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マリオネットとスティレット AIリライト済み第一巻試験公開

※リライトにはClaude 3 Opusによる多大な支援を受けた。詳細はAIによる補助のメソッドを一般化可能な方法論としてまとめたのち公開。

第一章 陰謀の街

 ……ゴーン……ゴーン……。とおくの大きな時計塔が鳴る。そろそろ夕方に差し掛かる街。商人の馬車、荷物を背負う行商人、旅のキャラバン……。あらゆる街への来訪者が通る活気ある石畳のメインストリート。街の正門からひっきりなしに人々が入ってくる。
「未来ある若者よ! もし初めてこの街へ来たなら、ぜひ冒険者ギルドへ! 諸君の中の眠っている魔法の才能を求む!」
 勧誘の声が、夕闇が迫る空に響く。ここは魔法都市Parakronos。全ての才能と富がここを目指した。
 だが、路地一本街の奥に進めば、全く違う光景が広がっていた。飛び散った血がふきとられもせずに残っている壁、あらゆる汚れがまっくろにへばりついた路地、みんなが勝手にもっていって敷石がなくなって剥き出しの道……。汚濁に塗れた通りには、飢えと病に倒れた者の亡骸が転がっている。
 しかしその日、いつもとは違う死体が発見された。暴れ者の傭兵や飢民とは明らかに異なる、一般市民らしき男だ。血に塗れた彼の死に様は痛ましく、明らかに殺されたようだった。近くの壁には暗殺ギルドのマークが残されている。道をいくのは裕福とは言えない格好をした人々。彼らは口々に噂話をした。
「こいつ、見たことある」
「どのギルドにも属してないはずだ」
「なのに奴隷の斡旋をしていたな?」
「バカな流れ者だ」
「この街でそんなことが許されるはずもないのに……」
「誰を恐れるべきかを知らなかったらしいな」
「暗殺ギルドはいい仕事をする」
「街に寄生した邪魔者を排除してくれたのだから」
「シッ! よせ! かかわるな……っ!」
 その男は、悪徳だった。なんでも、普通は獣人の家族をまとめて売るところ、親と子供を離れ離れにするのも気にしなかったのだとか。殺されて当然。皆口々に呪いの言葉を吐いて通り過ぎた。そして、暗殺ギルドへの賞賛と、畏怖も。
 これが、貧民街での暗殺ギルドの評価だった。

 この街には獣人が多い。獣の毛皮に包まれた亜人種。みな元々は都市に暮らしてはいない種族……。彼らもまた、貧民街に暮らす住人の一部だ。だが、より裕福な中央区に自らの家を持って住んでいたり、自由に街の門を出たり入ったりできる身分の獣人は絶無である。そう言えば、この街での彼らの立場がわかるだろう。
 夕闇の貧民街の屋台で、獣人からパンを買う娘がいた。しかし猫の顔をしたふくよかな女店主は、頑としてコインを受け取らない。エプロンのポケットに突っ込んでいた手を出し、断る仕草をした。
「Leka、お代なんかいらないよ、あんたには本当に世話になってるからねえ。また寄っておくれよ! この前、うちの旦那にきつく言ってくれてありがとうねえ! あれ以来、食卓は平和だよ!」
 Lekaと呼ばれた少女はニカっと笑った。
「へへっ! あんがとさん!」
 そしてパンを咥えて、建物を一足で飛び越える。10メートル近いハイジャンプ。驚異的な脚力だ。そして屋根の上を馬ほどの速度で颯爽と走る。着込んでいるコスチュームは、動きやすさと機能性を重視した設計で、まるで影と一体化するかのように彼女のスリムな体形を際立たせる。大きく目を引くのは、風の中で夕日にキラキラ輝くホワイトゴールドの髪。ウェーブのかかった長いそれは、後ろでまとめられ、シルエットを大きくみせる。そしてもう一つの特徴である赤い瞳。もう一つの夕焼けのようなそれをきらめかせながら、本物の夕焼けの光を背負う。コスチュームの中から覗く、彼女の肌は、陶器のように白く輝いていた。彼女こそがこの街に暗躍する、暗殺者の少女、Lekaだった。
 足下の路地では騒ぎが起きていた。冒険者ギルドの治安維持パーティが、さっきの悪徳奴隷商の死体を発見したのだ。数十分前に仕留めた獲物の死体を飛び越えるLeka。彼女はしなやかな動きで屋根から屋根へと移動していく。適当な路地に飛び降りて、マントを羽織って目立たないようにした。中央地区と一般住民の区画を分ける河を、橋を行き交う人に紛れ、人目を避けるように暗殺ギルド本部へ向かう。
 途中、どういう理由か知らないが、人混みの向こうに、長い槍が林の木のように、何本も立っているのを見かけた。近づくと、傭兵が道行く人に声をかけているようだ。通行料がどうとか、人混みの向こうで叫んでいる。
(何言ってんだ?)
 曲がりなりにもこの都市は各地から人が集まる商業都市だ。通常料なんかあったら、どの街の利害に絡むギルドだって損をする。Lekaが訝しんでいると、人混みがどんどん停滞し、声ばかり聞こえてくる。
「布告! この街区は、不法な統治を行う魔法科学ギルドと、穢らわしい暗殺ギルドから解放される! 我ら傭兵ギルドは、獣人の奴隷化に反対し、傭兵憲章にもとづく平等な自治を求む! 我らは寄付金を募っている! この通りをいく者は、誰でも寄付を行うことができる! どうかこの街の改善に協力して欲しい! 布告! 布告!」
 Lekaはため息をつくと、付き合ってられないとばかりに人混みから抜け出し、橋の欄干から橋脚の下に入り、その超人的身体能力で器用に橋の下を腕の力だけでするりと通った。
 橋の向こう側でバレないように道に戻ると、もうそこは中央市街。ギルドの本部が立ち並ぶ、大時計塔を中心とした区画だ。Lekaは変に体力を使ったと、損な気持ちになるが、すぐに気を取り直し、目的地である暗殺ギルドへ向かう。魔法と陰謀の渦巻くParakronosの大時計塔に、日が沈んでいく。夜は、暗殺者の時間だ。

 Lekaはさっそく暗殺ギルド本部の壁を登り、執務室のバルコニーへと、降り立った。夕闇に暗がりに身を潜め、窓から覗くと、黒くて背が高い影が見えた。年齢相応の銀髪ながら、スラリとした背は鉄の芯が通っているようにピンとしている。なにやら書類に目を通しながら、かわるがわる入室する人々と話をしている。Lekaはバルコニーに座って待つことにした。ボソボソと話し声が窓ガラス越しに聞こえる。彼女が聞き耳を立てると、街の厄介ごとへの対処への指示から、ギルド同士の抗争の報告、果ては殺しの依頼まで……。色々な話がなされているようだった。
 暗殺ギルドへの依頼が尽きることはないのだ。やがて人が尽き、背の高い銀髪は、窓ガラスを叩く。そしてその後、執務机の奥まで戻り、椅子にどっかりと座った。それを見て、Lekaは笑顔になって敏捷な動きで窓枠から室内へ飛び込む。
「ちーっす、父さん」
 中にいた男は、白い髭を蓄えた顔を上げ、笑みを浮かべた。
「おお、Leka、街の流儀を知らない者の処分は済んだのか」
 Lekaは大袈裟な身振りで親指を立てる。
「ばっちしっすね!」
 Lekaは無邪気な様子で報告する。まるで暗殺者としてではなく、普通の小娘のような。彼はそんなLekaを愛おしそうに見つめながら立ち上がる。
「ワシも老いたな。陳情や依頼の話ばかりしていると、ずいぶん疲れを感じるようになった。
 この男……暗殺ギルドの館の主人、ギルドのボス。Tattion。真っ黒で上等な金ボタン付きダブルのスーツを着こなし、六十代後半とは思えない若々しいバイタリティを感じさせる老人。しかしそのエネルギーを、近くにいるだけでピリピリする殺気で覆い、近づくものを緊張させる。だが今だけは、彼は顔を綻ばせ、娘との時間を愛しんでいる。しかしすぐに真剣な目つきに戻る。Tattionは貴族と見紛う流麗な仕草で書類を広げ、次の任務を告げた。
「橋は見たか?」
 Lekaはさっきの光景を思い出した。傭兵たちはすぐに勝手な行動をする。
「傭兵ギルドの連中が、庶民から違法な通行税を取り立てている。依頼主は被害に遭った市民たちだ」
 Lekaは子供っぽい仕草で手をあげ、返事をする。
「了解っす」
 だが無邪気な印象はそこまでだ。任務を受けたLekaの瞳が、一瞬で鋭い輝きを帯びる。愛らしい少女の面影はもはやない。そこにあるのは、非情な暗殺者の顔だけだ。
「じゃ、行ってきやーす」
 口調こそふざけているが、暗殺者モードに切り替わったLekaは、まるで風だ。一瞬で窓の外へ飛び出すとバルコニーの手すりをつかみ、腕の力だけでさらに飛距離を伸ばす。そして音もなく路面へと降り立った。そして影すら残さずに細い路地を抜け、瞬時に飛び上がって屋根伝いに橋へ向かう。やがて路地に降りると、通りを歩く人々に紛れ、一瞬でその姿を消した。
 残されたTattionは、窓の外を見つめながら思案する。正妻の子ではない愛娘は、この暗殺ギルドで最も優れた暗殺者に育った。Tattionの教育と訓練は成功だったと言えよう。Lekaをギルドへ従属させ、同時に最高のコマへと育てることができた。だが、果たしてLekaの心の成長も望んだ方向に進んでいるのか。TattionはLekaを操る人形使いのようでありながら、その操り方には常に気を配らないといけないと自覚していた。

 夜が来た。街の夜を照らす魔光灯の光が淡く辺りを照らす。街灯の下でなければ、互いの顔もよくわからない闇。日が沈んで、大通りの通行量はだいぶ少なくなっている。いや、いつも以上だ。メインの橋を避け、他の小さい橋へ回り込む者が多いからだ。無論、傭兵たちを避けるため……。
 Lekaは再び橋の近くに到着した。河のこちら側、中央区画は、河向こうの貧民街とはだいぶ違う。目立たないようにフード付きのマントを羽織り歩く。Lekaはすれ違う住民たちの様子を観察する。口々に今し方「寄付」をぶんどっていった傭兵たちへの悪態をついている。ホームグラウンドである貧民街とは違い、ここには声をかけてくれる屋台の女将さんもいない。獣人も、他の亜人種もいない。人間ばかりだ。明らかに富裕な商人ギルドに属する人たち。……橋を渡るのはそういう身分の者だから、あの傭兵たちはさぞかし儲けただろう。
(これだけ早くあーしに依頼が来たのも、商人ギルドに迷惑がかかっているからだな)
 Lekaはそう思った。昨晩の悪徳奴隷商の暗殺依頼は数週間放置されたのに、この任務は即日。そういう事情に少々納得いかないものを感じつつも、仕事は仕事である。Lekaは気を引き締めてかかる。
 橋の上は、もうほとんど人通りがない。傭兵たちはすっかり撤収準備中だ。槍を空に向けて立てた傭兵たちも、気を抜いたのか、互いに今日の稼ぎの分配について心配している。Lekaは橋の欄干にぶら下がり、回り込む。よじ登り、橋の外側から覗き込むと、数人の傭兵が、最後のボーナスとばかりに、焦った様子の商人風の男から、無理やり金を搾り取ろうとするところだった。
「お願いです! 通してください……時間が、時間がないんです、今日中にギルドへ収めるお金があって……」
 Lekaは橋に上がる。音もなく、影のように。魔光灯の灯りの下、傭兵たちはヒゲモジャの顔を意地汚そうなニヤケ面に歪ませている。最後の大物を見つけたとばかりに。
 Lekaは構えた。そして呟く。
「教えてやるよ。お前が訴えた不当な暴力って手段には、ちゃーんとその道のプロが存在するってことを」
 傭兵の一人が振り返る。彼は銀色の輝く自慢の胸当てをつけていたが、次の瞬間、Lekaの放った一撃が、音もなくその胸当てを貫いていた。傭兵は呻き声すら上げられず、その場に崩れ落ちる。Lekaの指は、マスケット銃の銃弾すら通さない、分厚い鋼を貫き、胸骨を貫通、心臓に達していた。他の者たちが振り返ると、魔光灯のライトの中に、倒れた仲間が一人……。何が起こったか、彼らは理解する前に死んだ。Lekaの影は既に彼らの間を縫って駆け抜けていた。
 傭兵が、倒れていく。持っていた槍がカラーンと音を立てて橋の路面に転がる。橋の上にいた傭兵は、三十名ほど。その数がどんどん減っていく。あっけなく、倒れる傭兵たち。
 しかし、全身銀色のフルプレートでガチガチに覆った、派手なつば広の帽子を被った男が残る。狼顔の獣人だった。帽子には、魔界で獲れる、珍しい七色の怪鳥の羽が目立つ。全財産を装備に注ぎ込む傭兵は、装備の質が、地位の高さだ。
 この傭兵の部隊長。彼は獣人ゆえの夜でも見通す目で、街灯の灯りの中でもLekaの姿を捉えた。マスケット銃を装填しようともたつく部下は放っておいて、剣を抜いた。しかし、Lekaの本気の速度には対応できなかった。Lekaの拳の一撃は、フルプレートすら打ち砕いて、完全にその体を粉砕した。
 傭兵たちは唖然とし、銃を取り落とす者もいた。気がつけば、彼らの頼りの傭兵隊長はバラバラになっており、代わりに血まみれの影が立っているのだから。
「うわあああああああ!」
 子供の声だった。まだ見習いの、弾込め係……。しかしマントを被った黒い影に驚き、持っていた銃の引き金を引いた。マスケット銃が火花を発し、黒色火薬が白煙を吹いた。ズバン! 少年が放った鉛の球形弾は、Lekaの頭部に命中するはずだった。しかしLekaはカクンと頭を逸らすだけ……銃弾がフードを掠めても止まらない。少年の頭にLekaの手のひらがフワッと当たり、見た目以上の衝撃で脳が崩れ、絶命する。
 残りの傭兵たちも首の骨を折られたり、鳩尾から心臓を突かれたりして、物言わぬ死体となった。倒れ伏した多数の死体の中に、まだあどけなさの残る少年の姿もあった。見習いとして連れてこられた若者だろう。彼もまた、容赦なくLekaの素手の一撃に倒れていった。
 やがて静寂が訪れる。あたりは血の海で、その中にフードとマントで身体を覆った影が一つ、立っていた。数秒、少年の亡骸を見ているように見えた。
「あ、あ、ああああ!!」
 結果的に救われた商人が、恐怖のあまりに声を上げた。Lekaは無表情のまま、ふっと音もなくその橋から飛び、そして静かに河に着水した。
 翌朝、例の橋のたもとで、凄惨な光景が広がっていた。無残に斬り刻まれ、晒し者にされた傭兵たちの亡骸。住民たちの怒りの表明だ。通行のために橋の上から退かされた遺体は、魔法科学ギルドの役人に持ち去られる前に、近くの道に並べられたのだ。その中には、少年のものもあったが、他の遺体と同じように、丸太のように転がされていた。

 ゴーン、ゴーンと大時計塔の鐘が鳴る。中心街にあるギルドの建物が並ぶ通りは、静かなものだ。とりわけ暗殺ギルド……。貧民街ではヒーローでも、ここでは恐れられる最凶の存在に違いない。誰もが床に就く時刻になれば、本部になるTattionの屋敷の前を通るものなど誰もいない。夜が更けたParakronosの街は、中心になればなるほど静かになるのだ。
 だが当の暗殺ギルド本部、屋敷の執務室では、Tattionと彼の正統な跡取り息子、Stavroが会話を交わしていた。
「父上、今回の標的は?」
 直立不動の大男、Stavro。スキンヘッド、それからはち切れんばかりの筋肉に覆われた体……そして父と同じダークスーツに身を包んでいる。背の高いTattionよりもまたさらに大きい。彼が尋ねると、Tattionは意味ありげな笑みを浮かべる。
「傭兵ギルドの獣人部隊、極めて危険な思想を持つ一派。それから最も重要なのは……それに協力する冒険者ギルドの金槌級冒険者パーティの殲滅。依頼主は、冒険者ギルドのナンバー2」
 落ち着いた無表情だったStavroは、少し目を見開いた。
「冒険者ギルドの内部抗争に、我々が介入するということですか」
 Tattionはウィスキーグラスから一口飲む。白い髭を撫でながら。
「それもあるが……二つのギルドの連携による反乱の企図の可能性だ。街の平和に対する最も重大な挑戦だよ。今回の事件は、Parakronosの勢力図を変える好機となるだろう」
 そう言って、執務机の高級な椅子に身を沈める。LekaやStavroも受け継いだ超人的な体力だが……流石に66歳という年齢が年齢だ。一日の執務の疲れは誤魔化せない。Stavroはスキンヘッドをなでながら、今回の依頼を吟味した。
 二人の会話からは、今夜の暗殺が単なる依頼とは異なる、陰謀の一端である様子がうかがえた。市民からの陳情、悪徳な小悪人の処分や、ギルド間の事情で手を出せない狼藉者の排除とは、明らかに違う……。ふとStavroは、執務室の空気が動くのを感じた。
「お邪魔ーっす」
 夜の街を背景に、バルコニーに通じる窓枠から、Lekaが顔を出していた。
 Stavroは不満げに睨みつける。
「Leka、お前はいつもそうやって……父上への敬意はないのか!」
 Lekaはよっと言って、Tattionの執務机までひとっ飛びで降り立つ。Stavroよりも高い身体能力……まるでTattionの全盛期のような。Stavroは歯ぎしりする。Lekaはスキンヘッドに青筋が浮かぶのが面白かった。
「オイオイStavroさんよお、頭がカタいんじゃねーのぉ? 鍛えすぎじゃね? 筋肉もそうだけど、ちったぁそのハゲ頭が柔らかくなるといいなあ、Stavroよぉ……」
 Stavroの顔が真っ赤になる。泣く子も黙る暗殺ギルドの跡取りを、こうもバカにできる人間は、この街に他にいない。 Stavroは大きな体をLekaの方へ一歩進める。
「貴様……っ!」
 だが、Tattionが軽くウィスキーグラスを持っていない方の手を挙げて制する。
「Stavro、やめなさい」
 そしてグラスを置き、椅子から立ち上がる。
「Leka、よく戻った。今日の任務は上出来だったようだな」
 Lekaは歩み寄るTattionの前で、もっと幼い少女がそうするように、ふにゃふにゃしながら立っていた。
「にっひひ、まーね。あー、お父さん。でも……」
 Lekaは今日の出来事を打ち明けようとするが、Tattionに遮られる。
「おや、髪が濡れているじゃないか。Stavro、タオルを……」
 タオルを渡されたTattionは、自らLekaの髪の毛を優しく拭いてやる。ホワイトゴールドの長い髪は、河の水でまだ湿っていた。Lekaは照れくさそうにされるがままにしているが、幸福を感じていた。
 やがて、Tattionが真剣な眼差しで問いかける。
「Lekaよ。今回も無関係な人間はキズつけなかったな?」
 Lekaは一瞬だけ沈黙した。あの少年の顔が浮かんだのだ。しかし、彼は撃ってきた。傭兵の格好をしていた。その事実一つで、今し方感じた違和感を飲み込む。
「もちろんす!」
「不必要な苦痛は与えなかったか?」
 Lekaは調子に乗って直立して腕を後ろに組み、胸を張って宣言する。
「一撃であれっすよ」
「姿を誰かに見られたか?」
「マントかぶって一瞬でやりやした」
 Tattionは白い髭の生えた顔を綻ばせた。大好きな父親に笑顔を向けられ、Lekaは喜んだ。
「Leka、お前の仕事は完璧だった。街は平和を取り戻したよ」
 Tattionの言葉に、Lekaは子供っぽく笑ったが、またあの少年の顔がチラついた。銃を撃った後の白煙のなかの、恐怖に歪んだ顔を……。
 Lekaの瞳に、一瞬痛みの色が浮かぶ。Tattionはその頬に手を添えると、Lekaの顔をじっと見つめた。
「Leka、疲れていないか?」
 Lekaの赤い瞳が泳ぐ。
「あー……だ、だいじょぶっすよ?」
 しかしTattionは目を離さない。そしてこう語って聞かせる。
「ワシらの仕事は、時に理不尽に思えることだってある。だが、それが街を守るために必要なことなのだ。お前はそのために使命を授かって生きているのだよ」
 Tattionの言葉は優しいが、どこか冷たさを感じさせる。Lekaは、父の愛情に飢えていた。だが、Tattionが本当に求めるのは、娘ではなく、完璧な暗殺者としてのLekaだけなのだと、彼女は理解していた。気を取り直し、甘えて見せる。Tattionに寄りかかる。
「……っへへ、ボスぅ〜! 次の仕事はなーんすかぁ〜!?」
 その様子を見て、ずっと我慢して聞いていたStavroが吠えた。
「ボスに対してその態度はなんだ! このバカ女がっ!」
 Lekaはタティオンに体重を預けたまま、横目でニヤつきながらStavroを見る。
「ッケ、Stavroさーん、現場に出る人間の方がえれーんだよー! オメーさんは書類と結婚して何年だ? カラダ鈍ってんじゃねーの?」
 Stavroの顔がみるみる赤くなっていくのを見て、Lekaは挑発をより過激にする。
「ちったぁ奥さんや子供の方も気にかけてやらねえと。仕事中毒もほどほどになあ」
 Stavroの顔が、いっそう険しくなった。これまでにないほど怒りを感じているようである。
「スーっ……っフー……」
 少し息を整えてアンガーマネジメントしてから、静かに嫌味を言った。
「こいつめ……フン、小娘が。貴様など、所詮暗殺ギルドの鼻つまみもののフリークスの管理役に過ぎんわ。あのゴミどもを任されていなかったら、お前をすぐに……」
「やめんか!!!」
 Tattionの叱責が飛んだ。Stavroは慌てて口を閉じて姿勢を正す。次いで、TattionはLekaに咎めるような視線を送った。Lekaは流石に居住まいを正し、Tattionから離れ、Stavroへ向けて慇懃な一礼をした。
「へえへえ、Stavroお兄様のおっしゃる通りでございますとも」
 StavroはとにかくLekaの態度が気に入らないようで、腕を組んで黙ってしまった。
 ……腹違いの、年齢の離れた兄妹。
 そこには複雑かつ解きほぐせない想いがある。その絡まった糸の中心にいるのは、彼らの父親、暗殺ギルドのボス、今年66歳になる老暗殺者、
Tattionだった。老人は銀色のアゴヒゲをなで、ため息をついた。
「ふむ、まったく。ケンカはよせ、二人とも」
 大人しくなったLekaに、机から一枚の紙を取って渡した。
「次の任務だ。三日後、冒険者ギルドのとあるパーティを始末しろ。奴らは獣人と通じており、街の平和を乱そうとしている。細部は紙に書いてある」
 Lekaは無言でその紙を受け取った。そこには、暗殺対象の情報が事細かに記されている。
「金槌級冒険者パーティ……」
 Lekaはつぶやいた。
「この前の貴族以来の大物っすね」
 対して興味はなさそうだった。しかし金槌級は高位の冒険者。きっと、多くの市民から慕われているのだろう。それはLekaにもわかっていた。そんな人物の命を奪うのだ。哀れな市民から金を巻き上げるケチな傭兵ではなく。しかし、Lekaは考えない。先ほどの少年の顔も、もうよく思い出せない。Tattionが捕捉する。
「急ぎではないが、お前の部下たちの力が必要になる。あいつらには傭兵どもの相手を任せよう。Leka、お前が冒険者を仕留めるんだ」
 Lekaは少し間を置いて、
「うっす」
 とだけ答えた。TattionはLekaのシリアスな緊張を見てとり、安心する。舐めてかかれる相手ではないことがわかっているなら。
「標的は腐っても高位の冒険者。魔法的な戦闘力が高い。よく、司令書を読んでおくように」
 Lakaは直立不動になって宣誓のポーズをしてみせた。
「ういっす! 暗殺ギルド特命部隊リーダーLeka! 使命を拝命いたしました! 責任を持って使命を果たします!」
 Tattionは本当に面白そうに、歯を見せてハハハと笑った。
「素晴らしい。責任を自覚できるなら一人前だ。責任を負わない人間は半人前だからな」
 それを聞いたLekaは、窓へと駆け出す。
「おーっけーっす! じゃ、あの馬鹿どもに仕事だって伝えますねー!」
「Leka!」
 Tattionの呼びかけ。飛び出そうとする彼女は立ち止まり、振り返る。
「寒くなってきたからな、風邪を引くなよ」
 Lekaは穏やかな笑みを浮かべ、夜の闇に消えた。

