藤野論54:災害ユートピアと災害ディストピア

武蔵小杉と藤野は似ている。前からそう思っていた。
オサレなまちのタワマンライフとロハスなまちのほっこりライフ。
一見違うが、ともに意識高い系ファミリーによる戦略的居住という点で酷似している。
両者は今回の台風災害で明暗を分けた。
台風によって藤野は陸の孤島と化した。中央道、甲州街道、JR中央線が寸断。台風通過後、何日にもわたって、都内に出るのに何時間もかかるという有様である。
私は少年期から、何度もこんな経験をしているので、高尾駅前に拠点を設けるなどの対策を講じてきたが、新住民たちにとっては、田舎暮らしの厳しい洗礼を受けるかたちとなった。
ただ藤野民は、おたがい協力しあって難局を乗り越えようとした。
メーリングリスト「よろずや」では、交通情報や送迎支援、物資の提供から被災地復旧ボランティア情報まで、活発にやりとりがなされている。おたがい支えあおうという姿は麗しい。これは藤野のよさといえよう。
一方の武蔵小杉。こちらは、抜け駆けウンコの犯人探しが始まるなど、住民同士の疑心暗鬼が渦巻いているという。
ネットでは「ムサコざまあ」という声があふれ、これまでお高くとまっていたムサコ民は一転、揶揄の対象に陥ってしまった。
これでは居住地として復旧したとしても、ブランドはもちろん、コミュニティとしての復興も果たせそうもない。武蔵小杉こそ災害ディストピアの典型といえよう。
その点、藤野は災害ユートピアといえる。災害を通じて、人びとのつながりが生まれ、絆が強まった。藤野冥利に尽きるというものだ。
だが、手放しでは喜べないのではないか。私は警鐘を鳴らしたい。
今回のユートピア実現が「成功体験」になると、災害依存体質になってしまうからだ。
江戸に火事が多かったのも、町火消したちが、もてはやされすぎたからではないか。
表立って災害を期待する者はほとんどいない。だが「活躍の場」への期待感は潜在意識として「地域の気分」に刷り込まれる。
いまだ渦中の藤野民に物申すのは酷かもしれない。だが、ひとつ戒めておくべきことがある。それは、今から重心を下げておけということだ。酩酊してはならない。
淡々と災害対応にあたり、終えたら火照りを冷まし、一刻も早く日常に回帰すべきだ。
でなければ、これ機に災害待望気分が沈潜することになろう。そして、その想念は現実の災害を惹起しかねない。
武蔵小杉的「災害ディストピア」をまぬがれた藤野であるが「災害ユートピア」を誇示している場合ではないのである。

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