G.フレスコバルディの流れはL.van ベートーヴェンへ

本原稿は2007年の2月24日に記した音楽考コラムである。

ある日、町中のとあるビルの中を歩いていると...とても懐かしい曲が流れて来た。 L.van ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven ca.1770-1827)の「ピアノ協奏曲 第5番 変ホ長調 op.73」(1809)...『皇帝』である。子供の頃とても大好きな曲で、練習に励んでいた記憶がある。この曲をオーケストラと弾くことはなかったが、冒頭部分がとても好きだった。ベートーヴェン氏には申し訳ないが、J.S.バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の音楽に傾倒し、チェンバリストとなって、随分長い間「皇帝」のことを頭の片隅に追いやっていたが...先日、久々に耳にして刺激のようなものが走った。

「あれ? この手法はG.フレスコバルディ(Giralamo Frescobaldi 1583-1643)ではないか」

勿論、これはぶっ飛んだ考え方である。

 「皇帝」の冒頭は、オーケストラとソリスト (総じてトゥッティ Tutti) が、この曲の調性Es-dur(変ホ長調)の主和音を鳴らして始まる。そして、ソリストのピアニストが、この主和音を分散させるアルペジオを演奏、2度の連続が続き、主和音の構成音を軸にしたパッセージで下降、再び音階で上行し、2度ずつ音階下降して、ドッペルドミナントの和音を再びトゥッティが演奏。その後、またソリストが速いパッセージを見せていく作り。言葉にすると何のことやら? だが、皆様もよく御存知の作品だと思う。この冒頭、ずっとカデンツァ(Cadenza)だと思っていた。そもそも「カデンツァ」で始まるなんて、謎な曲だなぁと思っていた。カデンツァ Cadenza(独)もCadenz(伊)同様に、元々終止形に起因するものだから、曲の冒頭に置くなんておかしい。しかし、スタイルとは、どんどん変貌していくものであり... それは発展と言う方が正しいかもしれない... ベートーヴェンの時代になれば、何でもありなのかもしれないと解釈していた。原典を見ていないのだけれども、私の手元にある楽譜(古いものだが、Breitkopf &Härtel版)を確認してみると、ソリストが奏でている間のオケ譜のところには「 (cadenza)」と丁寧に書いてある。私の「カデンツァだと思うけど、こんな頭にCadenzaを置くなんて変!」という疑問自体が誤りだったのか。
  さて、現在のチェンバリストとしての私の耳には、決して、ここがカンデンツァには聞こえなかったのだ。「この主法はG.フレスコバルディではないか」と思ったように、真っ先にフレスコバルディのトッカータ冒頭との共通項が、頭に浮かんだのだ。フレスコバルディは作曲スタイルの代表者としての代名詞のようなものとして浮かんだのだが、17世紀イタリアのフレスコバルディ氏(Giralamo Frescobaldi 1583-1643)によって1つのスタイルとして大成されたと言われる「トッカータ様式」は、楽譜づらは、その作品の調の主和音によって始まる。文字にパターン化して表すのは、やや難しいが、主和音を奏でた後は、和音が幾つか置かれていたり、あるいは音階による走句や、書き出されたトリルと見なすことの出来る2度音程の連続が書かれていたりする。実際には、オルガンでは最初に主和音を聴かせ、チェンバロでは書かれた白玉の主和音は分散アルペジオを聴かせる。その次は、楽譜に書かれている走句としての音符を趣味良く即興的によって奏でていく。このスタイルは、フレスコバルディに学んだ(あるいは影響を受けた)とされるJ.J.フローベルガー (Johann Jakob Froberger 1616-1667)やM.ヴェックマン(Matthian Weckmann ca.1616-1674)によってドイツに入る。これは「バロック期のトッカータ様式」だと言って良いように、奏者として私は感じている。
 「皇帝」と17世紀のトッカータ作品を御存知の方ならば、ここまで言うと、すぐにお分かりになられるかと思うが、「皇帝」の冒頭は、トッカータ様式の冒頭に酷似する(/通ずるものがある)。
 最初に主和音を鳴らす... これはバロックのトッカータ様式と同じ。ちなみに、17世紀のトッカータ様式において、最初に主和音を鳴らすのは、「今から、この調の音楽が始まりますよ」という提示の意味合いがあるらしい。作品毎の解釈にもよるが、この意味を知ってからは、最初にケバケバしく和音をチェンバロでかき鳴らすのは、あまり相応しくないのかもしれないと思うようになった(豪華に弾きたくなる作品もあるのだが...)。「皇帝」でも、時代回帰? で、最初に変ホ長調が始まりますよ!!とベートーヴェンは言いたくなったのだろうか... (☆調性音楽においては、たいてい主和音の構成音から曲は始まりますが...)