 ……執務室が途端に静かになった。
 タティオンは窓辺に近づき、しずかにガラス戸を閉め、カーテンを戻した。執務室はふたたび、厳かな静寂の闇の中に埋もれる。Tattionは、しばらくカーテンの隙間から濃い藍色の夜空の下の、街の光を見ていた。文明がもたらす魔力の光。……こことは別世界のような。
「なあ、Stavro。自身に縁もゆかりも無い罪を引き受けて初めて人は真っ当になれる。そう思わないか?」
 Tattionは少し疲れたような声でボソリと言った。Stavroはその後ろ姿を見つめる。スラリとした姿は鉄の芯が通っているようで、今も暗殺者としての腕は衰えていない。Stavroもまた、Tattionより恵まれた体格をしているが、父親には遠く及ばなかった。Tattionは窓の外を見たまま話を続けた。
「しかしそれでいて、自分自身に咎のある罪をも忘れてしまうのが人間だ」
 実の子で、正妻の子として幼少期からずっと一緒に暮らしてきたStavroでも、父のほんとうの心根はわからない。
 さっきの、隠し子ではあるが実の娘には違いない少女との仲睦まじいやりとりも、どこまで本心なのか……。
「父上、この街の秩序は、陰に陽に、我々の手によってより正しい方向へと導かれています」
「そうだな」
 Tattionが窓の外から目を離さずに言った。Stavroが続ける。
「この私みずから鍛え上げた一般暗殺者たちも、つぎつぎと成果を上げています。それは治安維持すらろくにできない冒険者ギルドの役割すら、徐々に奪っているほどです」
 Tattionは振り返って笑顔を見せる。
「素晴らしい……なあ、Stavroよ」
「はい?」
 Tattionが息子の方へ向き直った。
「『我々』は不正義な殺しはしない。道から外れたりはしない」
 StavroはTattionのその言葉の意味を少し考える。そして、残酷な真意に気づく。
「我々は、ですね」
 Tattionのシワと銀の眉で縁取られた鋭い目には、赤い光が宿っていた。Lekaと同じ、強い魔法的な強化を受けた証の目の光だった。
「そうだStavro。あの娘のような存在は、暗殺ギルドの隠された裏の部分として必要なのだ」
 Stavroは少し薄寒いものを感じ、ごくりと唾を飲んだ。
「し、しかし……良いのですか? 彼女だって父上の実の娘で……」
 Tattionは強い視線を伏せて、ふかふかした高級な執務用の椅子に腰掛ける。六十代後半の年齢相応の疲労が見てとれた。愚痴を言い始める。
「……皮肉なものだな。ワシの身体強化魔法の血を、最も色濃く受け継ぐものが、正妻の子ではなく、男でもないとは」
 Stavroは数瞬、間を置いてから答える。
「……父上、今は個人の戦闘力の時代ではありません。このギルドの次の世代は、私の政治力と新たな暗殺者部隊で盛り立てていけますよ」
 Tattionはそれを聞き、椅子を回して窓の外へ改めて目を向けた。街ではなく、空の方へ。
「ああ。それもこれも全て、この街の秩序のために」
 街の灯りが、河の向こうにも、こちらにも、キラキラ輝いていた。全てのギルドは、Parakronosの街の守り手にすぎない。大時計塔がまた、ゴーンと鳴った。

第二章 暗殺者のお仕事

 細身の彼の手は華奢だ。同世代の少年と比べてもヤワな手が、戸を押した。室内魔光灯の明るさへと身を滑り込ませると、一気に外気の冷たさから、屋敷の中の暖かい空気につつまれ、彼は安堵を覚える。魔力炉のセントラルヒーティングは極めて効率的で、エントランスホール全体がポカポカしている。
「おかえりなさいませ、Teruさま」
 Arasis家の教育の行き届いた執事が、この家の跡取りの少年に挨拶する。彼は手を軽くあげてそれに応え、金糸の縁取りが目に眩しい外套を預けると、広間にすすむ。犬耳を生やした半獣人のメイドが合図すらなく、大きな扉を開けて中に迎え入れる。
 中では、街の評議会のメンバーの貴族たちが、夕食を終えてくつろいでいた。みなパーティ用の着飾った格好だ。ベルベットだの、シルクだの、そんな庶民には縁のない素材でできた、金銀の刺繍が施されたドレス。レースがこれでもかとつけられた広がったスカート。高く盛り上がった髪型。
 そんな華美な服装の男女が、広間のあちこちに、四人か五人ずつでソファーに座り、何やら話し込んでいる。Teruの家の広間は、普通の街区の一つのブロックに迫るほどの大きさだから、それぞれの会話は、おのおの独自の話題で華やいでいた。
「下水道の整備計画はやはり不要だったようだ! 水質浄化は成功裏に終わった! 十年にわたって街を苦しめた河の悪臭問題は解決だよ。今では誰でも清潔な飲み水を河から汲める。魔法のアーティファクトと科学を組み合わせれば、できないことはないな!」
「その成果に一番関わったのは私の研究所だ! もっと予算を回して欲しい。もう少しで進化論の実験が成功しそうなのだ。個体の成長を魔法的に逆行させた場合、獣人とエルフ、ドワーフ、人間種の共通の祖先は……」
 技術的な話題に混じって、政治の話も聞こえてくる。
「……昨日、傭兵たちがまた通りを封鎖した」
「聞いてるよ。商人たちは例によって、ろく抗議すらできないまま冒険者ギルドに泣きついたと言ったところか?」
「それがなんでも……橋は悲惨なことになったらしい……」
 だが、全てはTeruにとって興味のないことだ。政治も何もかも……どうでもいい。彼は無関係で関心も持てない会話と会話のあいだを、簡素なシャツで歩く。Teru少年は、挨拶にちょっと答えるだけで、話しかけられる話題の全てを軽くいなす。そうやって、ズンズン歩いて次のテーブルに向かう。本当は広間のいちばん向こうの壁に、一足飛びに向かいたいが……。結局、目が合ったすべての来訪者に挨拶した後、Teruは目的の場所に着く。
 そこには十人程の女性が人だかりを作っていた。輪になって、一人の大柄な男性を囲んでいる。大きな背丈、盛り上がった筋肉とガッチリした骨格、精悍な男らしい顔つき。はっきり言って、息子と似ている部分などない。ただ一つ、その瞳の色と髪のツヤだけが瓜二つなのだ。Teruと同じ、はっきりした色でかがやくブロンド髪……。
「ふふふ、Arasis卿のお話、本当に面白いですわ」
 これでもかと金の装飾が入った白いドレスの貴婦人が言う。みんな場所を争い、この屋敷の当主である精悍な男の椅子にしなだれかかっている。別の、舶来品の扇子を持った女性が言う。
「さすが、16歳で魔光灯を発明したお方……刺激的な才能です」
 みな、色とりどりのドレスに身を包み、社交辞令ではない笑顔を、真ん中の男に惜しげもなく見せている。夫がいる者も、いない者も、みんな彼にゾッコンだ。
「フン! 私の才能など大したハナシではない。重要なのは、この偉大なるParakronosの文明が、人類の最先端を行っていることだよ」
 Ludvic Arasis。この屋敷の当主にして、この街で今いちばん注目されている、魔法科学ギルドの評議会メンバー。彼は知性と自信に裏打ちされた、低い声の早口で言う。
「我々の文明は、異世界から伝えられた技術発展スケールで言うと、すでに19世紀前半相当、部分的には20世紀初頭相当の生活を手にしていると言われるのだ。他の平行世界と比べても、その発展速度は目を見張る……。誇っていい。そして我らの魔法科学文明は、さらにその先を目指して……」
「それは中央街区だけの話だろ?」
 急にさえぎられて、Ludvicも、それを囲んでいる貴婦人たちも、驚いたように目を向けた。
 ……さえぎったのはTeruである。
 少年は輪の外で父親の話を聞いていたが、女性たちの背中越しに発言したわけだ。貴婦人たちが道を開けてやる。Teruはその場に立ったまま青い瞳を父親に向ける。椅子に足を組んで座るこの家の当主に。他ならぬ、Teru自身の父親に。その視線は、Teru本人としては、敵意を込めて、めいっぱい力強く投げかけたつもりだったが……。百戦錬磨の貴族、父Ludvicは軽く受け流してしまう。同じ青い瞳で……。
 婦人たちの視線は、Teruにじっと集まる。まだ16歳の少年は、父親も、貴婦人も、苦手だ。一瞬たじろいだ。
(引いたら、ダメだよね)
 ……しかし喧嘩を売る形になったのは、Teru少年の方だ。臆する自分を奮い立たせて言葉を続けた。
「ねえ、父さん。貴族やギルドの有力者ばかり住むこの区画の文明度がなんだって?」
 軽い調子の息子の言い方を、Ludvicは椅子に腰掛けたまま、じっと聞いた。組んだ足も、ゆったりと肘掛けに置かれた手も、ぴくりとも動かない。感情が読み取れないことにTeruは少なからず動揺した。しかし話を中断するわけにもいかない。
「父さん。近くのものしか見えてないよ、あなたは。貧民街にはまだ魔力の光だって行き渡ってないのに。コレでこの街の文明がなんだって? この大時計塔の麓、この街の中心で、ふんぞりかえってるだけじゃないか」
 ……数瞬、その場を沈黙が支配した。Teru少年はその沈黙にすら怯んだ。そのことに対して少々情けなさを感じた。
 彼の父親はソファーに深く腰を落としたまま、かるく手を挙げた。奇術師の卓抜した芸でも見たような、おおげさな身振りでキョロキョロと、まわりの婦人たちを見てから、こう言った。
「ご覧、我が友たちよ。我が息子は立派に成長している! その証拠に、ちかごろ流行りの『富める者の罪悪感』なるものにきちんと罹患しているぞ!」
 そこまで言って、真面目な顔で指を一本立てた。
「おっと、勘違いしてくれるなよ? 性病ではないぞ? 真面目な童貞が罹る、聖なる病だよ」
 その場に、一際大きな笑い声がケラケラ起こった。婦人たちの、本来の高貴な笑いではなく、本当に可笑しいと思っている時の、下世話な話が好きな者のバカ笑いだった。
 Teruは、自分を嘲り笑われたことなどどうでもよかった。父親が実の息子をネタにして下品なジョークを言うことなど、いつものことだ。
(社交界というやつは……)
 Teru少年とて、こういう社会をそばで見ていて長い。自分のような若すぎる小童が、唐突に真面目なことを言おうと、脈絡なく馬鹿なことをしようと、敵いやしない。何をしても笑いダネにしかならないことくらい、わかっているのだ。彼はこれら貴族の婦人たちを、苦々しく見つめた。16歳の少年は、この社交の場に居場所はないらしい。
 彼の父親、Ludvicは、ソファーから立ち上がる。立ち上がると背が高い。貴婦人たちの上に盛った髪型の中ですら、カールした金色の長髪は、さらに高く上に飛び出た。Ludvicは、むっつりと口を閉ざす彼の息子に歩み寄った。態度の大きさの違い、背の高さの違い、胸板の厚さの違い、腕の太さの違い……。見た目からして、もう父子のあいだの力関係は明らかだ。
 同年代と比べても華奢なTeruはせめて、言葉で反抗するしかない。TeruはLudvicの目を見る。自然、見上げる形になる。
「父さん。僕はあなたとは違うんです。僕は街の未来なんか想像できない。家の財産を適当に貧しい人に配って、あとは自分のできる範囲のことだけでテキトーに生きる。大きな責任を背負えるほど、僕は神経太くないし」
 沈黙がある。Teruは少し怯み、強い視線を投げかけるしか無かった。唐突に、彼の細い肩に、父Ludvicの、分厚い男らしい手が置かれる。優しい感触だった。
「Teru、今からあまり考えすぎるもんじゃない。お前の気持ちはよくわかっている。全員を救いきれないことに絶望しているのだろう? だが、救いは……まだまだ遠い。すべての人を満足させることなど、まだ我々の文明にはまだ遠い未来なのだよ」
 Ludvicの声は低く、しかし力強かった。Teruは父の言葉に反論したかったが、どこか諦めにも似た気持ちがよぎる。Teruの視線はLudvicの眼差しへの抵抗をやめ、絨毯の敷かれた床へと落ちていく。Ludvicは務めて優しい口調で語りかける
「お前は私の後を継ぎ、いつかこの街の指導者になるのだ。そのためにはまず、文明の現状を理解せねば。河の水質は浄化されたし、夜道は明るくなったし、これでもかなり我々はうまくやっている方なのだぞ?」
 Teruは反論できない。それには同意するしかなかったから。LudvicはTeruに顔を近づけ、周りの婦人たちに聞こえないように小声で言った。
「お前にもいずれわかる。他人はMarionetteに過ぎない。人形用の吊り糸や繰り糸でしかコントロールできないんだ。あの暗殺ギルドのStilettoも含めてな」
 Teruは父のその言葉を聞くと、肩の大きな手を払いのけるように、一歩後ろに下がった。
「……父さん、僕は父さんの後継者になんかならない。この都市を導く責任なんかまっぴらだ。僕は僕で勝手にやらせてもらう。そういう面倒なのは評議会の合議でやってよ」
 そう言い残すと、Teruは踵を返す。背中越しに父の声が聞こえる。
「いいや、お前は私のようになりたがるさ。自分からそう言うだろう」
 人混みをかきわけるように広間を出ていった。背中を追っているだろうLudvicの眼差しが、Teruは突き刺さるように感じられた。
 Teruは中庭に出た。星明かりの月夜に、巨大な大時計塔の黒い影が見える。Teruは足元も見えない中、芝生の上をいく。屋敷は極めて広大な敷地を持ち、敷地が限られているParakronosの中心街に、大きな存在感を放つくらいだ。街の中心、大時計塔も間近なこの巨大な貴族の領地で、Teruは小さな城しか持っていない。彼は広大な芝生の上を横断し、屋敷の片隅にある、自分の隠れ家めいた場所に向かう。廃屋になっていた、古い庭師用の物置を改造したそこ。彼の秘密の空間だ。ほとんど見えない中、手探りでドアを開け、魔光灯のスイッチを入れる。白い光に浮かび上がった空間は、雑然としていた。ガラクタや機械がごちゃごちゃと並ぶ前で、彼は息をつく。
 ここでなら、誰にも邪魔されない。望まない未来から逃れられる……はずなのだ。しかし、彼は工房の徒弟が着るような、機械油が染み込んだ上着とエプロンがかかった壁の前で立ち尽くす。いつもならすぐに貴族としての見栄でしかない高級なシャツから着替えて作業に取り掛かるのだが……。
 作りかけの工作機械が散らばった作業机の前まで来て、両手をついて見渡す。
(河の水質浄化に、夜道が明るくなっただって?)
 Teruは父親の言葉を思い出しながら、自分の成果を見渡す。歯車に、ゼンマイに、初歩的な電気モーター。超常的な魔法科学文明を先導する発明王の息子にしては、ずいぶんとまあ……。Teruは言いようのない苛立ちを感じ、拳を振り上げた。その時、小屋の上にある灯り取り用の窓が、ぎーっと開く音がした。……それは、彼女が来た合図だった。
「Leka!」
 Teruが見上げる前に、暗殺者の少女は床に降り立つ。ふっと音もなく、両足のバネで衝撃を吸収した。白い金色の髪に、真っ赤な瞳。そしてイタズラっ子っぽい笑顔。
「よぉ、Teru、しけたツラしてどーしたんだよ」
 Teruはため息をつく。
「ねえ、Leka……せめてドアから入るとかさあ……」
 LekaはTeruを放ってキョロキョロあたりを見渡す。
「掃除しろって言ってんのに掃除しねーなあ、オメーは。ホントに貴族かよ」
 薄い色の長い金髪を後ろで束ねて、黒いコスチュームに、目立つ赤い瞳。Lekaは、勝手にTeru手作りの簡易ベッドの上の荷物を投げ始める。
「ね、ねえ! やめてよ!」
 Teruは慌ててそれを拾い集めたり受け止めたり……脱いだままに下着まで放られてくるので参ってしまう。Lekaは寝転がって、枕元のTeruの本をペラペラめくった。流行りの冒険SF小説である。気に入ったらしく、うつ伏せで読み始めた。目を落としたまま、鼻歌なんか歌いはじめた。
 Teruは散らかされたものを片付けつつ、ちらっと寝転ぶLekaを見る。うつ伏せに寝転がったスレンダーな幼馴染のすがた。ぴっちりしたボディスーツは、腰のベルトポーチや、革の胸当てに隠れた曲線を想像させる。その姿はまるで、気ままな猫が日向ぼっこをしているかのようだ。Teruは意識して目線を逸らす。
(ああ……疲れてるんだ、僕)
 そう思いながらも、TeruはLekaの姿に、ほんの少し癒されるのを感じていた。けれども、そんなTeruの心の隙間を見逃すはずもなく、Lekaは不意に手を伸ばし、ベッドの下に着替えを押し込んもうとかがんだTeruの首をつかんだ。
「ひいっ!?」
「おーい、Teru坊? 体温低いぜ? 外はまだそこまで寒くねーだろーが。疲れてんだろー? ちゃんと休み取ってんのか?」
 からかうようなLekaの声に、Teruは思わず尻餅をつく。
「お、おい! やーめーろーよー! 慎めよ!」
 そう言いながらも、Teruは内心、Lekaの気遣いがうれしかった。沈んでいた気持ちがどこかへ吹き飛んでしまった。けれどもLekaはどこ吹く風。ベッドに寝転がったまま、へっへっへと高笑いを上げている。まるで、Teruの反応を愉しんでいるかのようだ。
 そんなLekaの態度に、Teruはつい本音を漏らしてしまう。
「……Leka。また父さんと言い争いになってさ」
「ふーん」
 Lekaは興味なさげで本を読んでいたが、反応を返してくれることを期待して、Teruは愚痴を言い続ける。
「父さんは急ぎすぎてるんだ。街は発展してるけど、矛盾はどんどん大きくなってる。振り落とされる人が多いんだ。食料ですら、全員には行き渡らない。でも、僕は、父さんのやり方は好きじゃないけど、Tattionさんのやり方は好きだ。あの人こそ街の平和を実際に守ってる人なんだ。父さんは、貧しい人たちを無視しすぎだよ」
 その言葉に、Lekaは手に取っていた本から顔を上げ、
「そーかい」
 と意味ありげに笑みを浮かべた。途端に、Teruは今しがた自分が言った本音が恥ずかしくなってくる。頬がかっと熱くなるのを感じながら、
「なんだよ、ニヤニヤして……」
 とつぶやいた。真面目に聞いてくれなかったことに、Teruは少し拗ねたような気分になっていた。そんなTeruの様子を察したのか、Lekaは素早く起き上がると、勢いよくTeruに抱きついてきた。身体能力で遥かに劣るTeruは、その勢いをまともに受け止めることができない。
「あっ! こーら! Leka姉ちゃん、頭撫でるな!」
 Teruの制止の声も虚しく、LekaはTeruの綺麗に手入れされた髪をわしゃわしゃと容赦なく崩す。
「Lekaお姉ちゃんはうっれしーぜー! 愛しのTeru坊やがこんな立派に育ってさ!」
 Lekaの腕力は強靭で、抵抗むなしく、Teruは身動きが取れなくなってしまう。本気で力を込めても、Lekaの拘束からは逃れられない。それは生まれもった力の差であり、Lekaの持つ特別な能力でもあった。
 赤い瞳の力……。
 観念したTeruは、豊かな金髪を撫でられるがまま。LekaはTeruの頭に顔をくっつけ、やりたい放題だ。
「あー、Teruの匂い摂取〜」
 鼻先をTeruの髪に押しつけて、大げさに匂いを嗅ぐ仕草をしてみせる。
「やーめーろーよ!」
 Teruが本気で拒絶の意を示すと、さすがのLekaも観念したのか、ようやくTeruから手を離した。ようやく自由の身となったTeruは、ほっと一息つくと同時に、髪を戻しながら、非難がましい面持ちでLekaを見つめる。
「ったく……慎めよな」
 少し照れた様子のTeruを見て、Lekaはおかしくてたまらないといった様子だったが、ふいに真剣な顔になる。
「Teru、ホントさあ。嬉しいよ。あーしは。頼もしい。お前が街の面倒を見てくれる立場になってくれりゃあ……」
 Lekaはそう言いかけて、言葉を切った。うつむいたその眼差しには、一瞬、喪失感のようなものが浮かんでいた。それを見逃すはずもないTeruは、思わず眉根を寄せる。しかし、Teruの決意は固い。
「悪いけど、僕はそういう仕事はしないよ。技術屋になるんだ。父さんみたいに、政治も発明も、なんて。できるわけないさ」
 Teruの自嘲気味の言葉に、Lekaは小さくため息をついた
「どーだか」
 明るく振る舞って見せるLekaだったが、どこかその瞳の奥には影を宿している。Teruにはそれが見えた気がした。
(Leka、今日、少し落ち込んでる?)
 ふと脳裏をよぎったその思いは、まだ確信には至らない。けれど、Teruの中にもやもやとした感覚を残した。Lekaとは幼馴染であり、何でも打ち明けられる仲のはずなのに、どうしても聞き出せないことがある。二人の置かれた立場が、それを阻んでいるのだ。Teruは、ベッドの上のLekaに歩み寄った。
「……Leka、何か悩みがあるなら、僕に話してくれていいんだよ? 僕だって愚痴をこぼしてるんだから」
 Teruがそう切り出すと、Lekaは驚いたように目を見開いた。だがすぐに視線を逸らし、ベッドから立ち上がる。そして唐突にTeruに向け、拳をさっと掲げた。Teruはとっさに両手が綺麗にセットされた金髪の頭をさっと覆う。
「やーめーろーよー、Leka姉ちゃん! お前怪力なんだからそういうのやめろよなあ!?」
 レカは拳を下ろしてケラケラと笑った。
「あっはは、まーだ子供でやんの」
 Lekaの唇が嬉しそうに開き、白い歯のスキマから笑い声が漏れた。Teruは、自分より背が高いこの幼馴染みを見た。小さいさい頃からまったく頭が上がらない年上の幼なじみの顔を。まるで猛獣の様子でも伺うようにそーっと覗き見る。魔光灯の光に、レカのイタズラっぽい笑顔が輝いていた。
「ね、ねえ、Leka。僕だって隠し事の一つや二つくらいあるけど……」
「ふーん、隠し事ねえ」
 Lekaはさっとベッドの本を掴む。奥の方にあった、表紙がなくてボロボロになった古本。それはガリ版刷りの、貧民街で手に入れた、Teruの秘密の……。
「あ! バ、バカ! それはやめてくれ!」
 Lekaは取り押さえようとするTeruを足で絡め取って抑える。足による首絞め、TeruはLekaの太く弾力のある腿で締め上げられ、呻き声を上げながらLekaの膝を叩く。
「Leka、し、死ぬう……」
「ふーん。こういうの読んでんだ」
 Lekaは十分それを堪能すると、Teruにかけた締め技をとき、本を戻した。Teruは本気で苦しそうに顔を赤くしながらゲホゲホ言っている。
「おまっ、くっ……グフ……」
 Lekaはカラカラ笑った。
「オネーサンの隠し事が知りたいって? ひーみーつー。大人の世界はまだガキにははえーのー」
「あ、あんたもまだ18で僕より2歳しか上じゃないだろ……」
 Lekaは肩をすくめてみせる。心底嬉しそうだったが……。しかしその表情は、すぐに影を帯びる。絶対に、何かを隠すために明るく振る舞っている。Teruはそう確信した。だが何か言う前に、Lekaは上を向いた。また天窓から出ていく気だ。
「……もう行かなきゃ。オメーさんに用事がある人がいるみてーだしな」
 Teruは首をさすっているが、平静を取り戻したようだ。
「ふう……。Leka……疲れてたり、しない?」
 Lekaはビュッと音を立て、梁へと飛び上がって、天窓から出た。そして室内のTeruを見下ろして、こう言った。
「何があってもな、やりきらなきゃいけねえんだ。割に合わねえんだよ、生きるってことは」
 それだけ言い残して、窓が閉まり、覗く顔が消えた。後には、闇夜があるだけだ。
「Leka……」
 Teruの目には、最後に見せた表情には、寂しさが溢れているように見えた。残されたTeruの胸には、言葉にできない虚しさがこみあげてくる。
 そのとき、静かにドアがノックされる音が部屋に響いた。
 Teruがどうぞ、と言う前に、入るぞ、と聞こえた。Ludvicだった。Lekaの他には、父くらいしかTeruの秘密基地を訪れる人はいない。Lekaは大体上の窓からだから、ドアからなら父だ。
 Teruが許可を出す前に、ドアが開く。手にしていた携帯魔光ランプを消す。
「幼馴染は帰ったようだな」
 Teruが何も言わないでいると、Ludvicは部屋の中を見て回った。コツコツと木製の床の上を革靴が歩き回る音だけが聞こえる。Ludvicは机の上のTeruの工作を手に取り、ちょっと目を配った後、戻す。Teruの自信作の錠前だったが……。Teruは別に変わったところもないその仕草、その視線に、なにか侮蔑的な扱いを受けているような気分になる。
「Teruよ、あの娘のことはどう思っているんだ?」
「どういう意味だい?」
 TeruもLudvicも、相手を見ずに言った。Ludvicは少しうーむと唸って、
「暗殺ギルドとの繋がりは、政治的に利用価値がある。だが、表立っては関われない」
 そう言って、Teruを見た。いつもと変わらぬ力強い青い目が、Teruに気圧されたような印象を与える。
「あれがお前が操る人形であることを忘れるなよ」
その冷酷な言葉に、Teruは怒りを覚える。
「Lekaは、僕の大切な友人だ。人形なんかじゃない!」
「友人?」
 Ludvicの声は低くなった。その声には強い力があり、Teruはぞっとするような冷たさを感じた。
「Teru、笑わせるな。やつはStilettoだ。使い捨ての道具に過ぎん」
 そしてLudvicはTeruに詰め寄る。Teruは困惑する。あんまりな言い方だが、父親が言うからには何か根拠があるはずだった。Ludvicはさらに続ける。
「いいかTeru、あれはやがてお前の役に立つ存在になる。その時には、あくまで君の意のままに動く、Marionetteであり、Stilettoでなければならないのだ。他の全ての人間がそうであるように」
 Teruは激しく首を振った。親友をそんな風に扱えるはずがない。
「そんなことできるわけないだろ! Lekaには、Lekaの人生がある。僕にだって僕の人生が……」
「フン、くだらん感傷だ」
 Ludvicが遮るように言った。そしてTeruに背中を向けて言う。
「あの娘に人生があるわけあるまい……本当は、お前も気づいているんだろう?」
 Ludvicにその物言いに、Teruは言葉を失う。言っている意味がわからない。
「父さん……どういう意味?」
 Ludvicはため息をついた。Teruは意図が分からず困惑する。
「Teru。誰も運命からは逃れられんのだよ。特にこの街においてはな。……私はお前のためを思って言っているのだ。いずれわかる時が来るだろう」
 低い声は、まるで魔法をかけるように響いた。Teruは唇を噛み、俯いたまま黙っている。Ludvicはそんな息子の様子を見て取ると、
「そうだ、なかなかいいものを作るじゃないか。もう工房に出入りしてもいいぞ。工作機械を好きに使うといい……」
「いや、遠慮するよ」
 Teruはピシャリと拒否した。Ludvicは黙って部屋を出ていった。残されたTeruの脳裏では、Lekaの笑顔と、父の忠告が交錯していた。白い魔光灯の中で、思いは堂々巡りになるばかり。
(Lekaは、道具なんかじゃない。僕の……大切な友達だ)
 だが、Ludvicの言葉は、彼の中に冷たい事実をつきつけていた。二人の世界は、所詮交わることのない、異なる運命を歩んでいるのだと。
 Teruは金色の髪をかきむしったあと、ドアを開けて外へ出た。無駄にだだっ広い中庭には誰もいない。見えるのは、月明かりと、屋敷の窓から漏れる灯りだけだ。父はとっくに自室へ戻っている。
 空を見上げた。闇夜にぼんやりと浮かび上がる大時計塔の黒い輪郭。そしてはるか上、首が疲れるくらい天を見上げないと見えない高さに、浮かび上がった文字盤が見える。周りの星灯りの中で、それは神々しい不気味さでTeruを含む街の全てを見下ろしていた。このParakronosの街の中心、未だ解き明かせない、正体不明の巨大な存在。この街は、この人が作ったわけでもない存在の周りに作られたのだ。Teruはめまいを感じて、自分の工房に戻った。中に入ると、魔光灯を消して、手探りでベッドに潜り込む。天井から月の柔らかな光が入る中、彼はLekaの匂いを感じた。
(Leka……僕は、一体どうすればいいんだ……)
 Teruは幼い頃のことを思い出しながら眠りについた。LekaとTeruは、この中庭でよく遊んだ記憶がある。Tattionが連れてきていたのだ。だが、16歳になり、世の中が、街の政治が見えるようになった今ではわかる。あれは、陰謀の相談の会合だったのだ。Teruは追いかけっこで、絶対にLekaには追いつけなかったのを思い出した。Teruが泣き出すと、Lekaは必ずわざと捕まってくれた記憶も……。
 だが、その心を明かしてくれたことは、一度もなかった。Teruの話は聞いてくれるのに、Lekaは、どんなに泣きそうな時も、絶対に泣かなかった。Teruはそこに、張り裂けそうな思いを感じる。Lekaは、ただ一人の……。

