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【熟年離婚】〈男の言い分62〉

ラップで離婚。「そもそもサ♪ あんたはサ♬」「てめぇこそ♬」なんて、粋なラップじゃなくて、あの「ラップ」ですよ。


 M氏、65歳。4歳下の妻と昨年末離婚。

 私はね、自分のこれまでをふり返ってみると、何一つ“もの”にならない人生だった、と思います。

 今さらだけど―グチ言っちゃうと、それは中学時代からですね。小学校では成績もずっと上位で、親は鼻高々でしたが、中学校では“普通”。少年野球では活躍していたので、勇んで野球部に入ったものの、自分より優れたやつがゴロゴロいて、試合はいつも補欠。―自慢の息子の低迷ぶりに―言葉には出さないけど―親ががっかりしているのがわかって、子供なりにつらかったですよ。

 高校受験になって、親はまだ息子に望みをかけて、名門公立高校を受験させられたんですが、結局、すべり止めの私立高校に―。入ってみると、私のような“落後組”がけっこういて、グレていろいろやっていたけど、いいヤツばかりだった。私はというと、グレる気力も度胸も無かったんですね。素行・成績・中の中、性格・温厚、という生徒で卒業。

 大学受験になると、親はさすがに期待を抱かず、私の自由にさせてくれたので、東京の私大に入学しました。ただし親の条件は、私が一人っ子なので、卒業したら帰って来て、地元に就職すること、でした。親は会社勤めで、家業を継ぐ、なんて必要はなかったんですがね―大学卒業と同時に郷里に戻って、町の役場に就職しました。

 こうして自分の若い頃をふり返っても、俺ってダメな奴だな、と思いますよ。自分が何をしたいのか、どう生きたいのかわからない。ただ、流されるだけの、人生のスタートだったなぁ、と思います。―こんなグチ、のっけから聞かされる方も嫌でしょう。すみませんね。

 そんな私にも“春”が来たんですよ。同じ職場の彼女と知りあって―陽気でテキパキ仕事して、面倒見が良くて―私の両親もすっかりほれ込んで、結婚しました。私26歳、彼女22歳―実家の近くのアパートに住んで、共働きです。結婚を機に、彼女は支所に転勤しましたが、そのまま定年まで頑張っていました。―話が前後しますが、妻が稼いでいるからこそ「熟年離婚」ってのができるんですよ。私の知り合いで、熟年離婚した女性がいますが、はじめは「せいせいした、これからは私の人生!」と言っていたのが、1年も経たないうちに“お金が無い、生活が苦しい。離婚なんてしないで、死ぬまで我慢すればよかった”と言い出した。人生百年の時代だからこそ、離婚後の金は大丈夫か、しっかり考えないとねぇ―その点、私らの場合は、妻に十分な経済力があったからこそ、できたんだと思いますよ。

 あれ? 熟年離婚コンサルみたいになっちゃいましたね。

仕事転々

 結婚2年目に長女、4年目に次女が生まれ、三十代半ばを過ぎた私は、このまま公務員で終わっていいものか、迷い始めました。毎日忙しいが、頑張っても何だか達成感が無い。同期に入った者が役職に就いても、自分はヒラのまま。娘達にはこれから金もかかる。迷っている時に、高校時代の友人から熱心な誘いが来たんです。当時、日の出の勢いだった自動車会社のセールスの仕事です。車社会が田舎町にも広がって、車のセールスマンはなかなかの“花形”でした。「頑張れば頑張っただけ稼げるぞ」という友人の言葉に勇気づけられて―転職したんです。妻は「収入が安定した公務員のままがいい」と大反対しましたが、「でも、このままじゃ、あなたはずっとヒラだろうね」と言われて、意地にもなりました。

 しかし、世界は甘くない。初めの2年ぐらいはまぁまぁ、の成績でしたが、社内にも、他社にも、強いライバルがいる。友人知人親類縁者を頼ってセールスしていた自分の限界が見えて来たんです。

 妻の「ほら、やっぱりだめでしょ」というケイベツの顔を尻目に、その仕事をやめて、今度は大手の電化製品の会社に入りました。

 家庭のオール電化の始まりの時代で、今度は私のセールスも順調でした。車のセールスで鍛えましたからね。妻もようやく安堵したようでしたが―ところが、です。郊外にどんどん家が建って、人が移り住んで、街の中心がさびれて行く。そこに、東京、関西資本の超安値の大型電化製品店が郊外に次々進出して来たから、中心街の地元生え抜きの店はひとたまりもなく閉店。私は失業です。

 娘達は短大を出て、それぞれ県外に就職。マッチ箱のような家でも、住宅ローンを払い終えたのも、妻の収入のおかげが大きい。娘達が独立して出て行った後の空き部屋に、いつのまにか妻が引っ越していて、ふと気が付いた時には“家庭内別居”状態になっていた。自分のトロさを笑いましたよ。

ラップ!!

 当時、私は60歳。役所なら定年退職という頃ですが、このまま人生を“しくじり”だけで終わりたくない。―そこに“いい話”が来たんです。近所に、5、6年近く閉店したままの喫茶店があって、そこの家主が私に、店をやってみないか―と。人に接することは得意だし、好きだし―よし、やってみようと。

 妻のあきれ顔を尻目に、「カフェ」開店。器や調理用具はそのまま使えるし、丁寧に掃除したらなかなかいい雰囲気の店になりました。カウンターとテーブル二つの小さな「カフェ」ですが、昔の職場の同僚などがボチボチ来てくれて、なんとか滑り出しました。―しかし、コーヒーがそこそこ売れても、商売は立ち行かない。見かねた妻が、土日には手伝いに来るようになりました。―これが当たった。妻は趣味のケーキとパン作りを商売に生かすわ、紅茶やハーブティー、土日限定のランチもメニューに加えるわで―女性や家族連れの客が来始めて、開店半年で、なんとか立ち行くようになりました。私は、妻のいない日の店番係に降格。それでも楽しかったですよ。

 ところが―ある時、妻のケーキ作りの手伝いでラップを取り出そうとしたんですが、なかなかはがれない。あれこれいじくっているうちに、ますますグチャグチャになってしまった。レンジの前でイライラ待っていた妻は、いきなりそのラップを私の手から奪い取ると、鬼のような顔で怒鳴ったんです。「だからあんたはだめなのよ。何をやってもモノにならないんだから!」とね。


 それ、“図星”ですよ。自分の人生のこれまでを“見事”に言ってくれた。もう、とてもくたびれて離婚しました。“ラップ”が引き金です。

 私は今、八十代の半ばを過ぎた両親と暮らしています。母が気丈に炊事をしていますが、私が手伝っていて、ラップをうまく引き出せないでいると、「あんた、それぐらいはうまくやんなさいよ」と痛いことを言います。

 元・妻は退職したら本気で「カフェ」をやる、と楽しみにしているようです。私は、両親の面倒を見ながら、近くのデイサービス施設のボランティアを始めました。いろんな人生を送って来た大先輩達の笑顔が、「一生懸命、頑張って来ただけで十分でねぇか」と言ってくれているようで元気が出ます。

 ま、ラップの取り出し方だけは巧くなりたいですね。

(橋本 比呂)

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