 「皇帝」・・・主和音提示の後、主和音分散アルペジオを演奏・・・トッカータ様式においても、長い音符で和音だけ書かれていても実際の演奏現場では、分散アルペジオを駆使する。

 (皇帝) 次に2度の連続・・・書き出されたトリルが、バロックのドイツ作品には、よく見られるのだが、チェンバリストとして「皇帝」の楽譜を見ると、この部分はトリルに見えた。(故に、書き出されたトリルと見なそう)

 (皇帝) 主和音の構成音を主和音の構成音を軸にしたパッセージで下降・・・ バロック・トッカータ様式においても使われる。

 (皇帝) 再び音階で上行し、2度ずつ音階下降・・・ 上に同じ。
むろん、一つのInventio(動機)の根底が主和音であった場合に、作曲法における動機展開の基本中の基本の手法ではあるが、「皇帝」においても、「Iの和音(主和音)をいつまで引っ張るねん!」と関西人はツッコミしたくなるくらい、楽譜見開き半ページ分、ずっと音楽の動機根底がIの和音。

 ここまで「ふむふむ」と読んで下さった方には、「いつまで引っ張るねん!」に注目して頂きたいのだが、バロック期のトッカータ様式及びプレリュードにおいても、その多くの作品が、Iの和音をいつまでも引っ張って展開しながらオープニングとするのだ。そして、やっと和音を変える時、その和音を「しっかりと」聴かせる。
 この変わった和音を「しっかりと」聴かせることは、「皇帝」において、TuttiでIの和音から変わったドッペルドミナントを「しっかりと」聴衆に聴かせている点に同じ。この「皇帝」の冒頭、古いスタイルからの流れを受け継いでいるのではないか...と思えるのだ。
 「皇帝」の冒頭は、決して「曲の頭に何故か持ってこられたカデンツ」ではなく、バロック・トッカータ様式を受け継いだ、「トッカータ」で始まる第1楽章と見なすことは出来ないだろうか。

 ベートーヴェンに対する資料根拠は何もない音楽考だが、彼のお祖父さんは、現在のベルギーにあるブリュッセル・メッヘレン・ルーヴェンを結ぶ地域の出身の音楽家のようだ。この地域はフランドル地域であり、バロック初期、簡単に言えば音楽が隆盛した地域でもある。何らかの形で、フレスコバルディらに始まる初期様式もベートーヴェン家のDNAに記憶されていたことを否定は出来ないかもしれない。ちなみにベートーヴェン自身も「幼少期にクラヴィコードを習った」という史実が伝えられている。彼が生まれた1770年には、バロック最期の作曲家と一般に位置づけされているJ.S.バッハは他界して20年経過しているが、フランドルのチェンバロ製作家 D.デュルケンの最後の作品と伝えられているのは1755年の作品であり、それから2−30年は、ピアノが発明されていたとは言え、チェンバロとピアノの新旧混合の時代と言えよう。常識的に推測すると、ドイツには、まだチェンバロの方が台数としては多かったのではないかと思われる。「皇帝」冒頭に対することで、私はベートーヴェンも、クラヴィコードやオルガン、チェンバロで、G.フレスコバルディやフローベルガーらの17世紀の作曲家たちのトッカータ作品を弾いていたのかもしれないなぁ...という希望的観測を持っている。
 長々と書いて来たが、勝手な論考の結論は、「ベートーヴェンの『皇帝』の冒頭は、カデンツァではなくトッカータ様式である」更に、バロック作品の中でも、一般に受け入れがたいものとされる「17世紀の作品様式は、脈々とベートーヴェンにまで、受け継がれている」ということである。
 「G.フレスコバルディの流れ」はJ.S.バッハでは終わっていない。少なくともL.vanベートーヴェンに受け継がれている筈。

(「G.フレスコバルディの流れは、L.vanベートーヴェンへ」 チェンバリスト 中田 聖子 2007年2月24日)

関西を拠点に演奏活動を行なっているチェンバリストhttps://www.klavi.com