 翌日の夜。Lekaは暗殺ギルドの本部にいた。古びた石造りの建物の壁を登る。正面からは入れない。極秘任務は、暗殺ギルド内部の人間にも知られてはいけない。いつものようにバルコニーの窓からTattionの執務室を覗き込む。薄暗い部屋の中央で、Tattionが一人で書類に目を通している。Lekaは嬉しそうに顔を輝かせると、音も立てずに開けてあった窓から飛び込んだ。
「父さん、来たよ!」
 Lekaは明るい声で言った。Tattionに会えるだけで、心が弾むようだ。しかも今日は久々の二人きりだった。数少ない機会……。Tattionが顔を上げ、娘を見る。
「ああ、Leka。よく来た」
 その目は、Lekaには温かく感じられた。彼女はピョンとTattionのそばまで寄る。
「今日は何の用? 任務?」
 Lekaは目を輝かせて尋ねる。任務といえば厄介なものが多いが、Lekaは全てを父のためだと思っていた。Tattion微笑みながら言った。
「金槌級冒険者パーティに動きがあった。姿をくらましたらしい。Leka、任務の実行の時だ」
 Lekaはすぐに真剣な表情になる。
「……場所は掴めてるんすか?」
 Tattionは書類をめくってそれを見ながら、
「貧民街の廃屋だ。我々のネットワークの中でよかったよ。奴らの目的は反乱だ。もはや一刻の猶予もない。傭兵ギルドの部隊にも……妙な動きが確認されている。そちらにはお前の部下を当たらせろ。お前は金槌級冒険者パーティを狙え」
 Lekaは素直に頷く。
「……わかった。やってくる」
 笑みを浮かべながら力強く答えると、Tattionも頷いた。Lekaの背中をポンポンと優しく撫でてくれた。
「お前はStilettoだ。我が刃。街を守るために戦うのだ」
 Lekaは殺しの任務の前だというのに、安らいだ顔をする。その大きな手のぬくもりに、Lekaは幸せを感じる。
「うん、父さん。任せて」
 Lekaは精一杯の笑顔を見せた。Tattionに褒められたい。愛されたい。その想いだけが、Lekaを突き動かしていた。

 窓から出ると、任務のことを考えながら、ふとTeruの顔を思い出す。優しく微笑む、あの青い瞳。自分を友だちだと言ってくれる、唯一の存在。
(Teru。街の平和を守ることへの責任について、いつか一緒に話せるといいな)
 心の中でつぶやきながら、Lekaは暗殺者の顔を取り戻す。戸惑いは弱さだ。父を信じ、従うことこそが、自分の責任だと自覚していた。
 Lekaは決意を新たにすると、屋根の上を走り出した。闇に溶け込むように、音もなく。今はただ、対象を始末することだけを考えるのだ。
 月光が隙間だらけの廃墟の屋根から漏れ、彼に顔を微かに照らす。閉じていた瞳が開き、緑色に光る。真の暗闇に、声が響いた気がした。しかし周囲には誰もいない。ただ、緑に輝く剣を抱え、緑の瞳を持つ魔法剣士が今し方眠りから目を覚ましただけだ。彼の緑色の瞳は魔法的才能の証。心の中で声が聞こえる。
「Elyon、起きて。まずいよ」
 魔法感応……一部の冒険者だけが使える、一種のテレパシーの声。Elyonは返答する。
「Ruuli? 何が?」
 頭の中の、頼れるパーティメンバーにして、愛する恋人の声は、焦りを帯びていた。
「ここに近づく人がいる」
 その言葉に、Elyonは一気に目が覚める。廃墟の外に意識を集中させると、確かに人の存在を感じた。姿、足音、臭い、あるいは体温まで……。そういった一切の物理情報が得られなくても、彼の魔法感覚は生物の存在を感知できる。正確な場所はわからないが……。
「……暗殺者か」
 Elyonは剣を握りしめ、静かに立ち上がった。自分たちを始末するために送り込まれたに違いない。覚悟はしていたが、こんなに早いとは思わなかった。
(貧民街に身を隠して二日だぞ? 暗殺ギルドか……一体どこまで把握されているんだ?)
 天井の崩れた部屋のドアを開け、階段を降りた。半地下の倉庫にいるRuuliに合流する。放置された木箱の間で、彼女は魔法陣を描き終え、その中心で精神統一を開始していた。彼女は顔を上げ、Elyonと目配せをする。Elyonは近寄って、愛する彼女の髪を撫でた。根本から毛先にかけてグラデーションがかかった薄いベージュの髪。そしてそこから突き出るエルフの血を示す長い耳。彼女の紫の瞳はパーティのリーダーであり婚約者であるElyonの緑の瞳を見つめ、信頼の輝きを放つ。
「Elyon、大丈夫。詠唱が完了すれば、どんな相手でも……」
 Elyonは頷いた。
「Ruuli、お前の魔法は冒険者ギルドでも最強だ。絶対に生き残るぞ」
 Elyonの言葉に、彼女は微笑んだ。事前の計画通り、魔法陣のあるこの部屋で迎え撃つことにする。Elyonは今一度倉庫内を確認する。窓のない半地下の倉庫……。光源はRuuliの魔法だけ。木箱が邪魔だったが、運び出す時間はなかった。だが広さは戦闘には十分だ。ぼうっと浮かび上がった二人の顔は、不安と緊張を示すが、同時に自身にも溢れていた。
 ドン!
 その時、木製のドアが弾け飛んだ。突然のことだったが、Elyonは対応する。魔法の剣を一振り。飛んできたドアは、魔法の波動で真っ二つになった。しかし……誰も姿は見えない。Elyonは見回すが、侵入者の影すら見えない。魔法感覚でも位置は不明。RuuliはElyonを信頼し、呪文詠唱を再開している。
「……Elyonに、Ruuli。金槌級冒険者の裏切り者だな」
 どこかから声がした。
「何者だ!」
 女の声だ。Elyonが剣を構えて問う。
 「俺たちに何の用だ!? 俺たちは正しいことをしているだけだ!」
 Elyonの叫びに、女の声は不真面目な調子で返答する。
「あーしに命じられたのは、反乱者のオメーらを始末することだけ。それ以上のことなんて知ーらね」
 そして、黒い影がRuuliに迫った。Elyonは剣を振い、波動を飛ばして迎撃した。黒い影はすぐに飛び退き、また魔法のぼうっとした灯りの外、闇の中に紛れた。魔法陣の中の術者は無防備だ。詠唱中の護衛は彼の仕事。慣れたものだ。
「ならば聞け! 冒険者ギルドは、Liminal Dungeonのアーティファクトが枯渇していることを隠し、不正を働いている! それを正そうとする俺たちを、邪魔だと言うのか!」
 その言葉に、一瞬、沈黙があった。だがすぐに声が聞こえる。
「……関係ない。あーしは命令に従うだけだ」
 次の瞬間、Elyonの緑の瞳がやっと敵を捉えた。ホワイトゴールドを長い髪の中に、赤い瞳が見えた。
(赤い瞳! 身体強化系か!)
 噂で聞いたことがある。暗殺ギルドの赤い瞳の暗殺者の噂……。それはまさしくLekaのことだ。Lekaは瞬時に距離を詰めていた。短剣、暗殺用のStilettoが煌めき、鋭い斬撃がElyonの首元を狙う。とっさに剣で受け止めるが、その衝撃に腕が震える。
(強い……!)
 だが、Elyonも金槌級の実力者だ。すぐに反撃に転じ、剣を振るう。Lekaは宙を舞うように身をひるがえし、攻撃をかわしていく。
 そのとき、背後から魔法の光弾が放たれた。Ruuliの援護だ。普通の暗殺者なら一撃で倒れるほどの威力だが、Lekaは難なくそれを切り払う。まるで魔法を見切っていたかのようだ。そして壁を蹴って再度闇の中へ紛れた。
「くっ……」
 形勢不利を悟ったElyonは、Ruuliを完全に守れるように後ずさる。それを援護するように、Ruuliが光弾を放つ。パパパッ、と、倉庫内の木箱が砕け散るが、敵の姿は見えない。だが牽制にはなったようだ。Elyonは大きく剣を振りかぶった。そしてRuuliも、詠唱を終えた。
「はあっ!」
 二人の魔法が合わさった渾身の一撃が繰り出される。これが彼らの作戦。金槌級の彼らの持つ最大の攻撃。この部屋に刺客を引き込み、全体魔法で一網打尽にする……。敵が一人だけだったのは計算外だが、この実力の暗殺者を殺せるならお釣りが来る。
(避けられまい……!)
 だが、魔法の波動が倉庫に満ちたと思われた瞬間……。
「っ!?」
 Elyonは、自分の胸に強い衝撃を感じた。
「ま、まさか……」
 Elyonの絶望の声がこだまする。次の瞬間、鮮血が豪雨のように舞った。Elyonの胸から、真っ赤な血が噴き出す。
「が……は……」
 Elyonはよろめきながら、呆然と自分の傷口を見つめる。胸骨が抉られ、心臓を突かれている。致命傷だ。もはや助かる見込みはない。Ruuliに方を振り向くと、そこにはさらに絶望的な光景が……。Ruuliの姿があった。倒れている。短剣に心臓を貫かれ、ぐったりと。
「Elyon……ごめん……なさい……」
 震える声でつぶやくと、Ruuliは息絶えた。Elyonは悟った。彼ら最大の攻撃が成立しなかった理由を。詠唱が完成しないまま、倒れてしまったのだ。
「Ruuli──────っ!!」
 Elyonの絶叫が、虚しく夜空に響く。だがもうそれだけだ。今の絶叫で力尽きたのか、彼は両膝を硬い石の床に突いた。愛する人を失った絶望が、心を引き裂いていく。
「どうして……どうしてなんだ……」
 力なく呟くElyon。その前に誰かが姿を現す。Lekaだった。Elyonは初めて自分たちを殺した人間の姿を見た。美しい女だった。赤い瞳が、ひざまづいたElyonを見下ろしている。彼は血まみれの手を伸ばす。震える指から血が滴り、Lekaの頬に触れる。
「俺たちは、ただ……正しいことを、しようとしただけなのに……」
 その言葉に、Lekaの表情が一瞬歪む。だが、すぐに冷たい面持ちに戻ると、容赦なくElyonの首に手刀を喰らわせた。骨の砕けるゴキっというおとがした。
「がは……」
 ゴボゴボと口から生々しい音を立てて、Elyonは崩れ落ちる。最期の力を振り絞り、Ruuliに手を伸ばす。けれど届かない。まだ意識がはっきりしているRuuliが、苦しみに耐えながら言った。
「Elyon……。ごめん、なさい……こんなことになるなら……止めてあげれば……」
 Lekaは無言で、二人の体を見下ろしている。魔法陣の光がだんだん消えていき、真の闇がやってきた。Lekaはしばらく闇の中でじっとしていた。任務は完了した。だというのに、胸の奥に重苦しいものを感じる。Lekaの中でなにかが渦巻き、心を掻き乱していた。
 深く息を吸い、また吐く。背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 Lekaは踵を返すと、蹴り破ったドアから外へと静かに消えていった。残されたのは、闇の中、愛し合った者同士の哀れな亡骸だけだった。

