英雄問答 「司馬遼太郎」で男の修行 まえがき

「こんな奇妙な読み方する人おるんやなァ」
 司馬遼太郎先生は、こう苦笑いされることだろう。
 私は司馬遼太郎作品を「自己啓発書」として読んできた。おのれの至らなさ不甲斐なさを少しでもよきものにするために必死で食らいついてきたのである。
 英雄は寡黙。議論などしない。
 英雄は温和で、言葉遣いが丁寧。
 英雄はなりふりかまわない。必要なら媚びへつらう。
 英雄は臆病。だから周到緻密に準備する。
 英雄はかっこつけない。阿呆を装う。
 司馬が描く英雄たちは、世間一般の英雄像とはだいぶ異なる。異なるというより、むしろ真逆だろう。
 武田信玄や上杉謙信に猫なで声を出す織田信長。
 家に居場所がなく、すぐ寝てしまう西郷隆盛。
 維新前夜、風雲急を告げるなか、お琴の先生を探させられる坂本竜馬。
 英雄といえども、目の前の現実にあがく一個の男にすぎない。ただし、彼らが凡夫と一線を画すのは「自己教育」――自分を躾け、戒め、教育することの威力を知っていて、それを実践したという一点に尽きる。
 英雄は生まれながらにして、「英雄」であったわけではない。自分を鍛錬することで、臆病者は勇者となり、小心者は大気者となったのだ。気魄の自己改革者――これが英雄の実像であるといえる。
 議論するな。断定するな。激語をつかうな。論評するな。詮索するな。差別するな。隙をみせよ。気楽にさせよ。不快感を与えるな。ゆっくり話せ。はしゃぐな。損得勘定するな。分際をわきまえよ――こうした戒めは、元来、議論好きで怒りっぽく、自己肥大して虚勢を張り、詮索好きで口が軽いという英雄的資質が欠落した私にとって受け入れがたいものであった。
 だが、直面する問題はこうした徳目の実践によって解決し、日々自戒することで、あきらかに人生の質が改善することを、私は身をもって体験した。この感動体験を悩めるオヤジたちと共有したい――私はそう奮い立った。
 そこで二年前、司馬遼太郎の全作品(『司馬遼太郎全仕事』に準拠した約三〇〇冊)を読み返し、独自に叡智を抽出し始めた。その数は三千三百項目にも及んだ。つぎにそれらを八つの切り口で整理し、「塾長」と「少壮」という二人の対話形式でまとめ上げたのが本書である。
 登場する「塾長」は現在の私である。いまだ多弁癖が抜けず、折々「誇りたがり」なところが顔を出す五十歳手前の中年男だ。
 一方の「少壮」は過去の私で、三十三歳のときを想定している。
 当時の私はラジオでインタビュアーをつとめていた。そこで本書では、塾長をゲストに迎えてインタビューするという設定にしてみた。
 当時の私は、気概も行動力も責任感もある男だった。会社を経営し、結婚して所帯を持ち、「いよいよこれから」という元気の盛りであったが不徳の致すところ、その後、離婚や事業失敗など、数々の失敗に見舞われることになった。
 私の失敗の原因は、今にして思えば明らかである。それは「ダンディズム」の欠落である。
 あの頃、司馬作品を「自己啓発書」として読めていたら、失敗のいくつかは防げたのではないか。無謀な〃戦争〃に突入する前の「少壮」に、本書の叡智を授けておきたかった。

 さて、本書の内容は、すべて司馬遼太郎作品に立脚している。したがって史実かどうかは問題にしていない。
 たとえば、正確には坂本「龍馬」であるが、司馬に倣って「竜馬」とし、じっさいは親子二代で国を盗ったとされる斎藤道三にしても、一代で国を盗ったものとして語っている。人物の紹介などについても、自己啓発書ということで最小限にとどめ流れを重視した。詳細は、ぜひ司馬遼太郎作品を紐解いてもらいたい。
 修行するオヤジが英雄になる――ともに学びともに鍛錬して、「おやじ受難の時代」を元気溌剌に生き抜いていこう。

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