改めて英語を勉強しなきゃこりゃいかんぞと思ったことがあった

 今日、夕方シンガポールの繁華街の大通りを家族で歩いていた。信号待ちをしていたら突然の怒号、そして女性の悲鳴。あわてて子供を抱き抱え振り返ると中国系の男性がイスラム系の女性に殴りかかっていた。どうもベビーカーがあたったらしい。そして一緒にいた男性に怒号を浴びせ一撃をしかけようとしていた。

 かなり興奮していたので何か別の要因があったのかもしれない。周囲はかなり凍りついたが複数の人種(中華系、インド系)の若者たちが数人でその男性を抱きかかえて落ち着かせてそのイスラム系の家族からその男を離していた。

 男は英語と中国語で叫んでいたので全ての内容は分からなかった。でもまわりの人は英語で彼を落ち着かせていて彼もそれを聞き入れていたので英語も十分話せる人なんだろう。信号が変わったので私たちはすぐその場を離れた。監視カメラがいくつもある通りだから警察はすぐにやってくるはずだ。

 その場を離れた後もずっとあの時の青いスカーフの母親とグレーのズボンの男の子の恐怖に怯えた顔が私の頭から離れなかった。私も子供を連れて町中で他人に怒られた経験はいくつかあるが(さすがに殴られたことがない)あれは辛い。非常に凹むしその後にも嫌な気持ちが消えない。正直子供が赤ちゃんのときに言われたことを今でも覚えていたりする。

 母親が子供と外出してる時というのはそれほどまでに緊張状態なのだ。なので他人に理不尽な指摘や暴力的な態度をとられると緊張状態は倍増する。

 そして今回更に気になるのは母子の服装。母親はイスラム教の服装で子供はアラブ系の顔立ちの少年だった。青いスカーフはとても綺麗で、男の子はとても可愛かった。

 今フランスでの新聞社襲撃事件のこともありイスラム教の人はこのシンガポールの地でもすごく過敏になっている。そんな中あんな目にあってしまったらあの母子はもう外に出れなくなってしまうのではないかと心配でたまらない。

 私は新聞社の事件をどう思うかとかフランスがどうだとかイスラムがどうだかとかそういう事は正直明確にはわからない。思想や政治や宗教を掘り下げていけるには私はまだ学びが足りない。

 ただ今日、深く思った。大事な人を、自分を守るためにコミュニケーションツールとしての語学は必須だと。

 多民族、多宗教国家で生活しているとどんな宗教の人も大多数の人は普通の人で自分と同じように生活していると日々実感している。異文化の相手でも自分と同じような生活をしていると実感できると分かり合えない恐怖は消えお互いのコミュニケーションが生まれる。世界は広がっていくことを日々実感している。

 恐怖を闘争へ悪化させない方法はそれしかない。何かアクシデントがあった際にまず会話が出来るようにならないと状況は把握出来ないしそもそも大事な人を守れない。日本で「英語はリーダーだけが学べば良い」とか言ってる人がいるがその人は個々が窮地に陥った時リーダーは助けてくれるもんだと思っているのだろうか。

 かつて外国人に道を聞かれるから英会話を習おうと思うのという設定の英会話学校のCMがあった。しかし今は「外国人と道でトラブルにならないようにするために英会話を習おう」なのかもしれない。ここは日本、外国人なんて、、とか思ってる人。現在、円安の影響で日本には大量の外国人が訪れている。そして2020年のオリンピック。そして経済の拠点は常にテロの標的の可能性を意識しなければならない時代になっている。ここは日本だから。。とか呑気なことはもう言ってられない。

 別に英語で論文を書けとか言われてるわけではない。なぜ英語を学ぶならネイティブ並みの発音で英作文でとか思っているだろうか。アジアに目を向けると美しい発音の英語のほうが珍しい。みんなそれぞれの英語で自信をもって自分の想いを自分の言葉で伝えている。まずはここからでいい。身を守るレベルのコミュニケーションのための語学。発音や文法は大事だけど全てではない。まずはやってみないと。自分を、大事な人を守るために。