 夕陽を街が浴びる。大時計塔の影が、街に落ちる。さながら巨大な日時計のように、赤い光の中に、巨大な黒い輪郭が、街の一角を覆う。暗殺ギルド。その屋敷は意図的にその影になる部分に作られている。夕刻に、ひと足先に真の闇がやってくるように。あまり夜にこの屋敷に近付く怖いもの知らずは少ない。だがそれでもやってくる街の住民のため、門戸が開かれていた。早めに屋敷が周辺だけ夜になるのは、人を殺す依頼をする罪悪感を、隠しやすくするためなのだ。
 ……Tattionの執務室はいつも、照明を蝋燭だけにしていて、薄暗くほとんど見通せない。落ち着いたチラチラする灯と、夕刻の消え去りつつある陽光だけで仕事をしていた。今日は、成金同士のいざこざについての依頼だった。Dungeonから掘り出されるアーティファクトの流用。魔法科学ギルドの発明。急速に技術発展をもたらす存在が、この街には多い。中央ではいまだ金貨の両替にも困る有り様だというのに、この街だけ資本主義らしきものが成立していた。
「我々が売るのは死だけだ。暴力による脅しを買いたいなら傭兵ギルドへ行け」
 Tattionは、とりつく島もなく、今日の来訪者をあしらう。新興の実業家だったが、暗殺ギルドを、金を積めばなんでもしてくれる、汚い便利屋だと思っていたらしい。正義に基づく死を提供する、畏怖すべき街の裏の支配者としてではなく。Tattionが最も嫌う連中に、よくある勘違いだった。よく肥えて、街の外の工芸品である、見慣れない宝石を身につけた実業家が依頼人だった。何度頼んでも無理だと悟ると、Tattionの執務机の前の椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、捨て台詞を吐いてやろうと腕を振り上げた。Tattionは気にしなかったが、部屋の闇に紛れていた大男は看過しなかった。
「ひいっ!?」
 スタヴロは、実業家の背後に音もなく一瞬で移動し、その肩を掴んだ。部屋の空気が一変するような冷気が、脂肪をまとった体を覆い、一瞬で凍らせるようだった。何も言えなくさせる。実業家は、恐る恐る振り返る。スキンヘッドの屈強な大男が微笑んでいた。
「出口はあちらです」
 金にはなるにせよ、名誉にはならず、恩を売る価値のある相手でもなかった……。くだらぬ客が帰ったあと、二、三、貧民のとある地区の代表の嘆願があった。それを丁重にもてなし、ギルド側にも利益がある形で解決を約束する。Tattionは依頼を受けるのを終わらせた。まだいたはずの依頼者も、暗殺ギルドの屋敷の闇のなか、いつまでも待つことを好むものは少ない。もはや夜の帳が完全に降り、窓の外は真っ暗だ。革製の大きな椅子に沈み込むTattion。隣にスタヴロが来る。父の代わりに書類を整理して、今日の陳情や依頼の様子をまとめていく。
「父上、最近、くだらない復讐の依頼が多いですね。依頼者に『理』も『義』もない」
 Tattionは肩をすくめる。
「本来は当然だ。復讐は女や酒より気持ちがいいものだ。つまらん復讐の依頼が基本だ。だが我々はすでに選り好みできる立場だ。街のためにならない依頼は、お断りさせていていただくだけだ」
 Tattionは椅子を回して、体を窓の方へ向けた。窓ガラスを挟んで、夜のひんやりした空気すら感じられる、しんとした夜になっていた。
 この屋敷からは、街が大きく広く見えた。それは非人間的なまでの広大な広がりを持ち、あらゆる亜人種と、あらゆる階層の人間が暮らしている。格差は広がる一方で、犯罪を取り締まるため、冒険者ギルドは本来の使命に集中できずにいる。あまり明るい未来があるようには見えないが、規模だけは拡大していく、魔光灯に照らされた光景。
「父上」
 スタヴロが改まった態度で言う。
「Lekaは……」
 Tattionは片手をあげてそれを制し、椅子からやおら立ち上がって、息子に対して「もう上がって良い」と言った。Tattionが言葉を制したのは、あの鋭い感覚を持つ、暗殺者の才能溢れる娘には、聞こえてしまうだろうと思ったからだった。
 スタヴロがいなくなると、Tattionは窓辺に立ち、バルコニーへのガラス戸を開けた。夜のバルコニーは、小さな魔光灯がほんの少し光を用意しているだけ。ほとんど真っ暗だったが、そこに小さく浮かび上がる影があった。影は、体育座りで、膝に顔を埋めて小さく縮こまっていた。ホワイトゴールドの金髪が項垂れている。Tattionは、ふん、と鼻を鳴らすと、威厳ある雰囲気を少し崩し、澄んだ空気を深く吸って、大きく吐いた。隠し子、文字通り秘蔵の娘。じっと動くことなしに座り込むLekaの隣まで来て、上等なシルクのスーツが汚れるのも構わずに、同じように腰を下ろした。横目で見ると、Lekaは任務を終えてからずっとこのままだったのか、すこしよごれた暗殺者のスーツを身を纏ったままだ。自分の膝と組んだ手で顔を隠して、綺麗な色の長い髪の下で、どんな表情をしているか。
 するとLekaが、「ん……」とだけ呻いて、Tattionに少し寄る。もたれかかってその身を預けた。甘ったれた、チャーミングさを強調した声にもならない声で、喉をふるわせて。Tattionは手を回してLekaの頭をポンポンと叩いた後、抱き抱えるでもなく、そのまま自由にさせていた。やがて、スンスンと、Lekaが鼻を鳴らす音が聞こえてくる。
 そこでTattionは起き上がり、Lekaの頬を両手でがっちり掴んだ。Lekaの泣き顔は、もう父親の前にあらわになってしまった。涙がポロポロと溢れ、鼻から少し垂れている。目が赤く見えるのは、魔族の力をあらわす赤い瞳のせいではあるまい。泣き腫らした充血だった。Tattionの指が、Lekaのほほを撫でる。まるで恋人にするように。
 Lekaは、心地良さそうに目を閉じる。老いた指が、なん度も、なん度も、ほほの涙の跡に触れた。
「Lekaよ。殺しを生業とするとは、こういうものだぞ。罪悪感にツブされてどうする?」
 Lekaは消えりそうな涙声で、
「だってぇ……殺される方も……死にたくないでしょ……?」
 と言った。TattionはLekaの顔をゆすった。普段なら、押さえつけることすら不可能。誰にも止められない、究極のバネのようなLekaだった。しかしおなじ肉体強化の魔法力をもつ、Tattionであればすんなりいいようにされてしまう。
 いや、たとえこの老人がほんとうの単なる老人だっとしても、Lekaは抵抗できなかっただろう。それくらい、実の父であり、暗殺術を叩き込んでくれた師匠でもある、Tattionという存在は大きい。
「Leka。落ち着け。罪なき者を殺すなかれとは、このギルドに伝統的にかかげられてきた文句だが……罪なき者などそもそも存在しない」
 Lekaが、Tattionに顔を挟まれたまま唇を噛み、もっと涙が流れ出す…。
「Leka、お前は悪くない…悪くないんだ」
 LekaはTattionのシルクの上着に顔を埋める。……泣いた。嗚咽をすきなだけまきちらして。自分の血のつながった父親の、枯れたニオイの中に、安心と愛を見つける。
 そして、今回の任務の顛末を伝えた。Tattionは、うんうんと頷きながら話を聞き、「なるほどな」と言った。父娘は並んでバルコニーに座りながら、穏やかな空気を共有していた。
 Lekaはこういう時間が何より好きだった。厳しく、そして忙しい父に、構われ、褒められ、気遣われる。……このうえない幸せ。Lekaは自分の膝をギュッと抱え込む。ふところから幸せが逃げ出してしまわないように。
「Leka。辛かったな」
 Lekaの肩に、Tattionの手が置かれる。父の声、言葉、優しさ。あらゆるものが、彼女を包み込んだ。Lekaは父を見る。Tattionも娘を見る。お互いの、同じ赤の瞳が混じり合う。Tattionの鋭い眼光も、こうなると温かみを宿すのだ。Lekaは少しはにかんで視線を外し、それから悲しそうな顔をした。
「父さん、あーし、最近……ね? ながく仕事をしてきて、はじめて嫌になっちゃった」
 Tattionはコクリと頷く。
「スランプを感じることは誰にでもある。キャリア七年だから、最初の一回が遅すぎたくらいだ。いままでが完璧すぎたのさ」
 Lekaは少し驚いた顔で、
「七年? そんなに!?」
 と大きな声を出した。Tattionは笑って、
「そうだぞ! もうベテランだ」
 と頬を緩ませた。Lekaも笑みを見せるが、それはだんだん曇っていく。弱気な発言が飛び出す。
「ねえ、父さん。あーし、初めてこの仕事を辞めたいと思ったかな」 Tattionは驚いた顔を見せる。
「ほう?」
 しかし驚きはそれほどでもなかったのか、おどけたような調子。Lekaは、ゆったりと膝を崩し、両手の指を合わせる。親指だけが落ち着かなげにクルクルしている。
「いっや、あー、なんつーか……。ねえ、父さん」
 Tattionは真剣な目で娘を見つめる。Lekaの方はその視線を優しさを感じ、チラチラと横目で見返す。
「あのー、えっと、父さんのためだとか、街のためだとかさあ。そう思えばこそ、今までやれてきたんだけどさ。ちょっと最近はダメージ、蓄積してるっつーか……」
「そうかLeka。じゃあやめるか?」
「えっ!」
 驚いたのはLekaだった。今まで俯いていた顔が、弾けたようにTattionに向く。
「いいの!?」
 意外すぎる言葉だった。Tattionは優しく微笑んだまま続ける。
「Leka、やめてもやめなくても……。そうだな、しばらくの、長めの休暇でもいいぞ。年単位の」
 Lekaは体を起こしてTattionに向き直った。すっかり快活な少女らしさを取り戻している。
「本当に!?」
 今までのどの笑顔より少女らしい。まるでこれまでの、ハードでシリアスな仕事ばかりの生活で失ったものを、たった今取り戻したように。Tattionは頷く。
「いいとも」
 Lekaは嬉しくなってしまう。はしゃいだように、捲し立てる。
「じゃあさ! じゃあさ! あーしさ! ちょっとの間でもいいから、田舎の牧場に住みたい!」
「ほう!」
「そんでさ、そんでさ、みんなで助け合いながら穏やかに平和に暮らすんだ。血を見ることなんか一切ない。そんな生活でさ……」
 Tattionの穏やかな微笑。友達と遊びまわる孫を見るような。その笑みがLekaの望みを受け止める。
「牧場なら用意できるぞ」
 Lekaはいよいよ感極まって、
「ほんと!? いいの!?」
 と、ほとんど叫ぶように言った。
「もちろんだとも」
 Tattionは首肯する。Lekaの笑顔はTattionだって見たことないくらいで、踊りださんばかりだった。Tattionは、
「かわいい娘のためならば、郊外の牧場のひとつやふたつ……なんなら、安全な地方の開拓地、まるまるお前のものにしていい。新しい村の開拓をやってみるか?」
 と言った。Lekaは思わず立ち上がる。
「嬉しい!!」
 そしてTattionに抱きついた。こんなに喜んだのを見せたことはない。Tattionも、両手をLekaの背中に回して、立ち上がってLekaを持ち上げる。
「はっはっは! いいぞ! いつでもいいんだ!」
 二人で二回ほど、クルクル回った。父親に思いっきり抱きついたLekaの足が宙を舞う。思い描いてきた夢も舞う。すべての、考えたくないことを周りへ弾き飛ばしながら……。
 ストン。
 Lekaがバルコニーに着地する。その顔はすでに、何かに気づいたようで、笑顔がまた、少し曇っていた。
「あ、でもだめだわ。みんな、あいつら……。あーしの部下のあいつら……。あいつら、多分、殺しや売春以外では生きていけないから……」
 Lekaは俯いてしまう。
「TeruやLilyは、連れてったって大丈夫だろうけど」
 Tattionは大袈裟に悲しそうな様子で、眉を歪ませてみせる。
「そうか。そうだな。おそらくそうだ」
 Lekaの全身から元気が抜け、表情がみるみる沈んでいく。
「そうだよね……父さん」
 Tattionは微笑むことを崩さずに、相変わらずLekaを抱きしめる。しばらく、抱きしめ合ったまま、二人は沈黙する。再び口を開いたのはLekaだった。Tattionの胸板に手を添えて、そっと抱擁から抜ける。今度は、たくましい、不適な笑みのいつものLekaに戻っていた。
「……父さん。ありがとう。気が晴れたよ」
 Lekaは言った。Tattionが頷く。
「そうか。だが、しばらく仕事を休んでいいというのは本当なんだからな? 代わりはStavroの部隊でもできるし……」
 Lekaは首をゆっくり横に振った。
「ねえ、父さん。あーし、やるよ。もっともっと困難なことになっても、負けたりしない。しないよ」
 TattionはLekaの肩に手を置く。そしてこう優しく語りかけた。
「勝つ必要なんかない。我々は殺すだけ……殺すことが我々のやり方だ。戦いすらもしない。背後からのひと刺しが理想だ」
 Lekaはわかっている、という顔で頷いた。
「Leka。だが確かに、お前は正々堂々戦ったとしても、相手を簡単に死に至らしめられるだろう。それでも、勝ちを求める必要はない。いいな?」
 Lekaはこくん、と頷いた。Tattionはバルコニーの外を向く。Lekaもそうする。眼下には、街並み、河、遠くの猥雑な街区。あらゆるものが見てとれた。Tattionは優しく語りかける。
「なあLeka。我々は、大時計塔のDungeonに頼って生きてきた。Dungeonに眠る、アーティファクトと呼ばれる超常の遺物を掘り出せる唯一のDungeon都市、パラクロノス。おかげでここには重税を取っていく中央の役人もいない。比較的、というレベルだが、ワシは此処こそ世界で一番マシな場所だと思っている」
「そうだね」
 とLekaは答えた。しかし父と違い、何せこの街から出たことがないので、テキトーな返事だった。しかしTattionは気にしない。
「うむ。だからこそ……陰謀。暗殺。話し合い。そういう汚いやり方で、ギルド同士がドロドロと覇を競っていなければならない。もしこの街に和平が訪れたら、中央王権は我々を統一された脅威とみなし、大規模な軍を送るだろう。……傭兵ギルドでは対処できないほどにな。ひいては、この国全体を内戦の炎が焼き尽くすだろう」
 Lekaはゴクリと喉を鳴らして頷いた。自分の仕事は世界の安寧へと繋がっている。その自覚ほど、仕事人間の自尊心を強固にするものはない。
 TattionはLekaの肩から手を離す。そして舞台俳優のような優雅さで、バルコニーから見える景色の方へと伸ばした。
「なあ、Leka。このゴミ溜めよりも腐った、陰謀の腐臭に満ちた街を、ワシはほんの少しだけマシなものにしようと頑張ってきた。ワシはたった一代でこの暗殺ギルドを、大ギルドたちと並ぶものへと成長させた。昔は現場でみんなと同じように人を殺していた……。だが今では、執務室に人を呼びつけ、あれこれ小言を言うばかりだ」
 LekaはTattionに縋るように、ウェストコートの胸板に両手を当てる。そして懇願するような表情でTattionの威厳ある顔を見上げ、必死にこう讃えた。
「父さんはすごい、父さんはすごいよ。あーし、父さんのためなら、なんだってできる。この街のために働くよ」
 Tattionは、Lekaの髪を優しく撫でる。白い黄金の糸のような、美しい髪を。二人の赤い瞳が向き合う。時々それを宿すものがいる、魔法がもたらす鮮やかな色の瞳。身体強化の赤は、殺意を宿せば恐ろしく、慈愛を纏えば神秘的。そんな色だった。
「……Leka、愛しい娘よ。お前はワシにStilettoとして鍛え上げられた。今日のような出来事は、これからの人生で、何度もあるだろう」
 そこまで聞いて、Lekaは、父を失望させたくないと強く願った。この人こそ、自分を癒し、自分に意味を与えてくれる神。そう思えた。しかし、その心の奥底では、チクリとした痛みが……。しかし、そこきらめきのような痛みは、Tattionの声、低くよく通る、政治家や指揮官向きの声によってかき消される。
「この街で最も優れた暗殺者、StilettoのLekaよ。その美しい鋭さで、この街の闇に風穴を開けてくれ。どこに突き刺せばいいかはワシが指し示してやる」
 Lekaは頷いた。何もかも忘れて。
 そこまで言って、老いたギルドの長は、Lekaから離れた。数歩あるいて、沈んでしまった陽の光を探すように空を見た。赤みが少しだけ残る夜空の、いちばん暗いほうを向いた。不安そうに、背中を見せた父を見るLeka。
「……だが……だが、ワシも、もう歳だ。やがていなくなるだろう。そうしたら、あのTeruくんの言うことを聞きなさい」
 Lekaは唐突な言葉にドギマギして、
「えっ、えっ、な、なんであいつの名前が出てくるんすか!」
 と吃りながら言った。茶化しているわけでは決してない。Tattionは真剣な口調だ。Lekaの方を振り向いて言う。
「Teruくんのことは好きか?」
 Lekaは頭を軽く掻きむしって、まとめた髪を揺らした。
「あー、その……いや、お、幼馴染ではあるよ……な……? そういう意味でなら、好きっすけど……」
 Tattionは笑った。
「なあに。まだ受け止められなくてもいいさ。お前が決められなくても、ワシが父親のLudvicと話をつけてやる」
 なんだかLekaは真っ赤になってしまう。白い肌がピンクに染まる。Tattionはその可愛らしい有り様を崩すのは忍びなかったが、仕事の話に入った。
「Leka。お前の部下たちは見事、反乱準備のために集結していた傭兵部隊にダメージを与えた。奴らは混乱している。次の任務、やるというのなら、すぐに動かねばならんぞ?」
 Lekaはすぐに仕事モードに入る。父親によく似た、赤く鋭い、暗殺者の目になる。そして頷いた。Tattionも頷く。
「お前はよくやっている。本心からそう思うぞ、Leka。あの怪物のような二人を、完全な外道に堕ちるまえに、ギリギリのところで手綱を握っているのだから」
 Lekaは褒められて、満面の笑みで頭をかく。
「にっしししし! なんかめっちゃこそばゆいっす!」
 そしてTattionから離れ、一回転してみせる。最初の落ち込みなどもう何処へやら。もうすっかり元気そうだ。
「父さん!」
 人懐っこい笑みで言う。
「あーし、これからも任務を続けるよ! それが、あーしの存在証明だから」
 Tattionはにっこりとした微笑みで「無理だけはするな」と言い、そしてシリアスな顔になり、Lekaを指差してこう宣言する。
「我が最高傑作にして最強の女暗殺者Lekaよ。ゆけ、賭博場を監視せよ……そして妙な動きを見せたら、お前が奴らの動きを見て殲滅するのだ」Lekaは頷いた。猛禽のように鋭い眼光の中心で、赤い瞳が、妖しく光を放った。

第三章 レカの葛藤

 朝日が街を照らし始める頃、LekaとTeruは貧民街の中を歩いていた。吐瀉物がこびりついた貧民街の石畳の上を。しかも石畳はところどころ浮き上がったり、石組みが持ち去られたりしている。歩きにくいったらない。目的地は暗殺ギルドが運営する救貧院。そこで旧知の仲のLilyに会うためだ。
 LekaとTeru、二人の身なりは、ここでは目立つことこの上ない。暗殺者用の革の肩当て付きの黒いコスチュームに、いかにも貴族然とした品のある深緑色のウールの外套。
 持ち去られていく死体から剥ぎ取ったようなボロばかりの貧民街では、あまりに不似合いだった。しかし当の少年少女二人は、まったく気にしていなかった。華奢な貴族の少年、Teruがたった一人で歩いていれば、すぐさまスリや強盗の餌食だろうが……。貧民街でLekaが暗殺ギルドの所属であることを知らない者はいない。もちろん、その腕前も……。最強のボディガードだ。
「Leka! 今度ウチにおいでよ! お母さんがご馳走するって!」
「おお! Lekaさん! 実は最近増長してる金貸しがいて……」
「Lekaちゃん! 今度また格闘術を教えてくれよ!」
 そして、人望もある。Lekaはそんな声かけに、「おーう!」なんて答えていた。しかしTeruからすると、いつになくおとなしいと感じた。
 昨夜の任務の後遺症なのか、Lekaは心ここにあらずといった様子で、時折Teruに寄り添うようにして歩調を合わせる。まるで、言葉にはできない心の傷を、幼馴染の存在に癒してもらおうとするかのように。
「ねえLeka。なにかあったの?」
「べっつにー」
 Teruが聞いても、ちっとも答えてはくれない。ぼーっと歩いて、時折かけられる親しい声に返事を返すだけだ。Teruは腕組みをしてため息をつく。Lekaが何か重大な秘密を抱えていることは明らかだ。おそらく、彼女の「仕事」に関することなのだろう。だが、Lekaはその詳細をTeruに明かそうとはしない。
(あの娘に人生があるわけあるまい……本当は、お前も気づいているんだろう?)
 TeruはLudvicの言葉を思い出す。そうだ。それは事実だ。Teruは察している……。Lekaがただの便利屋ではないことを。ただ単にこうして貧民街で親しまれているだけではないことを。
 しかしそれを口に出して確認する勇気がない。問いただせば、Lekaが本当のことを話してくれるとは到底思えなかった。
 二人の間に重苦しい沈黙が流れる中、ふと視界の端に動きがあった。顔を上げると、大勢の人々が、こちらへ向かって歩いてくる。傭兵の列だった。貧民街を我が物顔で隊列を組んで歩いている。時々物乞いの爺さんが蹴り飛ばされる。TeruもLekaも、関わらないように道の端に寄る。横目で隊列を見ると、二列で槍やマスケット銃を担いで歩く傭兵の間で、項垂れて歩く人々がいる。
「しっかし」
 Lekaが呆れたように言った。
「飽きないねえ、奴隷なんかもう値崩れしてるってのに」
 確かに、傭兵たちに囲まれているのは、見るからに痩せ細った亜人種たち。獣人やエルフがほとんど。奴隷なのだ。Teruは思わず目を背けた。彼の屋敷にも奴隷として働く者はいるが……皆、街で生まれた二世以降だ。第一世代はこうして連れてこられているなんて……。こうしてこの残酷な光景を直視する勇気がなかった。
 傭兵たちは気勢を上げるために、軍歌を歌っている。
「魔王軍の侵攻は近い! 魔王軍の侵攻は近い!」
「勇者も魔法も無用なり! 銃と長槍(パイク)があれば良い!」
 その歌声は、まるで魔王の脅威を煽っているかのようだ。Lekaはその様子を見て、小馬鹿にするように呟いた。
「っへ、好き勝手言ってらぁ」
 遠ざかっていく一団を見送った後、Teruが不安そうに口を開いた。
「ねえ、Leka……大丈夫なのかな。魔王って……」
 Lekaは目を丸くした。まるで子供のような質問。Teruの純真さに、思わず吹き出した。
「ぷっはっは! 何を言い出すかと思えば! おいおいTeru坊〜、勘弁してくれ〜、ここ貧民街じゃ、誰も魔王が実在するなんて信じてねーぜ!」
 確かに、魔法科学ギルドは魔王の脅威を否定している。だが、貴族の間では未だに魔王の恐怖がまことしやかに語られているのだとTeruは弁明した。Lekaはそれを聞いて、軽蔑の眼差しを向ける。
「ッケ、くっだらねー。貴族のそういうビビりがあるから、傭兵のクソどもに金を流すアホがいて、その金でまた奴らが魔界に遠征して奴隷を狩ってくる……。まったく、この街の仕組みってやつぁ……」
 言われて我に返ったTeruは、自分の無知を恥じた。
 そんな二人の前に、突如として現れた男がいた。焦点の定まらない目をして、酒瓶を握りしめている。LekaとTeruの前に立ち塞がるように歩いた。LekaはサッとTeruの前へ出る。男は二人に絡むでもなく、酒瓶をあおると、大声でこう叫んだ。
「偉大なる魔王存在ヨトゴォル万歳!!! 我々は大時計塔の内部へ!! Liminal Dungeonに帰るべきなのだ!」
 支離滅裂な言葉に、LekaとTeruは怯んでしまい、無言のまま横を通り抜けて立ち去った。
 十分距離を置いた所で、TeruがLekaに尋ねる。
「……貧民街では誰も魔王存在を信じていないだって?」
 Lekaは両手を頭の後ろの置き、観念したようにため息をついた。
「ま、まあ、いろんな奴がいるさ。貧民街はとにかく、いろんな奴がいるから……」
 刺激的すぎるこの街の一面に、まだ慣れないTeruなのだった。
 それから二人は無言のまま歩み続けた。Lekaは胸の内を明かせないもどかしさを、Teruは真実を追及できない歯がゆさを、それぞれ抱えながら。築いてきた絆は深いはずなのに、どこか心の壁を感じずにはいられない。そんな複雑な思いを抱えたまま、二人は救貧院へと向かうのだった。

「Lekaさま! 今日は本当にありがとう!」
 もうすでに日は傾いている。救貧院の正面の門。崩れかけた石壁に、ぐらぐらの石畳、それからでたらめにそれぞれ高さの違う石段……。
 門のところで、黒髪の娘が笑顔を向けてくれる。古びた教会を背景に、まるで光を背負っているように。
 愛すべき、花。この汚された街に咲いた、唯一誰にも汚されない、美しい花。
 Lekaは彼女を見るたび、そのイメージを抱く。
「おう! Lily。またな。オメー、頑張りすぎるなよ!」
「ふふっ、本当にありがとう!」
 感謝の気持ちを、弾けんばかりの笑顔で表す少女。彼女は、作務で汚れたエプロンを身につけ、少女らしいエネルギーを放っている。
 美しい16歳の娘、Lily。Tattionの末の娘。暗殺ギルドの至宝。Lekaからすると、腹違いの妹に当たる。もっとも、そのことを知るのは、Tattionと、長兄Stavroと、Leka自身しかいないはずなのだが。Lekaは半分血が繋がった2歳下の少女が、笑顔で一生懸命今日のことを感謝してくれるのを、まじまじと見つめる。Lekaは、明るいLilyに会うと、いつも思うことがある。自分とは何もかも違う、と。
 場所は貧民街からもさらに外れた、街の城壁の近く、やたら古く、崩れかけの教会。この街から宗教勢力が消えて以来、放棄されたそれが、暗殺ギルドの運営する救貧院だった。
 Lekaは井戸の方を見た。Teruは無駄に頑張ってしまって、潰れた手のマメを気にしてまだ桶の前にモタモタしている。明日筋肉痛になるんだろうなあ。Lekaは少し呆れたように笑った。力仕事はLekaの方がよほどできるが、Teruは一緒に働いてくれるだけで頼もしい幼馴染の弟分だ。
「なあ、Lilyよぉ」
 それはそれとしてLekaは、親愛の音色がたっぷり詰まった声で、腹違いの妹に話しかける。
「なーに? Lekaさま」
 Lilyはいつも貧民街でギルドの本部が取りこぼした厄介ごとをやってくれてるLekaを、敬称をつけて呼ぶ。Lekaはいつもこそばゆい気持ちになる。
「オメー、ところで、最近ずっとここで寝泊まりか?」
 Lilyは救貧院の門扉のところで、サビた支柱で汚れることも構わず、寄りかかっている。なんでもないことのように、笑顔を崩さずに答える。
「そうだよ! やること多くて……本当に大変! 荷馬車の荷下ろしまでやってくれてありがとね! Lekaさまがいるとすぐなんだもん! ね、ギルドの本部がある中心街区と違うからさあ。なんでも自分で用意するか、施してもらうしかないの」
「だろーな」
 目の前の大輪の花のごとき娘は、働きものなのだ。Lekaはその姿を愛しむように眺め、顔を緩ませる。Lekaは、時々しか鏡で見ない自分の体を思った。細いが筋肉質の、力強さが束ねられた体を。翻ってLilyは、線の細いのを、庭仕事のメイド同然のゆったりしたスカートで隠してる。本当にただ単に華奢だ。
 どうして人外クラスの戦闘力を誇る自分やTattion、それからスキンヘッドの筋肉ダルマのStavroと同じ血が流れていて、こうも違うのか。それでも頑張る可愛い妹。Lekaは、いつでもLilyに甘い。暗殺ギルドに関係する者で、そうでないものなどいないのだが。
「なあ、Lily。マジで言っていいんだぞ? 何か、困ったことはないか? あーしなら、いつでも力になるぜ」
 その言葉に、Lilyははにかむような笑みを浮かべた。いつもの優しい、人柄そのものを表すような。
「ふふふ、いつもそう。二言目には、何か手伝えることはないかって。Teruさんもよく、Lekaさまのこと、世話焼きのお姉さんみたいだって言ってるの。ふふふ! なんだか、私にとっても、Lekaさんってお姉さんみたいね」
 その言葉は、不意打ちだった。Lekaは、心にズンとくるものを感じた。
 ……自分は隠し子だ。タブーだ。非公式だ。存在自体が争いの火種だ。父の弱点にだけは、絶対になりたくない。父の家系の一員であることを名乗れない。Lekaのあまりに微妙な政治的立ち位置。……それを慮ったタティオンから刺された釘。
(いいか、Leka。少なくともワシの生きている間は、ワシとお前の間に血の繋がりがあることは隠すんだ、いいな?)
 その釘が心臓に刺さっているような気がして、胸が痛んだ。
「そっか」
 精一杯心の動揺を押さえて、それだけ言った。LilyはLekaの心の中の葛藤には一切気付かずに、鈴のように笑った。
「ふふ! Lekaさまが本当のお姉さんだったら……そうだったらいいなて! 思っただけ!」
 16歳。活発で善良な女の子の、無邪気なエネルギー。2歳しか違わないはずのLekaは、もっとずっと年齢が上の大人が、そういうエネルギーの前に気をやられて参ってしまうような感覚に陥った。LilyはLekaの手を握って、
「それじゃあLekaさま! もうすぐ夕方だから、行かなくっちゃ。あ、そうそう!」
 それまでとはうって変わって真剣な眼差しを向ける。Lekaやタティオンのような、不安にさせる赤い瞳ではない、もっと人間の色が強い黒い瞳が、潤んでいた。
「私たちのギルドでいつも働いてくれてありがとう。お家のメイドのみんなも、Lekaさまは家族みたいだって、言ってくれてるよ!」
「そっか」
 Lekaは少し顔を振って、前髪が目にかかっているのを直す。涙が誘発されてしまうと困るから。笑顔は崩せない。
「ねえ、Lekaさま。私たち、暗殺ギルドの人たちってね? 怖い存在かもだけど……。Lekaさまみたいな人が、貧民街や冒険者ギルドや娼館のいろんなことで働いてくれて、地域社会で信用を獲得してくれるおかげで、安心して活動できるから……だから……」
 やめろ、やめてくれ。
 Lekaは心中懇願の気持ちでいっぱいだった。どうして事情を知らないLilyの言葉で、こんなに心乱されるのか、Lekaにはさっぱりだった。Lilyの華奢な美しい白い手が、Lekaの、同じ世代の女の子とは思えない、訓練で分厚くなった手を一際強く握りしめる。
「だから、Lekaさま。私も頑張らなきゃね!」
 Lekaはうなずく。
「おう。一緒に暗殺ギルドを街一番のいいギルドにしていこーな……」
 Lilyはその言葉に、すこし物悲しげな表情を浮かべて見せた。Lekaは一瞬、言葉選びをミスったかと……。
 Lilyの手が離され、教会の建物へと駆けていく。
「Lekaさま、私たちみたいな人殺しになっちゃダメだからね!」
 Lily。
 Lily。
 ……Lily。
 美しく無邪気で、どうしようもなく何も知らない子よ。
 Lekaの心の中には、大きな黒い渦があった。Lekaはいつもそこに、「嫌な記憶」を投げ込んで、ぐるぐるぐるぐる、心の底の方まで、沈んでいくのを期待した。
(Lily。オメーは、オメーだけは人殺しじゃねえよ)
 その言葉は、とてもじゃないが、天真爛漫に走り去っていく腹違いの妹の背中に、大きな声でかけられるセリフじゃなかった。

