ヤバい女にタゲられて人生をめちゃくちゃにされそうになった結果、なぜか小説家になった話【第4話:刃物を向けられる】

小説を読んでいると『張り付いたような笑顔』という表現が出てくる。
僕も自分の作品でよく使うが、人工的な笑顔とか愛想笑いとかの、本心からではないぎこちない笑みという意味だ。
マユミと交際している間の僕は、まさしくこの表情をしていたと思う。
リストカットやオーバードーズなどのたび重なるためし行動で支配された僕は、楽しくもないのにつねに笑みを浮かべるようになっていた。
楽しそうにしていないとマユミが不機嫌になるからだ。
もっとも、なにをしようと結局は機嫌を損ねるので、作り笑顔も台風のときのビニール傘程度の効果しか期待できないが。

一緒にいるだけでなく、楽しそうに笑顔でいることを求められた。
それができなければ問答無用でリストカット or オーバードーズである。
そんな状況で心から笑えるわけがない。
眉間に皺を寄せた凶悪な顔で「なんでそんな憂鬱そうな顔をしているんだ! 笑え!」と命令されたこともあるけど、考えてみればかなりシュールな状況だ。ハリウッド映画でギャングの親玉が子分に言ってそう。親分が笑い、周囲が笑い、つられて子分が笑うといきなり撃ち殺されるパターンね。

それはともかく、こちらとしてもすんなり支配を受け入れたわけではなかった。
どうしても我慢ならなくなり、口論から怒鳴り合いに発展したこともある。いい加減にしてくれ、もう別れる、と宣言して、アパートを立ち去ろうとしたことだって一度や二度ではない。
そういうとき、向こうは包丁を持ち出してくる。
ちょっとコンビニに出かけてくるというレベルの気軽さで、刃物を持ち出してくるのだ。
刃先を向けるのは自分自身だったり、僕だったりするのだが、最初にこれをやられたときには本気で縮み上がった。
他人から刃物を向けられる経験など、人生でそうあることではないだろう。
でも人間というのは、どんなに過酷な環境にも慣れてしまうものなのだ。

最初はすんなりと引き下がって相手の要求を呑み、二度目は力ずくで包丁を奪い取り、三度目は靴を手にして裸足のまま玄関から飛び出し、相手が包丁を振り回す時間を与えないなど、対応を変えていった。試行錯誤の毎日だった。試行錯誤できるほどの機会があるのが、まずもって異常なのだが。

あるときは、刃の部分をつかんで刃先をあえて自分の胸に引き寄せ「刺せるものなら刺してみろ!」と啖呵を切ったこともある。
布越しに刃先がちくりと胸にあたる感覚は、いまでも忘れられない。
懸命に平静を装ったものの、内心バクバクである。
報道で見かける別れ話のもつれが原因の刃傷沙汰は、こういう経緯なのかもしれないという想像が頭をかすめた。
どうせ本気で刺す気はない。
そう自分に言い聞かせるが、ニュースになるような事件の犯人だって、そうかもしれない。
刺すつもりはなかったけど、衝動的に刺してしまったのかもしれない。
マユミと出会って以来、僕はああいう事件報道の裏側に思いを馳せるようになった。自業自得と片付けた事件の背景にも、報道されたのとは違う一面が隠されていたのかもしれない。そんなことするぐらいなら、別れればよかったのに。報道に触れただけの人間は簡単に言うが、それが難しいケースもある。
真実は一つしかなくても、角度によって物事の見え方はいかようにも変わる。事実は一つではないのだ。

そんなふうに刃物を持ち出されてのっぴきならない状況に陥ると困るので、多くの場合、口論になると僕はアパートを飛び出した。
命のやりとりみたいな極限の状況を避けることができるし、一人の時間を切望していたというのも大きい。
マユミは基本的に他人を信用できないらしく、僕はずっと監視されていた。バイト以外の時間に自由はなく、自宅に帰ることすら許されず、出かけるにしてもどこにでもくっついてくるし、たまに一人で出かけることができても、自分のいないところでなにをしているのか疑心暗鬼になるようで、謎の体調不良や理不尽な鬼電で呼び戻されたりした。
とにかく一人になりたかった。
もともと一人の時間が好きで、相手が誰であろうとずっと一緒に過ごすのは息が詰まるという一人遊びタイプの人間なので、もはや窒息寸前だった。

アパートを飛び出すと、きまってものすごい勢いで携帯電話が鳴り始める。あまりに連続して鳴り続けるため、電源を切ろうとしてうっかり応答してしまうほどだった。着信と着信の合間を縫って電源を切り、一時間ほどしてから電源を入れ直すと、すぐに電話が鳴り始めてぞっとしたこともあった。

長崎の実家の母や、当時池袋で一人暮らしをしていた妹に連絡が行くこともあった。
たんに所在確認するだけでなく、僕が自死しようとしているので至急連絡を取らないといけないなどと嘘をつくからたちが悪い。
僕の父は、僕が小学校五年生のときに自死した。
マユミはそのことを知っていながら、僕の母に息子が自死しようとしていると嘘をつくのだ。
それを知ったとき、人生で初めて輪郭のくっきりした殺意を抱いた。
マユミは非常に外面が良く、妹のことも手懐けていたので、僕が「あのお姉ちゃんは頭がおかしいから信用するな」といくら訴えてもピンと来ていないようだった。もしかしたら、いまだにそれほど悪印象を抱いておらず、たんなる元カノぐらいの認識しかない可能性もある。マユミと一緒にいるとき、僕はいつも張り付いたような笑顔を浮かべていたからしかたがないのかもしれないが。

口論の途中でマユミが昏倒するというパターンもあった。突然ばたりと倒れたかと思うと、頬を叩いて呼びかけても反応しなくなるのだ。
放って立ち去るわけにもいかないので救急車を呼んで、たしか港区の総合病院に搬送されたが、検査の結果異状なしということで即日退院になった。原因はわからないままだ。

なにが本当でなにが嘘なのか、どこまでがガチでどこからが演技なのか、まったくわからない。
いまでもわからないことが多い。
でもいまは、すべてが演技ですべてが嘘だったと考えるようにしている。

そんな感じで抵抗を試みていたものの、異常者の執念に普通の人間は太刀打ちできない。
異常者は他人を攻撃したり支配したりすることに全精力をかたむけるが、普通の人間は自分の生活を優先するからだ。
じりじりと押され続けた結果、自分でも気づかないうちにゴールラインを動かされ、いつの間にかマユミの思い通りになっていることがほとんどだった。

バンド活動についても例外ではない。
前述したように、マユミはもともとAというバンドのスタッフだった。
スタッフであろうと引き抜きはご法度だ。バンド同士の関係をぎくしゃくさせる。そもそも自分のバンドのスタッフとして恋人を加入させるなど、面倒くさいことになる予感しかない。恋人だったスタッフと破局した途端に活動がままならなくなるバンドも見ていた。家族や友人に比べて、恋人との関係性は脆い。そんな脆い存在に、バンドの命運を左右するような重要な仕事を任せるのは危険だというのが、僕の考えだった。
だから僕と交際していても、Aのスタッフは続けてかまわない、むしろ続けてほしいと伝えていた。
プライベートとバンド活動は一線を引くつもりだった。
しかしマユミにはそんなけじめの概念はない。
たび重なる話し合い(というか、マユミの要求を拒否した結果、マユミが不機嫌になって荒れ狂うだけのやりとり)の末、結果的に、マユミが僕のバンドのマネージャーになるのを承諾してしまった。

そしてマユミは、バンド内外の人間関係を破壊し始めたのである。
(続く)

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