

こういった差別主義を排除するのに最も効果的な方法は「触る」ことだ。虫を持たせてみたり、触らせてみると、その可愛さに気がつく人間というのは多い。手の上から感じられるその生命力に胸を打たれない人間は多くない。相手に触れることで生命感を共有し、この有機体の神秘に気が付けば差別などは起こらないはずだ。

対岸から石を投げるな。素手で殴れ。


異郷の地で。知人も友人も恋人も親戚も無しのホテル暮らしで。それでも孤独感をさして感じていないのは、おそらくこういった「自然と癒着している」という感覚だろう。

私の意思はよく独立していると評価されるものの、私自身としてはその感覚はあまりない。他の人間とは距離があるけども、自然の一部であることは常に頭の中にある。

以前同僚に言われたことがあるのは「オフィスにいるのがすごく違和感。山から降りてきた動物が都会に紛れてる感じ」らしい。おそらく私は動物に近いんだろう。

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