 日が暮れつつある帰り道、崩れかけの建物ばかりの街中を、二人はいく。
「Leka。なんか、疲れてる? 口数、少ないような……」
「べっつにー?」
 用事を済ませて、貧民街の外へ帰る二人とすれ違う、貧民街の内部に住む住人たち。Lekaは時々ぼーっとその姿を見ている。
 貧民街には多くの人間がいる。工場労働者、商工ギルドの見習い、逃げ込んだ犯罪者、まだ評議会も把握していない弱小組織の下級構成員……。
 彼らは皆、まともな住居も持たず、食事は解放奴隷の獣人の屋台で食い、多くは結婚できない。寝泊まりする場所は、集団で雑魚寝を要求される安宿だったり、路上のまだ過ごしやすい一角だったり。そして、娼館で一夜の夢を見ること。それだけを支えに働き続ける……。
 人間は多くても、彼らの幸福を足し合わせた量でいえば、貴族をはじめとする都市の富裕層のそれとはまったく比べ物にならない。
 貧民街の人々は、嘆きに満ちた深い谷のような人生を、喜怒哀楽をめちゃくちゃにぶっ放しながら、束の間、生きていた。そこかしこで、喧嘩の怒声が聞こえる。
 Lekaは自分の境遇を思った。暗殺ギルドである程度の特権を頂いてはいるが、本部の屋敷に住むことはずっと遠慮している。望めば叶うのだろうか? ……Tattionに拒否された時のことを思うと、とてもじゃないが怖くてできない。
(Lily。暗殺ギルドの至宝とか、言われてるんだっけな)
 Lilyは少女として完璧だった。可憐な笑顔に、元気な行動力、普通ならできないことをやってのける忍耐と勇気、そして何より優しさ……。
 それに比べて自分はどうだろうと、Lekaは思った。血にまみれ汚れ切って、半端な境遇。父の愛はある。しかし、それを直に抱きしめてくれる以上の形で証明されたこともない。
(暗殺ギルドのボスの名、Tattion……その名も名乗ることが許されねえのに)
 物思いに沈んで、いつもと違って軽口がゼロのLekaを、いい加減Teruが本気で心配し始める。
「いや、絶対いつもと違うって、Leka。どうしたのさ?」
「なんでもねーっつーの!」
 TeruにはTeruで不満があった。Lekaが仕事の話、どんなことをしてるか……話してくれたことはないのだ。貧民街での活躍は知っている。誰に聞いても話してくれる。やれ、喧嘩をおさめてくれただの、妻を殴る亭主を懲らしめただの、迷子を世話しただの……。しかし、そんな平和なことばかりなはずはないのだ。
 なにか聞き出そうと食い下がるTeruを気にしつつ、Lekaは傾いた日差しでできた影に、何か違和感を得た。後ろをピッタリ、影がついてくる。
 Lekaは振り向くこともなしに注意を向けていた。彼女の訓練された暗殺者の耳は、人混みでもつねに警戒状態。すこし人もまばらになってきたなら、一人一人の歩調、緊張感、足音からわかる体格などから、おおよそのその者の意図まで読みとることができた。
(スリか……)
 どうやら標的はTeruだった。何せ貴族は、オイシイ獲物。傷付けさえしなければトラブルになる可能性は低い。たっぷり金貨の入った巾着が歩いているようなもの。どうやらTeruは疲れからか、腰の袋への注意がおろそかになっていたのを、スろうとしたものらしい。
(なるほどねえ……よっと!)
 全ては背後で起こった。Lekaには足音と衣擦れの、わずかな音で全てわかっていた。それは突然だった。
「おっら! つかまえた!」
 Lekaの手が、Teruの腰のあたりに伸びた手を捕らえた。しかし、その手は予想外に小さかった。
「あっ! あーっ! あーっ!」
 かん高い悲鳴が上がり、ドタドタと暴れる音がした。Lekaが困惑し、Teruが驚いて振り返ると、そこにいたのは子供だった。Lekaの耳が小さな足音を捉えた時点で、彼女は子供のスリだと予想はしていた。しかしまさかここまで抵抗されるとは。ちょっと脅かして逃すつもりが、子供は滅茶苦茶に暴れ出し、危なっかしくてどうすることもできない。フードに隠れた顔は見えないが、背丈から10歳程度だろう。次の瞬間、信じられないことに、その子はLekaの手に噛みつこうとしてきた。
「このっ!」
 一瞬のことだが、対応できないLekaではない。Lekaはどうしようもなく、手を素早く捻った。子供の体が宙で一回転して、ちょうど足から石畳の上に着地した。フードが脱げた。その顔には、耳と毛皮が……。獣人の子だった。Teruはびっくりして、心配そうに見守る。スリの子供の驚きは、尚更だったようだ。すっかり肝を冷やして、路地の方へ逃げていった。
「ったく……」
 Lekaは腰に手を当ててため息をついた。Teruと一緒に、逃げていく小さな後ろ姿を見つめる。
 そこへ、数人の子供たちが近づいてきた。その子を取り囲んでしまう。どうやらスリの仲間らしい。彼らはフードの子供に、失敗したことを怒っているようだ。そして、目の前でその子を殴りつけ始めた。通行人は誰も目線すら向けない。獣人の子供なんて、そんなものなのだ。
「オイ、ガキども! そこらへんにしとけ!」
 Lekaが一喝すると、子供たちはハッと彼女の方を見た。
「やべえ! ここらへんをナワバリにしてる暗殺ギルドのメスゴリラだ! ずらかるぞ!」
 蜘蛛の子を散らすように悪ガキたちは逃げていった。いや、貧民街のストリートチルドレンはもはやギャングだ。子供でも、暴力は極めて苛烈。
 LekaはTeruと顔を見合わせると、子供に歩み寄ってしゃがみ込んだ。さっき蹴られていた時から、ずっと体を丸めて耐えていたようだ。いつもこんな酷い暴力を受けているに違いない。そう思った彼女は、この哀れな獣人の子供に優しく諭し始める。亀のように縮こまって動かないが、怪我はしていないようだ。
「なあボウズ。ちょっとボコスカやらせて、満足させてから逃げようって腹だったな?」
 獣人の子供は答えない。Lekaは続ける。
「ッケ、気に入らねえ……心を殺して平気なフリをする戦術か? オメーはうまくやっているつもりだろうがよー、そーゆーのは大人になったくらいでガタがくるんだってさ。今のうちからテメー自身の心を……守るための戦いを始めた方がいいらしい」
 Teruが、Lekaが路上にうずくまる子供に話しかけるのを、じっと見つめる。Lekaの言葉……。Leka自身に、向けられているような……。
 そのとき、不意に獣人の子供が飛び起きた。そして、Teruに飛びかかり、隠し持っていた小さなナイフを突きつけたのだ。
「Teru!」
 咄嗟にLekaは子供を突き飛ばそうとしたが、Teruがそれを制した。彼はおどけるように笑いながら、ゆっくりと子供からナイフを取り上げると、体にやさしく手を当てて穏やかに語りかけた。
「おいおい、そんなもの持ち歩いちゃダメだろ。ほら、これ返してあげるから、もう人に向けちゃいけないよ」
 子供は困惑したような表情を浮かべつつも、おとなしくTeruからナイフを受け取る……しかしそれは、刃物のようにきらめいていたが、別の何かに変わっていた。貴族の装飾品……ブレスレットだった。Teruのものだ。獣人の子供は一瞬何が起こったかわからないようだったが、手にしたきらめくお宝を握ると、そそくさと立ち去っていった。Lekaは叱るような口調でTeruに詰め寄る。
「……Teru、危なかったぞ! あんな奴、あーしなら……」
 怒りを隠さないLekaに、Teruは穏やかに微笑んだ。
「Leka、彼らだって生きるためにあんなことするんだよ。少しくらい、柔軟になろうよ。暴力じゃ、何も解決しない」
 Teruのその言葉に、Lekaは反論しようと口を開きかけて、言葉に詰まった。確かに、暗殺ギルドという組織の中で生きてきた自分には、Teruの考え方は理解しがたい。だが、彼の人を見る目は、自分より遥かに澄んでいるような気がした。
「ふーっ」
 Lekaは息を吐き、再び夕陽を背に歩き始めた。愚直なまでに優しく、人を信じようとするTeru。対して、血塗られた世界でしか生きられない自分。そのあまりの違いに、Lekaは言葉を失ってしまう。

 その後、二人は無言で歩いた。イライラする様子を隠さないLekaに、Teruは上機嫌だ。
「Leka、もっと肩の力抜いたほうがいいって。モノゴトはハードなアプローチばっかりじゃなく、ああいうやり方もあるんだってこと」
 LekaはTeruを見もせずに、脇目も振らずに前を歩く。
「ああ? あーしはテキトーにやってるだろーが」
 とトゲトゲした声色で返す。Teruは、Lekaが暴力に訴えようとしたのを、ユーモア溢れる計略で解決したと思っている。このくらいの年齢の少年が手柄を手にして、得意にならずにいられるわけがない。とりわけ、今までさんざん姉貴ヅラをしてきたLekaに対しては……。
 数拍、間があった。LekaはTeruを振り返る。立ち止まっているTeruと目が合った。その瞳をにらみつけて、あまり調子に乗らないよう、釘を刺すつもりだった。しかし……。
 ……Lekaはなんとなくドキッとしてしまう。夕闇に浮かぶ青い目。幼馴染みでも、改めて心の中を見定めるような瞳を向けられると、どうしていいかわからない。Lekaはむっつりした様子でTeruに歩み寄り、ずいと身体を寄せ、その顔を見る。Lekaの方が背が高いが、来年はTeruが抜いているかもしれない。18歳と16歳。十年来の擬似的な姉弟のような幼馴染み関係。ずっと姉さん肌のLekaが主導権を握ってきたが、だんだんとTeruの方が堂々としてきた。それがまたLekaの心をかき乱した。
 おでこ同士をぶつけそうな距離になった。Teruは動じない。むしろ彼女の赤い瞳をじっと見据えながら、
「Lekaが、テキトーに生きてるだって?」
 微笑んで、
「そうは見えないけどね」
 と言った。
 Lekaは動きもしなければ喋りもしない。そうやって威圧すればTeruがビビると思っている。ビビらせてどうなるものでもないが……。TeruがLekaの両肩を優しく掴んで、適度な距離に押しやる。
「あれが僕なりの解決の仕方さ。この街では誰もがイライラしてるんだよ。あんまりシリアスになっちゃだめさ」
 Lekaは肩を動かしてTeruの手を振り払った。武術の心得のあるLekaには、肩の捻りだけでTeruを投げ飛ばすことだって可能なのだ。しかしこれまでの関係の中で、何度もそういう風にフィジカルで圧倒してきたが……。今は、マウントを取る行為がすごくカッコ悪く思えた。
(ったく、かわいくねー)
 内心そう叫んで、貧民街を抜ける方向へとズンズン歩いていく。Teruは無言で追いかける。格下だと思い込んでいた少年が、うまいことシリアスな場面を切り抜けて見せた。Lekaにとって、どう解釈していいかわからない事態だった。
「それにしても……」
 Lekaは先程の出来事を思い返す。
「あのガキ、人でも殺しそうな勢いだったな」
 Teruが笑みを浮かべて答える。
「でも大丈夫だよ。ああいう子は、危険な目にばっかり直面してきたんだよ、きっと。そうじゃない対応だってあるんだって、気づいてくれればいいな」
 しかしそんな言葉をうけても、なおLekaは少し、頭の隅に消すことができない警戒心が残っているのに気づく。
(いったいどれほどの憎しみを……)
 Lekaは思った。獣人の子供の目に宿っていた、憎しみの炎。それは、貴族への怒りだけではない。もっと深い、社会の不条理への絶望が根源にあるように感じられた。
 だんだんと陽が沈んでいき、二人の歩調は知らず知らずのうちに遅くなっていた。少年少女二人は、二人して物思いに沈みつつ、道をゆく。
「ねえ、Leka」
「んん?」
 穏やかな問いかけだったが、内容は印象的だった。
「人を……殺すって、どんな気持ちなんだろうね」
「……しらねー」
 Lekaは色々な気づきをあえて無視して生きることにしている。もっと生存に重要な危険を知らせるサインに気づきたいからだ。だから、もしここで、Teruに自分の本当の生業なんてものを……人殺しの仕事なんかを……言ってしまっていたら……。
「……っ!! Teruっ!!」
 この事態に反応できなかったはずだ。路地、建物、わずかな音。頭上から襲いかかる獣人の子の気配に。すべては瞬時に進んだ。建物の上からその子がナイフを突き立てるようにして落下してくるのと、Lekaが神速のターンで手を伸ばし、その軌道をフワッと変えるのと、Teruを転ばせて安全なLeka自身の影に入れるのと、獣人の子からナイフを指でつまんで取り上げるのと……。全てが同時だった。
 石畳の上につっころんだのはTeru。すり傷程度。落下してきた獣人の男の子は、Lekaにナイフを取り上げられた時にスピードを落として地面につんのめった。どちらも大した怪我なし。そしてLekaの手には、クルクルっと、ナイフがあった。
「オイ、ガキぃ……聞いとけ。武器を持つリスクはなあ」
 Lekaが、とてつもない力で、ナイフをつまんでググッと曲げ、刺さらなくしてしまう。
「相手に奪われて、それが自分に使われることだ」
 Lekaはただの曲がった鋼のオブジェになったそれを、通りの向こうに放り投げる。Teruがうめきつつ起きあがろうとする。獣人の子はその前に身を翻す。武術の天稟を思わせる動き。腰のベルトから、二つ目の武器を出し、Teruの金髪をギュッと掴んで、頭部に突き刺そうとした。
 しかし……。
「話聞けよ」
 Lekaの手がヒュッと鳴った。小型の刃物が、はるか向こうの壁に当たって突き刺さった。釘を打って平べったくした、小さなナイフだった。Lekaはこの危なくてしょうがない子供を、首根っこ掴んで引っ張り上げる。なおも彼は抵抗し、Lekaの顔の高さまで吊り上げられても、彼女の顔に蹴りをお見舞いしようとした。Lekaが握力を発揮し、上着の襟が絞られ、体の動きが制限された結果、獣人の子は、虚しく宙で踊るだけの結果になった。
 流石に観念したようだ。Lekaはため息。
「武器の基本だ。暗殺ギルドで最初に教わることだぜ?」
 Teruは何が起こったかもよくわからないまま立ち上がり、Lekaがさっきの子を片手で宙吊りにしているのを見て驚愕する。しかし、すぐに大体なにがおこったか、わかったようだった。
「僕が……貴族に見えたからか……?」
 子供がLekaに吊られながら、唸って暴れる。
「キゾクゥ! コロスゥ! キゾクキゾクキゾクゥゥウウウ!」
 Lekaはもうどうしようもないと思い、空いている手の指を伸ばし、軽く振ってコツンと子の顎を叩いた。ようやく、おとなしくなる。Lekaはその子を道端に寝かせると、Teruに肩を貸してその場をそそくさと離れた。
 Teruは擦り傷だけで、足を痛めてはいなかったが、ショックで歩けないようだ。道中、Teruの頭に浮かんだのは、あの獣人の子の目に宿っていた激しい怒りと憎しみだった。それは貴族という身分に向けられたものだ。Teruは自分が、このような感情の対象になっていることに愕然とする。
 一方、Lekaの頭の中は複雑だった。Teruを守ることができて安堵する半面、自分の正体を知られたくないという思いが強くなっていた。また、あの子の憎しみの深さに戦慄するのと同時に、彼女自身にも通じるものがあるような気がして、胸が痛んだ。
 二人はそれぞれに、言葉にできない感情を抱えながら、人通りの少ない路地を選んで歩いていった。やがて貧民街を抜け、中心街とを隔てる河まできた。背後に、暗澹たる夕暮れの街並みが広がっていた。

 しばらくそうして歩いた後、Teruが、
「もう、だいじょうぶ」
 と言って、Lekaから離れた。それでもすぐには歩けなかったのか、頭をガックリ落として、膝に手を当てて、目眩に苦しむような様子を見せる。Lekaは優しくその背中を撫でてやる。
「いや、いい、いいよ、Leka……」
 よくなかった。Teruは咳き込んだかと思うと、少し、吐いてしまった。貧民街の外れ、もう少しで大通りという一角。Lekaが布切れを差し出し、Teruが口を拭う。しばらく無言で、TeruはLekaに背中をなでてもらっていた。
「ダメだなあ……」
 Teruが俯いたまま言う。
「……結局、僕には、なにも……」
「そんなことねえよ」
 Lekaは言った。
「救貧院で、Lilyに褒められるくらい働いてたじゃねえかよ。なかなかできねーぜ? 農民だろうが商人だろうが貴族だろうがヨォ……」
「そうかな」
 Teruが姿勢を正す。体を起こして伸びをする。深呼吸して、やっと調子が戻ってきたようだった。Lekaから受け取った布切れで口を拭い、二人で歩き始める。大通りの方へ。昼間の賑わいは、大変なものだ。喧騒が聞こえ始める。
 歩きながら、Teruが語り始めた。救貧院で聞いた話。ここでは、寝る場所の確保で殴り合いに勝たないと、おちおち眠ることもできないのだと。だからせめて救貧院では、配れる食料がなくても、せめて眠る場所くらいは提供するのだと。
 そして、獣人の子供の話になった。彼らは体が強いから、寝場所の取り合いには勝てるのだが、後で寝ている間に人間の子供達に熱湯をかけられたりするのだと。酷い話だ。獣人は毛皮に火傷をして毛がまだらになると、酷い伝染病と見分けがつかず、仲間からものすごく忌避されるのだと。だから、一人で下水を流す溝の中に縮こまって、そこで飢えて死ぬのだと。
 そこで言葉に詰まってしまうTeru。Lekaはなんだかたまらない気持ちになる。Teruを助けてあげたい。心からそう思えた。
 Teruがその青い瞳に強い意志を宿し、言った。
「あの子もきっと、貴族にすごく酷い目に……」
「それ以上考えるな、オメーには関係ねーよ」
 Lekaの厳しくも気遣った口調に、Teruは黙る。しかしすぐに、胃液で変な味がする口を開いて、こう言った。
「こんな街の責任をなんとかする責任なんか、僕に背負えるわけないよ。Lekaだって、そうだろ?」
 Lekaは、Teruに肩を貸しつつ、首を横に振った。
「いや、オメーならできると思うぜ? だって……」
「そうじゃないよ、Leka。たとえ君が何か重大な役割を受け継ぐ立場だったとしても、同じように無理だろう?」
 Lekaは何も言えない。沈黙をもって肯定した。
「僕らには……無理だよ。逃げても仕方ないと思うよ?」
 Teruの真摯な言葉に、Lekaは胸の奥がざわついた。逃げたい。この街から、この生まれ持った運命から。でも……。
「あーしには……無理なんだよ」
 Lekaはかすれた声で言った。
「Teru、オメーは自由に生きていいんだよ。でも、あーしは……暗殺ギルドの、いや、街の期待を背負ってるから……」
 愛情を人質に取られているのだ。Lekaにはそれを振り切る勇気がない。そのことを、Teruに伝えたかった。ボスのTattion娘であることも、街の邪魔な重要人物を排除していることも。
 夕陽が沈みかけていた。Parakronosの街に、オレンジ色の光が差し込む。遠くで、大時計塔の鐘が鳴り響く。
「……もう、そろそろ行かなきゃ」
 Lekaが言った。
「仕事が残ってるから」
 Teruは寂しそうに微笑んだ。
「Leka、君は強いよ。僕には到底無理な責任を、ちゃんと果たそうとしてる」
 励ますような言葉。でもLekaの心には、二人の間に横たわる大きな溝を感じずにはいられなかった。Lekaは後ろで束ねた髪をサッとかきあげた。
「……じゃあな、Teru」
「ああ、気をつけてね」
 別れ際に、Teruがそっと手を握ってきた。Lekaは「ん」と頷くと、建物の上に飛び上がった。背後で、Teruの佇む姿が小さくなっていく。
 Lekaは飛ぶように街を行く。日が沈み、街に闇が広がり始めていた。貧民街を抜け、闘技場や娼館のある地区へ。そこには、魔光灯の派手な明かりと喧騒が満ちていた。
 ふと、Lekaは立ち止まる。そして、ゆっくりと空を仰ぎ見た。淡い紫と紅の夕日。遠くに、星空が迫る大時計塔がそびえ立っている。この街の象徴。そしてLekaの宿命。
(あーしの居場所は、ここしかないんだよ)
 覚悟を決めるように、Lekaはつぶやいた。そして、再び建物を飛び移るす。自身の任務、傭兵の賭博場の監視に向かうために。

