#3 ホテル暮らしの日記:何気ない一日

なんの変哲もない一日だったが、例によって一万歩くらい散歩していたら「人生は短い」という言葉に関してなんとなく理解が及んだような気がしたから、残しておこうと思う。

よく人は言う。「人生は短い」と。

しかしこれは感覚的な問題で、実際のところは「長いと感じられるほど、出来事を映像として記憶しておけない」だけなのだと思う。

これは河原でイチャイチャしているカップルを見てふと思ったことなのだ。

男性が女性を抱き抱えてキャッキャしてて、最初はぶん殴りたいだけだったんだが、次第に尊いもののように思えてきたのだ。

今日という1日は、私にとってはなんでも無かった。そしてさっき起きた河原での出来事も、しょうもないので2日くらいで忘れるだろう。

しかし同じ時点、同じ場所にいたあのカップルにとっては、一生続く思い出の一ページを脳裏に焼きつけた瞬間かもしれなかったのだ。

もし時間に識別子がついているのなら、彼らと私が過ごした時間は同じ、全く同じものだったに違いないのだが、片方は泡沫のように消え去り、片方は強烈に焼きつく記憶に昇華する。

しかし、私にとって印象的だった元カノとの思い出を頭の中で漁ってみても、元カノの視線の動きなどは記憶していない。残っているのは表情、交わした言葉、行った場所などだ。鮮明な「映像」はそこにはほとんど残されていない。

こんな感じで、記憶というのは「無」になるのが日常で、「有」になるのは1年のうちのほんの限られた一瞬に過ぎない。それも、走馬灯なんて言うように、動画ではなく印象的な一瞬を切り取った画像や、フレーズとしてしか残らない。

我々は時間を記憶しておけないのだ。

今確実に5分が過ぎ去った。しかし「5分」を思い出せと言われてもなんのこっちゃわからない。概念だからだ。説明できるのはタイピングをしていたという行為のみ。これが時間を記憶できない証拠である。出来事ベースでしか記憶はできない。

だから人生のどの時点で死を迎えても、「人生は短い」と言うに違いない。

そしてここまでくると、時間の存在はなんだか危ういものに思えてくる。本当に存在するのか。

「Time is Money」なんか特に危うい。どちらも概念である。あってないようなものでござる。

存在しないかもしれないものが、我々の持つ最大の価値であるということだ。

やはりどう考えても世の中は不安定だ。

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