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天神で 相違について考える 弾丸移動と焼き鳥の味

今回私は久しぶりに日本に弾丸しました。弾丸とは速攻で帰国して速攻で帰ることです。今までの弾丸は家族の有事ゆえ正直あまり楽しいものではありませんでした。

今回は違います。親戚の結婚式なのです。
しかも2人は驚くほど若い。
これは心踊る展開。
本当に本当におめでとう。

久しぶりの博多はとても活気がありました。多くの観光客も楽しんでいました。そして居酒屋や普通の食事を楽しむ場所まで英語、中国語、ハングルの表記が自然に存在していました。天神では皆が楽しそうに食事や歓談を楽しんでいました。

東京となんか違うなあ。

近年、東京を訪問する度にいつも胸がキュンとなります。
それはこの都市がどこに行こうとしているのかそこにいる人が声を出せぬまま不安で不安で仕方ない想いを「隠して」生活しているように見えるからです。
ここにない「何か」を必死に探している。「何か」がわからない人も必死に探している。

福岡アジア美術館初訪問。素敵な美術館でした😊

博多で道行く人々の表情は違うように私には見えました。ないものはないんだからあるものので楽しくやろうよっというさっぱりした意思がとても心地よかったです。

東京ってなんでもあるからなあ。

他にも要因はありそうです。

クアラルンプールで生活して感じるのは「移動に対する考え方が「軽い」こと。そう、私もKLに行ってから移動に対する考え方が完全に変わりました。ちょっとそこまで海外へ。でも、東京にいると移動に結構躊躇するんです。理由はわからりません。タクシーが高いってのはあるかも。でも今話しているのは飛行機の話。

うーむ🤨

地方の人って「移動」がデフォじゃないですか。この「移動がデフォ」感がどのくらいあるか。ここがポイントなのかも。
移動が特別視される世界だと移動そのものが目立ってしまう。

あと、言葉も見逃せないポイント。今回久しぶりに聴く訛りは心地よいと同時に「相違」を純粋に意識することを可能にさせる効果があると改めて感じました。

違うものは違う。ただそれだけ。

東京を中心としてテレビなどで使用される「標準語」は我々のようなテレビ世代に無意識に「これが定義」と押し付けていたんでしょうね。そしてその定義に勝手に縛られて、違いを自ら怖れてしまう。
(ということは動画世代である今の十代になるとまた変わるのな)

移動手段と言葉。この2点が今の東京を曇らせる要因なのではと天神で想う博多の夜は、ほんと、美味しゅうございました。

で、もう東南アジアに戻ってます😊