第四章 貴族と獣人

 Teruは時々、学友のことを信じられない気持ちになることがある。
「Teru! 賭博場へ行くぞ! 貧民街は慣れてるんだろ? 案内しろ!」
 その一言で始まった今夜の冒険。貴族の子息が幾人か、夜の貧民街を歩いている。魔力パワーラインを勝手に延長し、魔力を盗み取って光る魔光灯。その下を、のしのしと肩肘張って歩いていく。高貴な生まれの若者たちには、糞尿の匂いがする小汚さと、喧嘩の声が絶えない治安の悪さは緊張するにあまりあるもの。しかし血気にはやる若者同士、ビビっているとは絶対に思われたくない。威張り方も無意識に強まる。
 学院の「やんちゃグループ」。学内での魔法の先生に対する悪戯に始まり、居宅の屋上から銃を撃ったり、他人の馬に勝手に調合した薬剤を打ったり……。貧民街の住人は、貴族の子弟に絡まれぬよう慎重に道を開ける。
 中心になるのは、19歳のHermarn。鋭い顔立ちの栗毛の若き貴族。長身で日焼けした肌は、自信に溢れている。決闘経験もあり、独特の魅力を放つ。あとはその子分が何人か……。Teruは首に回されたHermarnの逞しい腕を感じる。自分とは全く違う、男らしい力。
(Hermarn。今日も君は、自分は絶対負けないし、飢えないし、死なないし、悲惨な目に遭ったりしないって顔してるんだね)
 TeruはHermarnに肩を組まれてヨタヨタ歩き、過剰な親しみに困惑する。学友に対し、一歩引いた目線を持つTeru。Dungeon都市Parakronosの貴族社会は狭い。将来、それぞれの職責と利権を引き継ぎ、評議会で顔を合わせるだろう彼ら。TeruとHermarnたちのような若者の態度は、それぞれの家系の持つ権力を如実に反映している。学内での友人関係もまた、将来の力関係に影響する。だからナメられないよう、みんな必死だった。Hermarnも持ち前の体の大きさと強引さで、学内で大きな存在感を示し、またそれを増大させようと常に動いている。
 Teruが威張らないのは、むしろ例外だった。父Ludvicの才覚により、Teru自身も学内で一目置かれる立場だ。しかし学院での貴族同士のマウント合戦に参加しないTeruは、いつもHermarnの子分の末席にいた。もともとTeruには弟みたいな立場が馴染んでいるのかもしれない。
 しかしその立場も常に揺らいでいる。暗殺ギルドとの個人的関係がバレれば、これ幸いとばかりに大変なことになりかねない。
「だがまあ、今夜は驚いたぞ!」
 Hermarnが叫んだ。
「あの控えめなTeruくんが、さまざまな屁理屈を繰り出さずに二つ返事でついてきてくれるとは!」
 くっついたHermarnの息遣いを間近で感じながら、Teruはわからなかった。自分の判断が。どうして今日はここにいるのだろう? たぶん、日頃の鬱屈した気持ちを発散したかったのだろう。父Ludvicの才覚に押しつぶされそうな焦燥感、そして、親友Lekaが背負う運命への無力感。Teruはそれらから逃れるため、今夜のこの場にいるのかもしれない。自由への憧れ? TeruはチラッとHermarnの横顔を見る。少し酒臭い。まるで自分の前には一切の障害なんかないという顔でズンズン進んでいく。……確かに、無力感に苛まれた後で、こういう人物と遊ぶのは、気晴らしになる。そう思ったのは確かだった。
 一行は裏路地を進み、傭兵ギルド所属の獣人が仕切る賭博場へと辿り着いた。大型闘技場の喧騒が間近に聞こえる。ここはもっと静かで、もっと危険だ。賭博場の建物は神殿のような衣装がされた石造りの建物で、入り口の頭上にはこう掲げてあった。
 『自由なケダモノたち』と。
 Teruはなんだか、不意打ちを喰らったような嫌な気分になる。皮肉を感じる。しかしHermarnとその手下たちは、意気揚々と入っていく。なんとなく嫌な気分を感じつつ、その後に続くTeru。
 ドアを潜ると、一斉に視線が集中する。獣人の……肉食獣の視線。Hermarnは気にもしなかったが、学友は皆内心すでに呑まれていた。場の空気は異様に張り詰めている。グルル、という唸り声すら聞こえる中、TeruやHermarnは案内された席についた。周りは屈強な獣人たちに固められており、貴族の若者たちはいかにも獲物といった風情だが……。最終的な身の安全は、彼らの身分。彼らの親の権力は、その気になれば事態をギルド間の大規模対立に発展させられる。
 今夜はHermarnの貸切だ。Teruは詳しい額を聞いていなかったが、大金が動くとのことだ。Parakronosの貴族の若者と、獣人の傭兵ギャングという、本来なら交わることのない者たちが一堂に会していた。
 Teruは、獣人たちの敵意に満ちた視線を感じる。その視線の根源にあるのは、貴族という特権階級への憎しみだ。差別と抑圧の歴史が、彼らの瞳に刻まれている。そんな中でHermarnは余裕の笑みを浮かべ、賭博台に手を突いた。
「さあ、始めようぜ! 貴族と獣人、どっちが勝つか賭けようじゃないか!」
 挑発するようなHermarnの言葉に、獣人たちが牙をむき出しにして笑う。まるで餌食を前にした野獣のように。Teruの中で嫌な予感が募る。しかしもう、後には引けない。
 こうして、危険な遊びが幕を開けた。若き貴族と獣人、二つの勢力の対決。その行方はまだ、誰にもわからない……はず。だがTeruは薄々感じていた。この遊びの先に待っているものが、「自由」などではないことを。
 それでも、TeruはHermarnに促され、賭博台に座る。座って初めて分かったが、テーブルには血が滲んでいた……。
 人間のディーラーが現れ、勝負が始まる。賭博を取り仕切るのが獣人ではないのは、公平感を示すためだろう。美しい女性だった。ディーラーが札を切る手際は、見事としか言いようがない。その動きに、Teruは一瞬目を奪われ、そして……そのディーラーの正体に気づいて愕然とする。
(Leka!?)
 髪型はいつもの後ろでまとめた長髪でなく、織り込んでいたからわからなかった。Lekaだった。賭け事を取り仕切るディーラーとしての正装が眩しい……ではなく、幼馴染の親友が、ここで何をしているのか。Teruの頭は混乱に陥る。
 一方、Hermarnはカードが配られる間、不敵な笑みを浮かべ、体を傾げてTeruに耳打ちする。
「あのディーラーは俺が買収してある。勝負には勝てるように仕組んでいるのさ」
 Teruはその言葉に、さらに頭がこんがらがった。Lekaを見つめるが、その赤い瞳は手元から一切ぶれない。Teruに気づいていないはずがないのだが。
 ゲームは進む。最初はHermarnが優勢になる瞬間もあったが、しかし、勝負が進むにつれ、彼の顔は青ざめていくことになる。Lekaはまるで悪友の企みを見透かすかのように、公平にカードを配っていく。
 結果は、貴族の若者たちの大敗だった。獣人たちの歓声が、賭博場に木霊する。
 Hermarnは青ざめ、TeruはLekaを見つめる。親友の瞳には、なんの感情も読み取れない。Teruは目を伏せ、なにか策はないか考える。しかし、カードの分配は公平であるようにしか思えなかった。糸口などない。
 Teruたちの負けは、大きくマイナスを示す。敗北が決定的になると、獣人たちはTeruたち貴族を取り囲み、借金の催促を始める。絶体絶命のピンチ。Teruは目線でLekaに助けを求める。だが、Lekaは無視してカードをシャッフルし続けるだけだ。
 その時、獣人たちの間に、一つの声が響き渡った。
「待て。貴族の若造に、もう一度借金を返済するチャンスをやろうじゃないか」
 声の主は、目に傷のある獣人だった。狼の血を引く、傭兵ギルドを仕切る、有力な隊長の一人だ。その提案に、場の空気が一変する。Teruは戸惑いを隠せない。予想外の展開に、頭が追いつかない。
 傷の獣人が、ニヤリと笑みを浮かべる。
「ただし、次の勝負に負ければ、お前らの借金は倍になる。いいな?」
 その言葉に、Teruの血の気が引く。恐怖で体が震える。Hermarnは狼狽し、必死に言葉を探す。
「ま、待ってくれ! そんな勝負は……」
 しかし、獣人ボスは容赦ない。
「嫌なら、今すぐ借金を返済するがいい」
 凍りついた空気の中、Teruは唇を噛みつつ、Lekaを見る。親友の瞳には、何か信頼できるものを感じた。
 二人の視線が、一瞬交錯する。
 その時、Lekaの口が、かすかに動いた。
(やれ)
 Teruは前へ出た。Hermarnは慌てる。Teruは決して下手ではないが、あまりにプレイングが堅実すぎる。ここ一番の大勝負で勝てるガッツがない。
「おい! Teru! やめておけ! ここは俺たちの中でもう少し相談してだなあ……」
 バン!
 傷の獣人がテーブルを叩いた。
「その、女の子みたいな坊やで、いいんだな?」
 HermarnはTeruと獣人の方を交互に見るが、その間にTeruはテーブルについた。それを合図に、Lekaは再びカードを切り始める。Hermarnは激痛に耐えるかのような顔をして、天井を仰ぎ見た。
 借金地獄か、それとも破滅か。究極の選択を迫られた若き貴族たちの運命は……。
 Lekaがカードをテーブルで滑らせ、Teruがそれを受け取る。Teruの指がカードにかかる。彼はゆっくりとめくる。指の汗でカードがふやけるのではないかというくらい、じんわりと手のひらに湿りを感じる。獣人たちが見守る。湾曲したカードの表が、Teruの目に入る。それは、必勝確定の組み合わせで……。
 バン!
 その時、大きな音がした。全員が振り向く。先ほど獣人のボスがテーブルを叩いた時の、比ではない大きな音。
 全員の視線の先で、Hermarnは怒りに震えていた。完璧なはずの計画が破綻し、窮地に立たされたことで、彼の自尊心は打ち砕かれたのだ。
「こんなはずじゃなかった……! 俺は……俺は……!」
 高く掲げられた右腕には、何かが握られている。それは白く煙を吐いていた。
「銃か!?」
「ヤロウ! ふざけやがって!」
 いきり立つ獣人たち、しかし大きな声が響いた。
「クハハハハ!! 傑作だぜ!」
 目に傷のある、傭兵たちの指揮官だった。彼は狼の牙がずらっと並んだ口を大きく開け、心底おもしろそうに笑う。
「オイオイオイオイ、それは新式の銃か? お前んとこの工房で作ったのか? ええ? オイ……」
 殺気立つ獣人たちを押さえ、傷の獣人ボスが言った。Hermarnは答えない。銃を持った右手を掲げたまま、荒い息をついている。興奮しているのだ。その右手に輝く、全てが金属でできた銃は、確かに傭兵たちの持つマスケット銃なんかより、数段進んだもの……。リボルバー式拳銃だった。まだ試作品で、Hermarnが家の工房から勝手にくすねたもの……。だがそんなものでビビる百戦錬磨の傭兵たちではない。所詮は、貴族の小僧。どうとでも転がせる。その余裕こそが、このルール違反を前にして、落ち着き払った態度を維持する理由だ。獣人傭兵のボスは、ゆっくり毛むくじゃらの右手を差し出す。長く鋭い爪を見せびらかすように、手のひらを上に向けて広げてみせた。
「貴族の坊ちゃんがそんなもん持ち出しちゃしかたねえや、ほら、よこしな。」
 Hermarnはもう頭が茹で上がっている。
「黙れ! 今夜の賭けは帳消しだ!」
 今し方発砲した拳銃を獣人のボスへと向けた。
「舐めるなよ? こいつは特別製だ!」
 しかし、傷の獣人ボスは動じない。ニヤリと不気味な笑みを浮かべ、ゆっくりとHermarnに近づく。立ち上がると背が高い。180cmのハーマンよりも頭ひとつ抜きん出ている。狼のしなやかな体は、一瞬で詰め寄ってHermarnの首を噛みちぎれるだろう。
「帳消しだと? お前らが負けたのは紛れもない事実だろう? ええ?」
 狼の口がニタァっと開いて黄色い牙を見せる。その言葉に、その顔に、Hermarnの手が震える。引き金に指をかけたまま、彼は唇を噛みしめた。しかし貴族として、彼はビビるわけにはいかない。少なくとも、ビビっていることがバレるわけにはいかないのだ。
「そんなことさせるか! このピストルには魔法科学ギルドの最新技術が詰まっているんだ! 一発撃って終わりだと思うなよ……? こいつは簡単に射撃できて……」
 その時、背後から不意に腕を掴まれ、ピストルを奪われた。驚いて振り向くと、そこには獣人の部下が立っていた。Teruも他の仲間も反応できない。あまりの素早さに、Hermarnは言葉を失う。部下の獣人は、あっという間にHermarnから銃を奪う。傷の獣人ボスが、部下がポイっと投げたピストルをがっちり手に取り、ニヤリと笑う。
「貴族様よ、ここはお前らのシマじゃない。調子に乗るなよ」
 そしてリボルバー拳銃を繁々と眺め、その構造を理解しようとする。それはアーティファクトを利用して作り出された最新式の銃。フリントロックしかないこの世界では、過ぎた発明品だ。
「これは良い品だ。魔法科学ギルドの連中も、こんなものを作っているとはな……」
 そして、部下たちに目配せをする。次の瞬間、Teruたちは獣人に取り囲まれ、身動きが取れなくなっていた。
「おい、待てよ! 俺たちは貴族だぞ! こんな真似して……」
 Hermarnが抗議の声を上げるが、獣人ボスは耳を貸さない。
「貴族だろうと、ここではただの客だ。借金は払ってもらう。払えないなら、代わりにお前らの身柄を頂くぜ」
 Teruは傭兵獣人たちに押さえつけられながら、背筋に冷たいものが走る。人質になるくらいなら、まだ借金を返済した方がマシだ。だが、どうすればいい? Lekaを見やるが、彼女は冷ややかな表情で事態を傍観している。
 首根っこを掴まれながら、Hermarnは歯噛みし、拳を握りしめる。自分の策略が完膚なきまでに破れ去ったことが、彼の自尊心をズタズタに引き裂いていた。
「くそっ……!」
 彼の悔しさが、賭博場に充満する緊張感に拍車をかける。
 次の瞬間、衝撃的な出来事が起こった。
  バーン!
 その場にいる全員が固まった。銃が発砲されたのか? いや、違う。獣人のボスですら訳の分からない顔をしている。賭博場は異様な光景だった。急に部屋が広くなった気がした。いや、それは錯覚だ。中央にあった賭博台が、いつのまにか消えていたのだ。傭兵も、貴族の若者も、全員がポカンとする。
「あ、あぶねえ!?」
 誰かが叫んだ。テーブルは、いつのまにか宙を舞っていたのだ。あまりのことに、部屋の中の全員が飛び退き、部屋の端に寄る。その隙に、Teruの学友は、何人か逃げ出した。
「あ! オイ!」
 しかしHermarnはがっちり掴まれていたので、逃げようがない。Teruも同じだった。そして、テーブルが落下した。
 ズズン!
 数百キロの重さのそれは、床を少し陥没させて着地した。上下逆さまに……。
「こ、これは……っ!?」
 Hermarnは思わず息を呑んだ。テーブルの仕組みが顕になったのだ。鏡が巧妙に設置され、HermarnやTeruが座った側の情報が、傭兵の側から手に取るように分かるようになっていた。獣人の何人かが、バツが悪そうな顔をするが……。
 問題は、どうしていきなりこんなどでかいものが裏返ったかだった。
 Teruには答えがわかっていた。
(Leka……!)
 彼女はムスッとしていた。知らんぷりで目を閉じて腕を組んでいた。誰も、まさか人間がこんな真似をするとは思っていない。人間や亜人種は、瞳の色によって魔法の力を宿すことは一般常識だ。しかし、全員がその力を持つとは限らないし、持っていても覚醒させられるとも限らない。ここまでのことができるのは稀だ。いくらLekaが赤い瞳をしていることを知っていたって、すぐに目の前の光景の犯人を彼女だと断定はできない。
「ハ……ハッハッハッハ!」
 Hermarnが高笑いした。再び元気を取り戻したようだ。
「やはりイカサマをしてやがったな!? これで賭けは帳消し! 帳消しだ! さあ、離してもらおうか!? 俺たちは貴族、獣人のクソども、さっさとその臭い体を離せ……」
 それは禁句だった。目に傷のある獣人傭兵は、完全にブチ切れたようだった。Teruですら、まずい、と思った。彼はHermarnから奪ったリボルバー拳銃を、Hermarn自身へと向けた。Teruは、Hermarnの名を叫んだ。しかし、それで何が変わるわけもない。
 バン!
 それは、発砲された。しかし、弾は持ち主には当たらなかった。傷の獣人の手から、ピストルが弾き飛ばされたのだ。
「ガッハア!? な、なんだ!?」
 傷の獣人が激痛と驚愕で声を上げる。今の衝撃で指が捻じ曲がっている。Teruも目を見開いた。ピストルは、壁の魔光灯にぶち当たり、ガラスが割れて飛び散る。魔力の奔流がジラジラと異常を示してゆらめく。
 裏返った賭博台の上に、颯爽とした姿のLekaがスラリと立っていた。彼女は手を腰に当てて、ため息をついた。
「ったく、おいたがすぎるぜ……。おい、お前ら。そろそろ遊びは終いだ」
 HermarnとTeruに向け、冷たい口調で言い放つLekaに、場の空気が一変する。Teruは思わず息を呑んだ。赤い瞳が殺気を帯びているのを見た。彼女のプロとしての顔が、そこにはあった。
「てめえ……腕のいいディーラーとして目をかけてやったのに……」
 傷の獣人が怒りを露わにしてLekaを睨みつける。だが、Lekaは微動だにしない。
「ああ? こっちはテメーのイカサマの片棒担がされてウンザリだぜ」
 Lekaは足元のテーブルをゴツゴツとブーツで叩く。鏡がピシッと割れた。そして大きな声で言った。
「オイ! イカサマには目を瞑ってやるからよお、とりあえず今夜のことは忘れろ」
 その言葉に、獣人たちがザワザワと色めき立つ。しかし、Lekaは動じない。周りに十人はいる屈強な獣人傭兵からの殺気を浴びても、それ以上の迫力を全身から発している。獣人たちは、むしろ気圧されていた。しかし、ボスの獣人が一括した。
「ふざけるんじゃねえぜ!? これだけ舐められて引き下がれるかってんだよクソ女。正体は知らねーが、おおかたどっかのギルドの犬だろ……やっちまえ!」
 獣人傭兵たちは腰の得物を抜いた。喧嘩剣と呼ばれる、分厚い決闘用の短剣だ。
「おいおい、本気かよ……」
 Lekaは呆れたように言ったが、その瞳は笑っていない。次の瞬間、Lekaの姿が消えた。獣人たちが目を疑う間に、彼女は彼らの間を縫うように移動し、次々と喧嘩剣を叩き落としていく。
「なっ……!?」
 獣人たちは混乱し、抵抗しようとするが、Lekaの速さについていけない。わずか数秒で、全員が武装を解除されてしまった。
「ち、ちくしょう……! こんな女に……!」
 傷の獣人が悔しそうに歯噛みするが、もはや為す術がない。獣人たちは観念したように項垂れる。勝ち目がない。Lekaの戦闘技能に、彼らは恐れをなしたのだ。
「テメエ、さては暗殺ギルドの……」
 Lekaの赤い目が傷の獣人を捉えた。まだ戦意を喪失していないようだ。彼は折れた指を無理やり戻す。ボキッと音がした。Teruが顔をしかめる。獣人のボスは、地面に落ちた喧嘩剣を拾い上げ、Lekaに向かって叫ぶ。
「舐めるんじゃねえぞ、クソ女!」
 彼は喧嘩剣を振りかぶり、Lekaに斬りかかる。その動きは、獣人の中でも特に俊敏だ。だが、Lekaにとっては、あまりにも遅い。彼女の身体が、まるで重力に逆らうかのように宙を舞う。しなやかに、そして精密に動く手足が、傷の獣人の攻撃を易々と避ける。傷の獣人は、Lekaの動きに翻弄され、混乱する。彼の攻撃は、Lekaに比べればまるで子供がおもちゃで遊ぶようだ。Lekaの動きは、まるで獣人の男を中心に飛ぶ歯車のように、体が触れ合うような距離にいながらにして、彼の剣撃とは反対の方向に身を翻す。目にも止まらぬ速さで、傷の獣人の周りを縫うように。
 Lekaの瞳には、戦いの興奮と、勝利への確信が燃えている。彼女は、自らの力を心ゆくまで解き放っているようだ。だが、フェイントをかけ、獣人がLekaの流れるような髪を掴んだ。ニヤリと笑うが、それは罠だった。次の瞬間、Lekaは床を蹴って勢いをつけ、彼の腹部に強烈な一撃を見舞う。
「ぐっふう!?」
 傷の獣人は、その衝撃で息を呑み、崩れ落ちる。彼はもはや、立ち上がる気力すら失っていた。
 Lekaは、倒れた傷の獣人を見下ろし、静かに告げる。
「あーしに勝てると思ったか? 愚かだな」
 その言葉が、賭博場に冷たく響き渡る。まさに絶句だった。その場の全員が、みたこともない力量差の戦いに、言葉もなかった。Lekaは満足げに頷くと、うずくまる傷の獣人を放っておいて、Teruたちに歩み寄る。
「Teru。それからそっちのでかいの。帰るぞ。もう十分遊んだろう」
 二人がショックで動けないのを見て、Lekaは腕を組み、ため息をつく。結果的に、潜入しての監視は失敗してしまった。父Tattionへの説明のことを思うと、気が重い。
 Teruはやっと、困惑しながらも安堵の表情を浮かべ、頷く。Hermarnも、不服そうではあるが、Lekaに従うしかないと悟ったようだ。TeruはHermarnに手を貸し、立ち上がらせる。Teruは気遣うが、それ以上の手助けをHermarnは拒否した。Lekaが床に転がったリボルバー拳銃を回収し、Hermarnの襟を引っ掴んで懐に突っ込んだ。
 三人は賭博場を後にする。Lekaの颯爽とした後ろ姿。暗い通りに白金色の髪が目立つ。Teruは複雑な思いを抱く。今し方見た、幼馴染の隠された素顔。それは、彼の脳裏に強く焼き付いて離れない。
 外は、夜の帳が下り、空気は冷たく静かだった。闘技場の喧騒は遠く、それを背にして帰る道のりは、どこか侘しい。Teruは足を少し早めて、前を行くLekaに近づく。
「Leka……なんで、こんなところに?」
 小さな声で問いかける。LekaはTeruを振り返り、少しイラついた声で言った。
「任務さ。ここの監視を命じられていたんだよ。これでパーだけどなあ」
 その言葉に、Teruは息を呑む。任務、ということは……。
「その……Tattionさんからの命令なの?」
 Teruの問いに、Lekaは何も答えない。黙って前を歩く。Teruはそれ以上何も言えなかった。なんにせよ、迷惑をかけたのは間違いない。しかし、Hermarnは言いたいことがあるようだった。前へ出てきて、彼にしては珍しく下手に出た。
「お嬢さん、あなたは……暗殺ギルドらしいな。かなり腕の立つ暗殺者とお見受けする。とりあえず今夜のことは、例を言う。しかし、傭兵の隊長をあれだけコケにして、無事に帰れるとは思わない方がいい」
「あ?」
 貴族のお坊ちゃんの言葉に、Lekaはあからさまに不機嫌な声をあげた。
「んだよ、わかったようなクチききやがって。召使いがあーしに渡してきた金なら返してやるが? それ受け取ったら帰れよ? あーしは任務に失敗してイライラして……」
 その時、はるか後ろで、爆発音がした。
 Lekaは一瞬、雷を喰らったような電撃の感覚を得た。即座に両脇を歩く貴族の若者の襟を掴むと、そのまま思いっきり宙に飛んだ。
「ぐえっ!?」
 急にひっぱりあげられてTeruもHermarnも変な声を出す。Lekaはできるだけ遠くに飛んだつもりだったが……。流石に三人分の重さでは、距離が稼げない。通りの石畳が轟音と共に飛び散った。 
「ぐうっ!?」
 Lekaはできるだけ衝撃を和らげつつ、二人を石畳の上に転がした。全く受け身も取れなかったTeruとHermarnだが、奇跡的にかすり傷で済んだだった。Lekaは空中で一回転して体勢を立て直す、つもりだった。
「いっづ!?」
 苦悶の声を上げて着地に失敗してしまう。負傷……? Lekaはすぐに体を確認する。
「だーっ、クッソ!」
 思わず悪態をついた。脇腹に砕けた破片か何かが当たり、筋肉が悲鳴を上げていた。砲弾自体を避けることはできたが……。
「Leka! 平気!?」
 Teruが自分もHermarnも構わずに、Lekaに駆け寄ろうとする。
「あっち行ってろ! すぐにそのアホ連れて逃げろ!」
 叫んでも傷に響いた。Lekaは目を凝らし、土煙の中から夜の闇を見通す。今し方までそこにいた、獣人傭兵たちの賭博場の前で、煙を上げるものがあった……。
「あいつら、正気じゃねえぞ!?」
 Lekaは思わずそう呟いた。

