ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第1話:出会い】

すべての始まりは、一枚のアンケートだった。
いまでこそ小説を書いてご飯を食べているが、当時の僕は売れないミュージシャンだった。
週に4~5日、コンビニで深夜バイトをしながら、自分のバンドで月2、3回のライブをこなしていた。
振り返ってみると、当時はすでに惰性で活動を続ける段階に入っていたと思う。
23歳で上京し、最初に組んだバンドではそこそこ良いところまでいった。渋谷の某ライブハウスのブッキングマネージャーに気に入ってもらい、メジャーデビュー済みのバンドと対バンを組まれるなど優遇され、複数の事務所やレコード会社から声がかかった。上京前に考えていたよりよほど順調だったし、いつか東京ドームでライブをやれると、本気で信じていた。だがその後そのバンドを脱退し、リーダーとして新たにバンドを組んで以降、状況は悪化する一方だった。
まばらにしか客のいないホールに向けて演奏し、捌けなかったチケットノルマぶんの赤字を垂れ流す日々。
前のバンドで良いところまでいけたのはヴォーカリストの才能があったからで、けっしてギタリストである自分の能力のおかげではなかった。
自分の勘違いに薄々気づき始めていた。
それなのに、バンドをやめる決心ができないでいた。音楽がアイデンティティーだったといえば聞こえは良いが、自分の選択が間違っていたと認めたくないだけだった。やめた後にやることがないから、ただ続けていた。調子の良かった時代の成功体験にすがりついたまま、具体的な未来像を持てずにダラダラと決断を先延ばしにし、僕は28歳になっていた。

そんなとき、対バンで知り合ったAというバンドに誘われ、あるイベントに出演した。
いまはもうなくなってしまった浜松町のクラブジャンクボックスというライブハウスで二か月ごとに行われるイベントはそれなりに固定客もついていて、久しぶりに人で埋め尽くされたホールに向けて演奏することができた(のちにイベントのアーカイヴを見て気づいたが、同じイベントにあのSAKEROCKも出演していた。星野源や浜野謙太と同じステージに立ったというのは、僕のささやかな自慢だ)。
多くのバンドが行っているように、僕らのバンドもライブの感想を求めるアンケート用紙を配っていて、その回収率もかなりのものだった。
その回収したアンケートの中に、彼女からのものがあった。
便宜上、マユミという仮名で呼ぶことにしよう。
マユミからのアンケートがどういった内容だったのか、いまとなっては覚えていないが、かなり好意的なものだったのは間違いない。
アンケートにはメールアドレスの記入欄もあって、メールアドレスを記入してくれたお客さんには、僕が直々にお礼のメールをしていた。ライブ告知などの定型文だけを送るようにして、一定の距離を保っていればその後のトラブルも防げたと思うが、駆け出しレベルのバンドだと、メンバーがいかにフランクに接してくれるかが動員に直結する。僕が知っている例では、ファンと一緒にピクニックに出かける企画をしているバンドもあった。ホストやキャバ嬢のような営業で動員を確保することに忸怩たる思いはあったものの、なにもしなければファンをほかのバンドにとられるだけだ。当時の僕の日常の少なくない時間が、ファンとのメールのやりとりに充てられていた。

マユミのことを、当初は一般のファンだと思っていた。
しかしやりとりをするうちに、対バンに誘ってくれたバンドAのスタッフだと知らされた。Aが主催するクラブジャンクボックスでのイベントのスタッフも兼務しているらしい。
……と聞かされたのだが、実はこの時点から嘘だった。
マユミはたまたま訪れたライブハウスで僕のバンドのライブを観て、僕に近づくために強引にAのスタッフになったのだった。マユミは、高校の同級生同士で結成されたAのメンバーたちが卒業した品川の某高校の、一年先輩だった。募集もしていないスタッフとしていきなり加入してきた先輩にたいして、Aのメンバーはかなり迷惑していたらしい。

そんなことはつゆ知らず、ファンではなくスタッフだと知った僕は、すっかり警戒心を緩めてしまった。ファンと関係を深めるのは危険だが、スタッフなら一緒にご飯を食べたり、遊んだりしても問題なかろう。

……いや、本当は問題あるんだけどね。
当時の僕には、二年ほど交際した女性がいた。
映画が好きで、デートはもっぱら映画館という彼女とは趣味も合ったし、会話のテンポも合った。一緒に過ごすのはとても楽しかった。
ただ一点不満だったのは、僕のバンド活動にいっさい興味を示さないことだった。
交際前も含めると4、5年の付き合いだが、その期間で彼女が僕のバンドのライブを観に来てくれたのは、一度きりだった。
興味がないから観に行かないけど、邪魔もしないから好きにやってくれというのは、いま思えば恋人として理想的な姿勢だ。
ただ、何者にもなりきれていないミュージシャンワナビの狭量な男は、自身を否定されたように解釈していた。愛する男が人生を懸けて打ち込んでいるものを、恋人ならもっと応援するべきだと思っていた。自分に自信のない人間は、他人に寛容にもなれないのだ。

いっぽうで、マユミは聞いているこちらがむず痒くなるレベルで、僕の作った音楽を絶賛してくれた。褒められる経験の乏しい人間は、褒められたという一事だけで相手に好意を抱いてしまう。交際中の女性よりも、マユミのほうに気持ちがかたむくのに時間はかからなかった。

本当にバカだったと思う。

「もう好きじゃない」と告げると、当時の恋人はこう言ったのだ。
「ちゃんと伝えてくれてありがとう」
そして僕のアパートを出ていき、二度と連絡してくることはなかった。
年下だったけど、精神的に成熟した大人の女性だった。
マユミには何度別れ話をしたかわからない。
最初に別れ話をしたのは、交際開始一か月ほどのタイミングだろうか。
しかし受け入れられず、マユミとの縁を絶ちきるまでに、二年半の歳月を要することとなった。

地獄の二年半の始まりだった。
(続く)

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