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事業承継物語④

GWも終わり新緑の季節になりましたね。

暑くもなく寒くもなく本当にこの季節は過ごしやすくて大好きです。

緊急事態宣言さえなければなんですけどね💦


事業承継物語もいよいよ④まできました。

今日は30歳から40歳ぐらいまでのお話になります。


実は30歳の一つ手前の29歳の時にふとしたきっかけでボクシングジムに通い始めました。

今でも続いています。

子供の頃から水泳教室に通っていてこの時もまだ週一回は泳いでいたのですが、格闘技系も始めてみよう!と、とにかく体を動かすのが好きなので勢いで始めてしまいました。

当時は車で通っていたのですが、だんだん面倒くさくなり吞み仲間もそのボクシングジムの周辺にたくさん住んでいたこともあって思い切って30歳の時に今の住まいに引っ越してきました。


表向きはそんな感じだったのですが、実は自分の仕事をもっとしっかりと意識をもって取り組みたいのと、少し家賃の高いところに住みそれを払い続けるには仕事頑張らなくては!という想いも含まれていました。

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そのころの私は仕事も覚え、段取りも上手くなりとにかく現場をひとまとめにしてガンガン生産を進めていました。

自分がいづれ経営者になる映像はまったく浮かんでいない状態です。

多分そのころは経営者なんて誰がやっても一緒でしょ!大丈夫大丈夫、いまより大変なことはない!と自負していた節もあります。


ただ、その頃から度々会社の経営状況が不安定になり始めていたのを記憶しています。

父は職人なのであまり経理などは見ていませんでしたが、現場の手すき具合から仕事が少ないなーと感じていたと思いますし、当時経営陣の二人は減給もしていたはずです。


私はというとそんなのお構いなし。おれ別に経営者じゃないし、仕事増やすのは社長と専務の仕事でしょ~、現場はおれが頑張るから仕事たくさん持って来てよ~と、お気楽なもんでした。


それでも会社が急に倒産するような状況でもなく、ちょっと暇かな?と思った2か月後にはひたすら忙しい日々が続いたりと結構浮き沈みが激しかった時期でもあります。

私自身も少しマンネリしてたし、なんというか夢とか希望とかがなかった34歳でした。とにかく目の前にある作業さえきっちり終わらせていればお金に困ることはない!と考えていたのです。

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その34歳の時に今の私を形成する出来事がおきます。


水泳教室を辞めたのです。

実は5歳ぐらいから30年近く泳ぎ続けていた私。

小学生の頃は真剣にオリンピックを目指して泳いでいました。

結構速くて、普通の同年代ぐらいには全然負けませんでした。

そんな感じで30年近く泳いでいたある日、その水泳教室が建て替え工事を行うことをきっかけに辞めることを決意しました。

そして、退会届を提出した日。

駐車場に停めてある車の中で30年を振り返る私。

友達たくさんいたなー

彼女もできたなー

子供の頃は本当に楽しかったなー

練習きつい時期もあったなー

オリンピック本気で目指してたなー

。。。。。。

あれ?おれオリンピックいつ諦めたんだっけ?


漠然とです。漠然と自分がオリンピックをいつ諦めたのか思い出せないのです。

小学5年生の時のコーチから言われた言葉があります。

『諦めなければ絶対にオリンピックに出れる!』

これが34歳の退会するときにふと頭に浮かんだのです。


実際には、高校生の時に伸び悩みました。

その後、大学は夜間大学だったので実質ここで引退です。

でも、その時はオリンピックだけは諦めなかったのです。諦めたくなかったというのが本音です。

そのまま、ダラダラと34歳まで泳いでいたのです。


そして車の中でこんなことを思いました。

『そうだ!おれまだオリンピック諦めてない!また目指せばいいじゃないか!泳ぐことでは出場はできなかったけど、今のおれなら物づくりでオリンピックに貢献できるかもしれない!』

と真剣に思ったのです。オリンピック選手が使う道具やパラスポーツに使う道具を作る人になり、今オリンピックを目指している人の手助けがしたい!という新しいオリンピックに関する夢が生まれたのです。

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ものすごい高揚感を覚えています。熱くなりました。帰りの車の中で発狂するぐらい楽しい夢でした。

もし、あの時に私がすでに経営者であったならすぐにでも行動に移していたと思いますが、如何せんまだ半人前の現場監督w


熱い思いはあってもそれをどうしたらいいのか分かりません。

そして日は経ち、時は経ち39歳になってしまいました。

37歳の時に東日本大震災があったこともあり、34歳のあの熱い思いも薄れていました。


そして、

運命の2013年。当時39歳。

忘れもしない3月31日。


その日、初代社長で当時会長になっていた叔父がなかなか出社してきませんでした。

15分ぐらい遅れて会社に入ってきた姿は足を引きづり、腰を押さえながら、

『腰痛が酷くて、、、痛くてたまらん!』

そう言いながら会社に入ってきました。

私は大丈夫ですか?と聞きましたがとにかく状態が尋常ではなかったので事務所が3階にあることもあり、今日は帰ってください!休んでください!と本人は仕事があるから・・と言っていましたが無理やり帰らしてすぐに病院に行かせました。

後日、判明するのですが叔父は余命1年の全身癌を宣告されてしまいました。


実は翌日の4月1日に長年の取引先が会社移転をするということで二人で挨拶に伺う予定でした。

しかし、3月31日を最後に会長である叔父は出社することなくちょうど1年後に亡くなりました。


この2013年3月31日を皮切りに精工パッキングは坂道を転げ落ちるかのようにガタガタ音を立てて経営が逼迫していきます。

続きはまた次回になりますが、いよいよ私が経営者になるお話です。

熱い思いを忘れてひたすらもがき続けていた頃を思い出しながらまた更新したいと思います。


https://www.seikopacking.tokyo/



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