「クッハッハッハッハ! 奴ら、木っ端微塵だぜ!?」
 目に傷のある獣人が狂喜して叫んだ。周りの傭兵たちは不安げな顔で再度大砲の弾込め作業をしている。とりあえず賭博場は一旦休業のようだ。すっかり賭場の仕切る親分の顔から傭兵隊長の顔になった獣人のボスは、傷のある目を血走らせ、狼の唸り声を上げつつ指示を飛ばした。
「近くで待機してる部隊を呼べ! もうこうなりゃメンツの問題だ! 傭兵ギルドの底力見せたれや! Jadwan隊長には話をつけておく! 我らが一番槍だ! これは威力偵察だってなあ!」
 獣人たちは慌ただしく動く。賭博場に隠していた大量の武器が取り出され、大砲を隠していた隣の民家からさらに大量の兵たちが出てきた。

「ったく、とんでもねーことになったな……」
 Lekaは建物の影から賭博場の方を見た。監視と潜入の結果、大方相手方の様子は掴んでいたが……ここまで集結しているとは思っていなかった。勢力はどんどん増えている。Lekaは脇腹の傷を確かめる。出血もあるが……何より筋を痛め、もうさっきのような動きはできそうにないだろう。逃げるも戦うも、ろくに出来そうにない。Lekaは歯を食いしばり、とりあえず叫んだ。
「オメーらはさっさと逃げろ!! あーしはあいつらをなんとかしなきゃなんねー!」
 足を挫いたらしいHermarnに肩を貸していたTeru。驚いてLekaを見た。
「なっ!? Leka!? 君が!? なんで!? 冒険者ギルドの鉄錠級をを呼ぼう! 君が対処できるわけないだろ!?」
 Lekaは必死の形相で反論する。
「あいつらなら呼ばなくったって砲撃音で寄ってくるよ! しかし来たって対処できねー! あいつらはこの街最強の暴力装置だぜ!? あーしはあいつらの監視任務についてたんだ! あいつらが反乱を企ててたことはわかってる……。あーしが刺激したせいでそれが早まったんなら……このまま逃げらんねーよ!」
 TeruはHermarnとLekaを見比べつつ、
「ね、ねえ、逃げようよ! 妙な責任感を見せないでさあ! 君は……Leka、君は一体……」
 Lekaは立ち上がる。なんとか戦うことはできそうだが……。敵を圧倒する動きはできそうにない。いつもはあまり使わない投げナイフを腰のベルトから取り出した。その冷たいきらめきが、夜の通りで瞬く。Teruはもう、Lekaの仕事の内容を確信していた。Lekaはごくりと唾を飲み込み、言った。
「……あーしは……暗殺ギルドの裏の暗殺者だ。殺しなら、散々やってきたさ」
「Leka……」
 そしてLekaは路地へと入る。TeruもHermarnを連れて後を追う。また砲撃音がして、今度は石造りの建物に砲弾が着弾した。二人はなんとか路地に逃げ込めたが、建造物が砕けた破片とホコリと土煙の中、TeruはLekaを見失ってしまった。
「Leka!」
 Hermarnが痛みに声を上げたので、無理はできなかった。Teruは彼を路地に下ろすと、急にガシッと胸ぐらを掴まれた。Hermarnが額に汗を浮かべつつ、Teruに問いかける。
「Teru。どうするんだ?」
「ど、どうするって……」
 Teruの青い目が伏せられる。しかしHermarnが足の痛みも無視して、Teruの華奢な体を引き上げる。
「うっ!?」
 Teruは呻く。Hermarnの体格からすれば、たとえ足を捻っていようが造作もないことだ。痛みに耐え、荒い息を吐きながら、Teruの兄貴分を気取る素行不良の学友が語りかけた。どこか嬉しそうに。
「Teru。まったく見直したぞ。お前にこんな隠し事があるとは……。穏やかに生きることしか考えない腑抜けだと思っていたがな」
 Teruの方も、襟を絞られながらも、いつもと違ってHermarnに反抗的な物言いを返す。
「き、君も、土壇場ではずいぶん冷静さを失うじゃないか。銃なんか取り出してさ」
 Hermarnは笑った。
「言うじゃないか。しかし、Teruよ。あの女性とどういう関係は知らないが……死なせたくはないよな!?」
「あ、当たり前だろ!」
 Teruは今まで学友に対して出したことのない声を浴びせた。いつだって傍若無人な兄貴分として振る舞ってきたHermarnだったが……。Teruをただのパシリ扱いしたことは一度もない。弟分として、目をかけていたつもりだった。しかし、軟弱なやつだと侮っていたのは事実だ。街の歴史に燦然と輝く偉大な父がいるのに、ガラクタいじりにしか興味がない、気力に欠ける少年だと。
 だが、そんな弟分が成長する時が来たのだ。Hermarnはニヤリとして、自分の上着の懐をまさぐった。
「だよな」
 そして、Teruの手にズシリと重いものを握らせた。
「これは……」
 困惑するTeruに、彼の兄貴分は笑いかける。
「撃ち方を教えてやる」

 建物の間を縫うように駆け抜け、Lekaは大砲へと接近する。痛む脇腹を気にしつつ、今出せる全力で装填手たちに襲いかかった。
「ぎゃっ!」
 猫族の獣人が首から血を吹く。Lekaの投げナイフが刺さったのだ。獣人のボスが、傷のある目を血走らせて飛んできた方を見た。
「ヤツだ!」
 Lekaは賭博場から漏れる灯りだけを頼りに、気力を振り絞って傭兵たちのリーダーに襲いかかる。今度は先ほどと違い、仕留めるつもりだったが……今の傷ついた状態のLekaの攻撃を、百戦錬磨の敵は見切ったようだった。喉を狙った鋭いナイフの一撃を、寸前でかわし、Lekaに組みついて持ち上げた。
「ぐあっ!?」
 ダイレクトに傷口を締め上げられ、Lekaは苦しそうな呻き声を上げる。獣人傭兵のボスは、そのまま彼女の体を路面に叩きつける。
「がはっ!」
 Lekaの肺の中の空気が押し出され、数滴の血と一緒に口から噴き出た。獣人のボスはLekaの上に馬乗りになって、狼族の大きな口から飛び出た舌でベロンと涎をなめとった。
「ククク、会いたかったぜ、お嬢ちゃん……さっきと違ってずいぶん動きがトロいが……怪我でもしたか?」
 そう言って、彼はググッと膝に力を込め、Lekaの腹を締め上げる。Lekaの脇腹の傷口から血が漏れ出た。赤い瞳が痛みでブレるが、Lekaはなんとか抵抗しようともがく。しかし流石にこうなっては手も足も出ない。周りの獣人傭兵たちが興奮して騒ぎ出した。目に傷のある隊長は、Lekaを押さえつけつつ、得意げに叫んだ。
「誰も手を出すんじゃねえぜ! この女は俺をコケにしやがった! たっぷりお礼をさせてもらう……」
 しかし、そのセリフは最後まで言い終えることはできなかった。
 パン!
 乾いた音。マスケット銃の黒色火薬とも違う、聞きなれない破裂音……。獣人のボスの目から、鮮血が噴き出す。銃弾は目から入り、頭蓋骨を砕いたようだ。彼の体がゆっくりとLekaの上に崩れ落ちた。
「な、何が……?」
 Lekaは混乱しつつも起き上がり、そして驚く。
「オ、オメー、逃げろって……」
 そこにいたのは震える手で拳銃を握る、Teru。撃ったのは、他でもない。彼だったのだ。Teruは手に握ったリボルバーから立ち上る煙を見つめ、自分でも信じられない様子だった。彼は、初めて人の命を奪ったのだ。その手はすぐに震え出す。リボルバー拳銃ごと、ブルブルと……。Teruの中で、初めて人を撃った衝撃と、Lekaへの強い思いが入り混じる。命の危機に瀕しながらも、Lekaを守りたいという決意だけは揺るがなかった。
「Teru……オメー……」
 Lekaの言葉に、Teruはゆっくりと目を閉じ、そして開く。彼の瞳には、もう迷いはない。
「Leka……責任を背負うべきなのは、君だけじゃない」
 その言葉に、Lekaは胸が熱くなるのを感じた。だが、その温かな感情も、すぐに現実に引き戻される。
「ボスが……ボスが死んだぞ! あの貴族の坊主が殺したんだ!」
 獣人たちが怒号を上げて武器を掲げ、Teruに襲いかかろうとする。Lekaは懸命に立ち上がり、Teruを守るために獣人たちに立ち向かう。だが、足に力を込めた瞬間、ガクンと倒れ込む。脇腹の傷はもう、Lekaの動きを完全に封じていた……。
「うっ……Teru!」
 貴族の少年に危機が間近に迫る。獣人たちの怒りは頂点に達し、殺意が周囲を支配していた。
 突然、時が止まったような気がした。あたりを風が吹き抜けた。Teruはゾクっとした寒気を感じ、Lekaの髪が靡いた。傭兵たちも止まる。ビクッと一瞬体が震え、凍りついたように停止したのだ。それは、圧倒的強者に薄く鍛え上げられた刃のような、研ぎ澄まされた殺気をぶつけられた時の……。生き物の自然な反応だった。
「良く頑張ったな、Leka」
 低い声が聞こえた。Lekaの紅の目が、絶望以外の光を宿す。Teruに向かっていた獣人傭兵たちは、急に糸が切れたMarionetteのように、バタバタと倒れた。
「うわっ!?」
 Teruはその下敷きになってうめいているが、無事だ。むしろ彼は自分より最愛の幼馴染の方を心配していた。もはや動かなくなった傭兵たちの下で、Teruは見た。Lekaのそばに、まるで社交界パーティー会場帰りとでもいうような、格式ばった黒いスーツ姿が降り立つのを。
「Tattionさん……」
 この街最強の暗殺者は、執務室で仕事をしていたままの格好で、駆けつけたのだった。彼は、Lekaにひざまづき、抱きしめた。Lekaの方も、目にうっすらと涙を浮かべながら、Tattionの体を抱きしめ返す。LekaはTattionの腕の中で小さく震えていた。普段は強気で飄々としている彼女も、まるで小さな子供のように……。Tattionはそんな彼女に頭を優しく撫でながら、低い声で何か語りかけている。 離れているTeruには言葉の中身までは聞こえなかったが、その声はまったく暗殺者のボスらしくない慈愛に満ちていた。Lekaも、Tattionの胸に顔を埋めて、心の底から安堵しているようだった。
 それを見た瞬間、Teruには全てがわかってしまった。二人の間の関係、その秘密が……。
(そうか、LekaはTattionさんの……)
 まだ二人は固く抱き合っている。TattionのLekaへの態度は、親としての愛情というよりは、よく躾けられた飼い犬を可愛がるようにも見えた。Lekaは父親への全幅の信頼を示すように、体重を黒いスーツの老人に預けてはいるが……どこか、痛みに耐えるような顔をしている。Teruにはわかる、わかるんだ。幼馴染みとして多くの時間を二人だけで過ごしてきた彼には……。同時に、Lekaの心を、救いたいという奔流のような感情が、彼の中で渦巻いた。それは、彼が今まで正面から見据えることがなかった感情で……。
 その思考を途切れさせるように、Teruの体がすごい力で引っ張り上げられる。
「うわっ!?」
 担ぎ上げられたらしい。Teruが首を回して確認すると、スキンヘッドの男の顔と目が合った。
「あ、あはは……どうも……」
「かかれ!」
 Teruの間抜けな挨拶を無視し。Stavroが指示を飛ばす。その瞬間、賭博場の屋根や近場の建物の窓から、黒い影が飛び降りた。反乱を企てた傭兵たちは、たちまちのうちに壊滅した。

第五章 レカとテル

「怪我は大丈夫なの? Leka」
「ん……」
 Teruはあたりを改めて見回した。暗殺ギルドの屋敷は、作りは自分の屋敷とそんなに違わないが、照明はずいぶん抑えられている。魔力エネルギーは使っていないようだ。魔光灯も魔力炉もなく、蝋燭と暖炉だけだ。暗い部屋の中で。Teruは毛布を被り、暖炉の火にあたっていた。側に来たLekaが話しかける。
「しっかしオメーもツイてねえなあ。賭博遊びで反乱に巻き込まれるとは……いろんなことが重なった結果だが、こっちとしても敵の狙いはわかった」
「反乱……」
 Teruはその言葉をつぶやく。極めて重大な言葉だった。傭兵の反乱。一体どこまで……。
 隣に座ったLekaは、絨毯の上に腰を下ろす時、イテテと言っていて、Teruはさらに心配の言葉をかける。
「っぜーなあ。薬塗っときゃ大丈夫だよ。昔は腹に穴が空いたことだってあるんだ。これくらい……傷、見るか?」
 Lekaは暗殺者のコスチュームの腹のところをめくった。暖炉の灯りの中に、白い肌があらわになる。女性の肌なんか屋敷のパーティーでしか見たことがないTeruは、慌てて手をかざした。
「ちょ、やめてよ、謹んで……く……れ……あ……」
 Teruは言葉を失った。あぐらで座るLekaのヘソ、そのすぐ横……。今当て布をして治療している脇腹の怪我とは反対側。そこにある痕は、完全に治ってはいたが、極めて酷い傷だった。Teruはそこから目を離せない。生死の世界を彷徨ってもおかしくない、大きな傷……。不揃いで雑な縫い痕は、応急処置しかできなかったことを示している。
 Lekaはさっと衣服を戻してしまう。
「変態」
 ニヤニヤしながら。しかしTeruはちっとも笑えなかった。むしろ、思い詰めた表情で膝を抱える腕に力を込める。金髪の下の青い目が、じっと暖炉の火を見つめた。
「死ぬかと思ったよ、Leka」
 Lekaは少し座る位置を変え、Teruに寄り添ってくれる。そして頭を彼のポンポンと撫でて、安心させるように穏やかな声で言った。
「だよな。危ねえ目に遭って。貴族のガキにゃあ、決闘でもしないとこんな目には……」
 TeruはLekaの顔を見た。真剣な眼差しに、Lekaは思わずドキッとしてしまう。
「違う! 君が……Lekaが、どうにかなってしまうんじゃないかって……」
 二人は、少しの間お互い見つめ合ったあと、Lekaの方から視線を切る。紅の瞳をTeruから外し、暖炉を見つめた。
「あーしは……いいんだよ、死んでも」
 Teruは、Lekaの言葉に衝撃を受ける。死んでもいいだなんて、絶対Lekaの本心じゃない。Teruは、Lekaの肩に手を置き、真剣な眼差しで語りかける。
「馬鹿なこと言わないでよ……っ! 君の命は、そんなに軽いものじゃない……」
 Lekaは、その言葉を聞いても、Teruに揺さぶられても、彼の方を見ることはない。ボソッとだけ言った。
「ボスの命令があれば死ぬさ」
 Teruは絶句した。しばらく、暖炉の火が燃えるパチパチという音だけが、二人の沈黙を取り持った。Teruは、Lekaの肩から手を下ろし、意を決して言った。
「ねえ、Leka。君のお父さんは、本当に君を愛しているのかな」
 空気が変わった。蝋燭の火が一瞬消え、暖炉の火がバチンと弾けて、少し、部屋が暗くなった。Teruはゾワっとしたおぞけに襲われる。気のせいではない、決して。Lekaの赤い瞳から、炎が、ぼうっと立ち上ったような気がした。……赤い瞳の魔法の才能を開花させたものが、感情を昂らせた証拠。もっと経験を積めばその波も制御できるのだろうが……。
「Teru」
 Lekaは言った。震えながら。怒りを懸命に抑えているような声だった。
「……いつから……気づいてた?」
 Teruは、ごくりと唾を飲み込む。幼馴染み。小さい頃から一緒だったこの世で一番仲がいい旧知の仲でも……こういう気持ちになることがあると初めて知った。だが、恐れている場合ではない。
「Leka」
 Teruは勇気を持って言った。
「君は……君とTattionさんの間にどういう感情があるか、僕にはわからない。決してわからない。きっとお互いにお互いを大事に思っているんだろう。でも、その感情は僕だって持ってるんだ。Leka、僕も君を大事に思ってる。それだけはどうか、覚えておいてくれないか?」
 Lekaは、Teruの言葉に驚いたように目を見開く。だんだんと、部屋の穏やかな灯りが戻ってきた気がする。そしてある瞬間に、フッと何かが緩む気がした。Lekaが小さく笑みを浮かべる。
「Teru……優しいんだな、オメーは。小さい頃からずっとそうだった」
 Teruの心に、幼き日々の光景が思い浮かぶ。Lekaに追いかけられて、今は自分のガレージになった廃屋に逃げ込んだこともあった。だがむしろ今は……Lekaの方がTeruのガレージに逃げ込んでいたのではないのか? 嫌なことがあると、Teruとの心のつながりを求めて……。彼はその考えに至ると、急に胸がいっぱいになった。
「ごめん。気づいてあげられなくて。いや、そうじゃない。気づいていたのに気づかないふりしてたんだ。もっとごめん」
 パチパチと、暖炉が弾ける。魔光灯のぼうっとした青白い光ではない、暖かくて柔らかな瞬きの中で、Lekaの、傷つきささくれだった心も穏やかになる。
「……オメーは悪くねえ」
 じっと炎を見つめながら、言った。
「バレていいことじゃないし、話していいことでも気づいていいことでもねーだろ。誰だって気づかないふりするさ。そうさ。人殺しが、あーしの本当の仕事さ。ごめんね、Teru。軽蔑しただろ」
 そう言って、Lekaは顔を伏せて膝を抱え込む。まるで人生の全ての苦しみを一人で抱え込むように。Teruは哀れみを感じた。
「Leka」
 そして溢れそうな気持ちが、かつて幼馴染みがふいに見せた、別れ際の表情を思い起こさせる。Teruは普段の明るいLekaからは想像できないその印象を、強く記憶に残していたが……今やっと、その理由がわかった。
「Lekaは、悲しい顔するんだね。毎回僕のところから、仕事ってやつに向かう前にさ」
 Lekaは答えない。Teruは力強く呼びかける。
「本当は、気づいて欲しかったんだろ!? 本気で隠したいなら、もっとやりようはあったはずだ!」
 しばらく沈黙があった。やがてLekaは、消え入りそうな声で呟いた。
「でも、あーしは暗殺者だ。ボスはTattion。そう……オメーのご明察の通り、あーしの父親で……あーしは隠し子。あーしはあの人に、最強の暗殺者になるように育てられた。だから……いつ死ぬかわからない。それが、あーしの宿命なんだよ」
 Lekaの言葉に、Teruはじっと彼女の赤い瞳を見つめる。その色彩には、諦めと、誇りと……それから無知の存在を感じた。
 Teruはゆっくりと深呼吸をして、体の力を抜いた。Lekaから教わったやり方で。それにしても、胸が締め付けられる思いがした。Teruは彼女の運命の重さなんか、まったく理解していなかったのだ。想像すらついていなかった。Tattion卿を抱きしめるLekaの姿を思い出す。あれは、明らかに、親子の……。Teruは大きく息を吸い、体を起こした。自分より背が高いLekaも、今なら少しだけTeruの方が高い。TeruはLekaの肩を掴んだ。
「なあ、僕は君を知りたい。もっと君の傍にいたい。僕が知っている君は、僕と遊んでくれる明るい女の子じゃないか。ずっと、笑っているような……僕の知らないどこかで、何か危ない仕事をして死ぬなんて、耐えられないよ」
「Teru……」
 Lekaが、初めて感じる幼馴染の熱い想いだった。しかし彼女はそれを受け止めきれないと感じている。暗殺者の娘は、父親以外からこんなに熱い視線も思いも感じたことはないのだ。他人を信用する勇気が、ない。
「Teru……でも、でもあーしは……人を殺すことでしか、自分の価値を証明できないんだ。Teruは、あーしに居場所をくれたりしないだろ?」
 薄い金色をした髪が揺れ、Lekaの表情を隠した。震えている肩の揺らぎ一つ一つが、Teruの心すら震わせる。白い頬に、涙が見えた。
「何を言うんだ、Leka。いつだってガレージに来ていいよ? 今までだってそうだっただろう?」
 Teruは元気づけようとそう言ったのだが、Lekaは首を横に振る。涙が落ちた。
「そうじゃない。そうじゃないよ。ボスは……父さんは、あーしに役割と居場所と、それから誇りをくれる。あーしは、人を殺すことで街の平和に貢献できる。Teru、オメーは逃げ場所しかくれないじゃないか……」
 Teruは絶句した。Lekaから初めて聞く涙声に、言葉に、彼はショックを受けていた。
(Leka姉ちゃん、いつでも遊びに来ていいからね)
 Teruは確かにそう言った。何年も前、ガレージを完成させた時に。その時のLekaの寂しそうな笑顔の意味を、もっとよく考えるべきだったのだ。
あーしはこんなに人を殺したのに、救われていいはずなんか……ない」
 Teruはたまらない気持ちになる。
「Leka……」
 Teruは、Lekaの頭にそっと自分の額を添えてくれた。ふとLekaは、幼い頃からずっと一緒にいたTeruの存在が、どれほど自分の心の支えになっていたかを思い知った。なぜTattionと会った後、Teruの小屋に行っていたのかということも。三年前、Teruがガレージを完成させた時のことを思い返す。
 TeruはLekaの手を握る。Lekaは普段ならからかって投げ技なんかかけてくるだろうが……。今はされるがままだった。冷たいだった。寂しさの冷たい霧で、凍えてしまったような。
「Leka。それなら、約束するよ。僕が大人になったら、必ず君に……」
 Lekaは顔を上げた。涙があらわになった。そして笑った。Teruが言い終わる前に、LekaはTeruを抱き寄せようとし……。
 その時、広間のドアが開いた。コツコツという足音が近づいてくる。二人は我に返り、慌てて距離を取る。
「Leka、痛みはどうだ?」
 低い声が響き、Tattionが暖炉の光の中に入ってくる。TeruもLekaも不自然に背を向け合って座っていたが、彼は何も気づかなかったように微笑む。
「君たち、話し込んでいたようだな。Teruくん、もう遅い。屋敷に帰った方がいい」
 Tattionの言葉に、Teruは助けてくれた礼を言い、渋々と立ち上がる。彼は、Lekaに別れを告げるが、ふと、彼の手に触れるものがあった。Lekaの白い指。彼は立ち止まって振り返る。Lekaの笑顔が、暖炉の光で美しく輝く。
「Teru、ありがとう。助けてくれて」
 彼は幸福を感じた。そして黙って頷き、Tattionの手配した馬車で家へ帰った。座席で揺られながら、彼はLekaのことばかり思っていた。いつもの快活な明るさと、先ほどの思い詰めた赤い瞳の差を。また、会いたい。そればかりが熱い望みになって、心に灯った。

 屋敷に戻ったTeruを待っていたのは、いつもよりずっと静かな屋敷。玄関の前で少し立ち止まった後、Teruは踵を返して庭にある例の場所へ向かう。チラッと振り向くと、父親の部屋の魔光灯は消えている。窓も閉まっている。寝静まっているのか……。わからないがとにかく、窓から見ているLudvicと目がバッチリ合うだなんて情けない目には遭わずに済んだようだ。
 ホッと安心して、Teruは自分の城、手作りで改造したガレージに向かう。ドアを開け、暗い中手探りでスイッチを点ける。明るくなって目に入るのはテーブルと、天窓から誰か落ちてきてもいいように空けられたスペース……。Teruは安心できる自分のパーソナルな場所に帰りつき、どっと疲れを感じた。上着の中で、重く存在感を放っていたものを取り出す。ゴトっとテーブルに置かれたそれは、クロームの鈍い銀色の、この街にとっても、Teru自身にとっても、過ぎたオモチャ。
 Teruはガガっと音を立てて椅子を持ってくる。上着を脱いで壁にかけ、椅子を反対にして座った。肘も顎も背もたれの上に乗せて、ぼーっと拳銃を見る。……自分は今日これで人を殺し、Lekaを救ったのだ。そう思うと、なんだか実感が湧かなかった。

 カンカン、カタカタ。そんな音で、Teruは目を覚ました。
(あれ、ここ、どこだっけ)
 Teruは横になってはいなかった。ここはベッドでもない。むしろ彼は座っている。椅子だ。
(確か、帰ってきて……)
 臭いも感じた。金属と機械油と、それから何か懐かしいような……。だんだん状況が飲み込めてきた。
(ああ、そうだ、僕は……)
 小さな子供の頃の思い出。Tattionとの大事な話が終わり、Lekaが帰った後、Teruはよく、父の部屋で時間を過ごした。もう寝る時間だぞと言われるまで。父が図面を引いたり、部品を削りだしたりしているのを、よく眺めていた。
(懐かしいな、そうだ。最近父さんち過ごした時間の夢を見ていなかった)
 彼は、幸福を感じた。確かに彼はあの頃、幸福だったのだ。病で死んだ母親も、まだ歩くことができ、お茶とお菓子を持ってきてくれた。そして、部品が散らかった部屋で、三人で夜のお茶の時間を過ごしたのだ。涙が一筋、Teruの目から溢れて、木組の椅子の背もたれに伝った。
「どこに行っていたんだ、Teru。こんなもの持ち帰ってきて……。夜遊びか?」
「と、父さん!?」
 Teruは驚いて目を開いた。ここはどこだ? 父の部屋? 頭を回して確認する。……いや、なんの装飾もない。色々なガラクタでごちゃごちゃしている。父の部屋がいくら散らかっていると言っても、ここまでではなかったはずだ。ベッドだって粗末で……。
(ああ、そうか……)
 Teruは頭を拳でトントン叩く。天窓の外の暗さを見るに、今は深夜のようだった。開いたばかりの目を強く瞑って、あくびをした。
「起きたようだな、Teru。少し驚いたぞ。お前にしては冒険をしたんじゃないか?」
 Teruは眠たそうな目で父を見る。Ludvicは、上着を脱いで腕まくりをして、作業机に向かって何かやっている。Teruの方には目もくれずに、Teruと同じ色をした長髪も後ろでまとめて。太く筋肉の筋が浮き上がった腕が、小さな部品を取り扱う姿。見慣れた光景。しかし最近では見なくなった姿。
「と、父さん、ここで何を……」
「いや、なに。息子の様子を見にきたら、机の上に面白いものがあったんでな。ちょっといじっているのさ。ところで……」
 Ludvicは椅子の上のTeruをチラッと見た。
「寒くはないか?」
 なんとなく父らしくない言葉に、Teruは上着を着直そうとする。そして肩に手をやって初めて、そこに毛布がかかっていたことを知った。
「あ……」
 初めて感じる、親の気遣いだった。父から、そういう人間的な気遣いを受けた記憶は、数えるほどしかない。肩の毛布に手をやり、握りしめる。はっきりした目に見える愛情という衝撃で、眠気は吹っ飛んだ。母が死んで以降、こんなことは久々で……。
「父さん……」
 呼びかけてもLudvicは、Teruの方を見もせずに作業を続けている。会話のトーンも、寝てしまって返事が返ってこなければ構わないと言う印象だ。金属と油が焼ける匂いがする。作業机を上を見ると、Teruが見たこともない工作機械が乗っていた。明らかにLedvicが持ち込んだものだ。結構な動作音もしていて、よく気づかず寝ていたものだ。よほど疲れていたのだろう。
「Teru。上着が血の跳ねで汚れていたぞ」
「え……」
 Teruはドアの方を見る。確かにさっきは疲れていて気づかなかったが、白い生地の襟のところに、赤い点が付いているようにも見える。Ludvicが言う。
「お前らしくもない、喧嘩か何かか……。香水の匂いがしないところを見るとどうやら、娼館帰りというわけでもないらしい」
「はは……えっと……」
 Teruは言い淀んだ。さっきの出来事、なんと言えば……。今思えば、夢だった気もする。Lekaの顔……。少しぼーっとするTeruだった。Ludvicは少しうーむと唸る。
「まさかな。私の若い頃のように決闘騒ぎでもしたんじゃないかと、一瞬驚いたぞ。どうやらそうではないようだがな。決闘をして、お前が無傷で生き残るなど、ありえないことだ」
 フフッ、と、Teruは笑った。あまりにもいつも通りの父さんだったから。父親らしい気遣いは十回に一回の気まぐれで、他の大抵は、貴族らしい傲慢な態度。特に期待していない息子に向ける、単なるマウントでしかない、貴族流の愛情だった。だがTeruは今はそれが欲しかった。
「ッハハ。父さんだってこの前ありえないことがあったんじゃないの? Hermarnの家のパーティ、出かけた後、すぐにヨタヨタ戻ってきたよね? あれ、絶対決闘を仕掛けて、負けないまでも不覚をとったせいじゃないかと思うんだ。父さんが決闘で怪我をするなんて、数年前だったらありえないよね」
 Ludvicはこの日初めてまともにTeruを見た。手元は相変わらず機械部品をいじっていたが、目つきは少々の驚きと多大な関心、そして息子を再評価する喜びと慈しみが含まれていた。
「フン」
 それだけ鼻から漏らして、Teruに向けていた青い目を手元に戻す。黙って作業を続ける。だんだんと作業は進んでいっているようだ。Teruにはもうわからないくらい高度なことをしている。魔法と科学の、融合した技術の使い手、発明王Ludvic Arasis。Teruはなんだか誇らしかった。卓上の魔光灯の中に浮かび上がる父。疲れた体に感じる毛布の暖かさ。久々の、親子水入らずの時間。Teruは、胸の中に灯火のような暖かい愛情を自覚するのだった。
「だが、Teruよ」
 そして、そんな貴重な幸せの感覚も、長続きさせてはくれないことも、彼は知っていた。
「魔力を直接汎用的なエネルギーに転用する技術が偶然Liminal Dungeonで手に入ればいいのだが……。現在入手できている科学技術では、一度電気に変換しないとなかなか効率的な運用はできないようだな」
「……へ?」
 Teruは、あまりにも予想外の父の話に、マヌケな声を出してしまう。Ludvicはなおも続ける。
「ふむ。ゴーレムに組み込むべきは、魔力転換炉か、内燃機関か……発展させた時に電力が必要ないのはどちらだ……?」
 Ludvicは相変わらず手を止めることなく、横目でTeruを見た。Teruは三秒ほどで、降参の印に机に預けていた手をちょっと挙げてヒラヒラさせた。
「はは、さっぱりわからないや」
 次の瞬間、殺気のこもった目線がTeruの顔面を射抜いた。さすがにTeruも全身総毛だって、身体を起こして椅子の上に姿勢を正す。緊張感を伴う、貴族らしい親子関係。Ludvicが冷たい声で言う。
「あまり腑抜けていると、この街の意思の、Marionetteにしかなれないぞ?」
 Teruはごくりと唾を飲み、父親に怯まないように腹に力を入れた。
「か、買いかぶり過ぎだよ父さん。僕にはあなたの……十分の一の才能もない。あなたが街の意思から逃れられないというのなら、僕にできるはずないだろ? Marionetteね。上等だよそれで」
 Ludvicは息子に向けてしばし強い視線を送っていた。手元すら止まっている。そうなると、外を飛ぶ鳥の羽音すらしない。耳が痛くなるほどの静寂。それまでBGMのようにずっと聞こえていた作業音が止まっているという、ただそれだけの沈黙が、Teruには逃げ出したくなるほど怖かった。
 Ludvicはやがて目線を手元に戻し、またかちゃかちゃやり始めた。
「フン。じきに考えを変えなければならなくなるぞ」
 Teruは両手を降参のポーズに軽く挙げて見せた。
「はいはい。僕はHermarnたちと一緒に、ある程度の楽しみと、それなりの正義を実現しつつ、この街の操り人形になれればいいさ。そして……」
 そして、Lekaに生きる場所を与えられれば、それでいい。Teruはそう思った。それが今の彼が導き出した、人生の目的だった。Teruの青い目は決意を宿したが……。Ludvicはすっかり息子に興味をなくしたようだ。
「ほう。まあいい。またしばらくしたら、同じ話をしてみよう。きっと考えが変わっているに違いない」
 Teruはため息をつき、頬杖をついた。
「父さんの予想、今まですべて当たってきたけど、今回ばかりは違うね」
「フン」
 Ludvicは鼻で笑った。
「予想か。私は未来のことを予想できた試しなどない。他人が勝手に予想したと言っているだけだ。ただし……」
 Ludvicは工作機械を作動させた。ガーッ! という大きな音がして、何かが削られた。金属の匂いがTeruの鼻にも届いた。Ledvicは部品を持ち上げて出来上がりを確かめながら、言った。
「ただし、息子の行動くらいは予測できる。あの砲撃音……。お前はその場に居合わせ、危険な目に遭うところを、愛しい幼馴染の暗殺者に救ってもらった。襟の血はその時のもので、お前はHermarnから受け取ったこの銃でだれかを撃った」
 Teruは唖然とした。Ludvicは息子の反応を確かめるようにチラリと見た。
「そんなところかな……?」
 Teruは何から驚けばいいかわからず、一言、
「父上、Lekaのことを……」
 と言った。Ludvicはなんでもないように、
「ああ、知っているとも。Tattionとは古い付き合いでな。あのLekaにどういう訓練を施しているかももちろん聞いていた……そして」
 Ludvicは作業をほとんど終えたようだ。出来上がったものをゆっくり回して確かめている。
「Tattionと極秘の計画を話す時、いつもお前と遊ばせ、信頼関係を結ばせたのも、全てお前のためだ」
 Teruは絶句する。Ludvicはふうと息を吹きかける。金属の粒子が魔光灯の中に舞った。
「あのStilettoの娘は、お前が何かを成そうとした時、その助けになるに違いない」
 その言葉に、Teruの瞳が見開かれる。
「父さん、まさか、そのためにLekaと僕を近づけたのか……?」
 Teruは戦慄する。全ては、全ては計算のうちだというのか? 自分がLekaを助けたいから行動するだろうと予測して……。Ludvicがふっと笑みを浮かべた。
「私はお前の望みを応援する。Teru、お前にはまだ理解できないかもしれないが、この街は複雑な力関係の上に成り立っている。表の顔と、裏の顔。その両方を受け入れねばならないのだ」
 Teruは父の言葉の意味を探るように、その姿を見つめる。
「お前は今日、その裏の顔を垣間見た。そして、自らもその一部となった。人を殺めたのだろう?」
 その言葉に、Teruの体が震える。まだ、実感が湧かないのだ。自分が人の命を奪ったことに。Ludvicの声が少し優しくなる。
「フン、子供が無理をしおって……よし!」
 Ludvicは今までいじっていた何かを取り上げ、目を近づけて確かめると、テーブルの上に戻した。そして工作機械を片付け始める。
「さて、私はもう行くぞ、Teru。私のようにMarionetteにはなるな。お前なりに、人を操る方になるんだ」
 Teruは何も言いかえさない気だったが、聞き逃せない一言があった。
「あのStilettoの小娘……。本当はもっと自由に使って欲しかったのだがな。それを使う器量がないなら仕方ない」
 Teruは今日初めて、父に対して怒りの感情を抱いた。ガタンと立ち上がり、いつになく大きな声を出す。
「Lekaは誰かのMarionetteじゃない!」
 ほう、と、Ludvicが機械を道具箱にしまいながら振り返りもせずに言った。
「いいや、全ての人間は誰かのMarionetteだ。私も、あの娘も、Tattionもお前もな。問題は、誰がその糸を操るか、だ。私はこの街の意思に委ねているが……」
 Ludvicはバンと道具箱を閉め、Teruを見る。
「暗殺者の娘は誰に糸を委ねている? 知っているか? あの娘はお前に随分懐いているようだが……。お前は決してあいつを愛してやろうとはしなかった。どこか気後れして……あいつが勝手に血で錆びていくままにしている」
 Teruは冷静になれないまま言葉を返す。
「人間は……誰一人としてMarionetteであっていいはずなんかない。いいわけないだろ。Lekaだって……。誰かの暗殺用のナイフになってもダメなんだ」
 Ludvicが高笑いした。そして街の政治の世界でバチバチやってる人間的迫力を惜しみなく息子にぶつける。
「フン! コイツは傑作だ! 魔界から亜人種を狩って奴隷にすることを一つの産業としてきたこの街では、なかなか出来のいい冗談だ」
 TeruはLudvicを睨みつける。だがそのことで父親が怯むわけもない。
「ふむ。確かにあのLekaという娘はMarionetteではないかもしれん。だがもっと悪い。Stilettoそのものではないか? お前が撫で回してケアしてやらないと、すぐにボロボロになってしまうぞ? タティオンも、本質的には人を使い捨てる男だからな」
 Teruは自分の感情が処理できなくなった。無性に父に対して腹が立った。政治的に同盟を結びたいギルドの重要人物の娘を幼馴染としてくっつけようとする真似も、きっとTeru自身が気づかないでいるあれやこれやの支援も、全てが気に食わなかった。
 全てが父親に操られている印象を受けた。まさに彼は、父親のMarionette であると感じていた。Ludvicは今や、息子に敵に向けるような視線を向けている。一人の自律した貴族として、Teruを見ていた。このような対立関係でしか貴族の親子は向き合ったりしないのだ。Ludvicは道具箱を持ち上げ、ドアに向かう。そして振り向きざまにTeruを指差し、こう言った。
「Teru。お前にしては珍しく怒ったか? 姉のように慕う幼馴染を悪く言われて……だが事実を正確に述べただけだぞ? お前には何も言ってないだろうが……あの娘は娼婦よりもずっと卑しい仕事をしている。タティオンの言いなりに誰かを殺しているのだ。Marionetteですらない……ただの暗殺者のナイフ、Stilettoだよ」
 Teruは一旦冷静さを取り戻そうとして、床を見た。すーっと息を吸って、フーッと吐いた。Lekaに教わった呼吸。
(よかった)
 彼女の天真爛漫な顔を思い出しながら、心の中でそう呟いた。
(さっき、君が隠していた一面を見ることができて、本当に良かった。父の挑発に、我を忘れずに済んだから)
 Teruは瞳を閉じ、そして開ける。目の前にいるのは、温もりを求めるべき父親ではなく、超えていくべき貴族のLudvic Arasisだった。
「知っていたさ」
 Ludvicは今日一番、驚いた顔をした。
「ほう! Teru、貴様は今日二度、私の予想を上回ったぞ? 褒めてやろう」
 そんな言葉に、もはやTeruは父からの愛情を感じて媚びた笑みを見せたりしない。貴族として、黙って賞賛をちょうだいするだけだ。Ludvicも、だんだん自分の息子が一人の貴族としての誇りと自尊心を備えつつあるのを再確認したようだった。道具箱を持っていない方の手で自分の顎を何度も撫でる。彼の頭の中でTeruの再評価が始まっているようだ。
「……なあ、息子よ。この世の苦しみを一つでも知っている人間は、この世の全ての苦しみを想像するチャンスが与えられているんだよ」
 Teruはじっとその言葉を考える。しかし答えは見えない。Ludvicは話を続ける。
「Teru。もしあのLekaという存在を救いたいなら……。この街の王になれ。そして自分以外の人間を全員Marionette だと思え。この街の守護者気取りの暗殺ギルドのボスのことも、あの悲しいまでに研ぎ澄まされたStilettoのような小娘のことも。全員。全員だ。それが結局彼女を救うことになる!」
 Ludvicの指が、Teruを指す。Teruは怯んだ。Lekaを救うなら、ただの控えめな貴族ではなく、この街の、王になれ、と。父はそう言っているのだ。この偉大な発明王はさらに続ける。
「お前が全ての人間の操り糸を握るのだ! そして未来へ向けて引っ張っていくのだ! その責任を自覚しろ!」
 Teruはまた大きく息を吸って、吐き出した。そして平和主義者なりの無力な笑みを浮かべた。今日はもう流石にこれ以上父とはやり合えない。
「僕は王になんてならないよ父さん。この街を背負う責任なんてまっぴらごめんだ。父さんがやってよ。まだまだ現役でしょ。ていうか、王になりたいなんていつ言ったっけ」
 そう言って、おどけて見せた。Ludvicは、息子とがっぷりもっともっと殴り合うような会話ができると、少し楽しみにしていたのがはずれて、不機嫌になった。
「フン。これから言うのさ。お前は絶対に、これから先、この街の王になる。なりたくなる。ならなければ……大切な者を守れなくなる」
 Teruは不気味な気持ちになった。そうかもしれない。いや、おそらくそうなのかも……そんな気持ちに支配された。しかしその寒気がする感覚を振り払うように、
「ふ、ふん! 父さんの言うことはいつだって当たるけど、今回ばかりはその限りじゃないね」
 とだけ言った。Ludvicは笑って、ドアを開けた。そしてチラッとTeruを見た。
「Teru。一つだけ言っておくが、お前はLekaを救いたいと思っているが……だがあの娘は、この街の深いところに結び付けられた固い結び目だ。そう簡単には解きほぐせないぞ? 覚悟しろ」
 バタンとドアが閉まった。今度こそ静寂がやってきた。Teruはしばらく閉まったドアを見つめて立っていた。しかし、疲れがまたやってきた。
「ふう」
 息を吐くと、どっと疲れが出た。ベッドに腰掛ける。なんて急な話の展開だろう。まだ、頭が追いつかない。でも、どこかで覚悟は決まっていた。
 Lekaを救いたいと願うこと、傭兵との戦い、そして人を殺めたこと。全てが、自分を変えてしまう運命に絡め取られることだったのだ。だがそのことは……わかっていたのではないか? 
 立ち上がってテーブルを確認する。そこには、想像もしないものが置いてあった。
「こ、これは……」
 Teruは、それを手に取った。単なる、鈍く輝く新式拳銃だったそれは、先ほどまでの姿とはまるで違う。銃身の下に新たなパーツが取り付けられ、それは淡い光を放っている。魔光灯と同じ色のそれは、生命の鼓動のようにゆっくりと脈打っている。明らかに、科学的な法則に従うモノではない。魔法の、何か特別な力を感じる。科学以外の法則に従う何かに変わったのだ。
「こ、これ、僕に……?」
 あまりの衝撃に、それを持ったままふらふらと部屋の中を歩く。Teruは、どさっとベッドに横たわる。少しだけ父の匂いがした。これを作った偉大な父の香り。もはや超常の存在になったリボルバーを、天井に向けて構えてみる。発射したら何が起こるのだろう? 強大な魔力を感じる。だが……。
 あの貧民街での出来事を思い出す。獣人の子供の必死な瞳。その憎しみの色。そして先ほど引き金を引いた時の感触。倒れていく目に傷のある獣人の死に顔。二つの獣人の顔が、頭の中でぐるぐる星々のように巡る。
(あの傭兵隊長の獣人も、貧民街を生き抜いたんだろうか?)
 Teruは銃を下ろした。
(父はいったい、この銃で何を撃てというんだろうか……)
 迷いを感じる。しかし自分が先ほどLekaに言おうとした言葉が蘇る。
(僕は君に居場所を用意する)
 そう言いたかったのだ。けれど、言葉にできなかった。そして、この街で権力を握るという言葉が意味する、重い未来を思う。今日犯した殺人のことも。また、銃の引き金を引くこともあるだろう。獣人を撃たなければならないこともあるだろう。そしてきっと、父はTeruが銃で誰かを直接撃つよりも……Lekaを、命じれば誰の胸にでも突き立てられる、便利なStilettoとして、Teruが使役することを、求めているのだろう。
 Teruは、ぼうっと青白く光るリボルバーを、ベッドの下にしまった。そして、瞼を閉じた。
「そんな未来だけは、僕は拒否する」
 誰に誓うでもなく、Teruはつぶやいた。Lekaは、自分の大切な人は、Stilettoなんかじゃない。そう信じたかった。
 明日からは、また新しい日々が始まる。責任を少しずつ自覚していく道を。自分の選んだ道を、歩んでいかねばならない。だが、その道は、Lekaを救うために選んだんだ。その誓いだけは、Teruは忘れないだろう。
「Leka……」
 彼女の名を呼びながら、Teruは眠りに落ちていく。まだ見ぬ未来に、覚悟と不安を抱きながら。

エピローグ 明日の不安

 翌日の夜、賭博場に併設された闘技場は、いつも通り、熱狂に沸いていた。まるで何もなかったように……。賭博場だけを閉鎖して、傭兵ギルドの興行は行われていた。暗殺ギルドは全ての死体を隠し、コトを荒立てないことを選択したのだ。
 Parakronos の三大娯楽。冒険者ギルドのダンジョン探索への出立式の祭典、暗殺ギルドの管理する娼館、そして傭兵ギルドの管理する賭博場ち闘技場……。どれもこれも庶民にとっては大切な楽しみであり、それぞれに等級が異なる文化だった。闘技場は、娼館のように罪作りでダークな娯楽ではないが、日によっては……それ以下の悪趣味のこともある。
 今日は、非公開の日だ。傭兵ギルドと、彼らが招いた客人だけの、特別な催しの日。観客は……獣人だけ。夜の闇夜に、活気と狂気のむせ返るような熱が放たれる。街中に建つ石造りの円形劇場は、篝火と魔光灯に複雑な彩りで染め上げられた。血の祭り。獣人たちは、汗と唾と獣の叫びさながらの、狂気を発散することに熱中していた。
「Jadwan! Jadwan! Jadwan! Jadwan!」
 観衆が戦士の名を連呼する。それに応えるように、毛むくじゃらの丸太のような腕が、闘技場の露天の闇夜に突き上げられる。それは魔光灯を贅沢に使った照明演出に浮かび上がり、勝利のシンボルとなった。わーっと歓声が上がった。獣人の名前を呼ぶ声は大きなうねりとなって会場を支配した。
 大柄な者が多く2メートルに達する者さえいる肉食系獣人の中でも、彼の体格は規格外だった。2メートル50センチ、300キロ。肉食獣にルーツを持つ獣人というよりも、もはや肉食獣そのもの。
「闘士Jadwanの勝利ぃぃいいい!!」
 魔力石を使った拡声器の声。司会進行の声に、人々が沸いた。Jadwan。闘技場の戦士。歴戦の英雄にして、戦場では狂戦士。闘技場の闘士は、色々な理由で一年保たずに消えていくが……。彼は特別な存在だ。巨体の足元には、それまで彼と死闘を演じていた人間の死体がある。人間……冒険者だった。仰向けに倒れ、こときれた彼の胸には、金色のハンマーの衣装がされたバッジが……。ギルドに所属する、その中でもある程度の権力を持つ存在を、みだりに殺害していいはずがない。しかし、この違法行為を咎めるものは、この空間には一人もいなかった。何故なら、彼は反乱を持ちかけた共犯者なのだから。
 Jadwanは針金のような毛とカランビットナイフのような爪が生えた足で、負かした対戦相手の胸骨をグッと体重をかけて踏む。パキパキポキポキと、籠状の肋骨がチキンの小骨のように簡単に折れていった。
「金槌級冒険者、ここまで使えない存在だったとは……」
 そう吐き捨てるように言うと、死体を掴み、片手で放り投げる。回転する死体は遠心力で血を吹き出し、観客席を赤く彩った。獣人たちは嫌がるでも避けるでもなく、降り注ぐ血の飛沫にむしろ興奮した。
「待てよ! 獣人! 血で無聊を癒して待て!」
 Jadwanが叫んだ。再び彼の名を呼ぶ声がこだまする。
「Jadwan! Jadwan! Jadwan! Jadwan!」
 獣人傭兵の英雄、部隊長Jadwanは、赤く輝く瞳をいっそう輝かせ、つぶやいた。
「決起の時を、解放の時を待てよ、我が同胞よ」
 Jadwanは、血に染まった拳を高々と掲げた。これは、獣人たちの反乱の狼煙だ。彼らの怒りと憎しみが、いよいよ臨界点に達し、Parakronosの秩序を揺るがすだろう。
 TeruもLekaも……まだ、待ち受ける運命の過酷さを知らない。

第二巻に続く

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