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南朝の国府奪還|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載120

 南北朝時代の西暦1347年(南朝・正平2/北朝・貞和3)秋、奥州北朝を指揮する奥州管領の吉良貞家と畠山国氏は、陸奥国から南朝勢を一掃。ところが4年後の1351年(南朝・正平6/北朝・観応2)2月、2人の奥州管領が敵対し、吉良が畠山氏を討つという内紛が発生した。この隙に南朝が息を吹き返し、出羽三山(山形県)に逃れていた南朝大将・北畠顕信が同年5月に挙兵する。とはいえ手持ちの兵が少なかった顕信は、すぐに軍事行動を起こせなかった。そのため彼は別の手を打つ。自分に代わって奥州南朝を束ねる人物を、陸奥国へ送り込むことにしたのだ。その人物は守永王といって、後醍醐天皇の孫にあたる皇子である――。

 顕信は、南朝の御所があった吉野(奈良県)に書状を送り守永王の派遣を要請。吉野の後村上天皇はこれを認め、守永王を奥州に向かわせる。そして皇子は守山(郡山市)の田村氏に迎えられ、宇津峰(郡山市/須賀川市)を拠点とした。4年前の戦に敗れ一度は北朝に降った田村氏だったが、秘かに再起の機会をうかがっており、守永王の下向は北朝に反攻する絶好の口実となった。やがて守永王の宇津峰入城は梁川城(伊達市)にも伝わり、伊達氏も南朝方として挙兵。1351年9月までに当時の福島県内で南朝が勢いを盛り返した。

 この間に顕信も懸命に兵を集め、なんとか北朝の吉良に対抗できるまで勢力を回復。こちらも9月までに出陣の準備を整えた。そこで顕信は守永王へ「田村と伊達の軍勢を率いて北上、吉良がいる陸奥国府(多賀城)を目指してください。私は北から国府を攻めます」と連絡。8年前の1343年に失敗した挟撃作戦を再度実行することにしたのである。

 一方「南朝が動く」との報せを受けた吉良貞家も即座に対応しようとする。しかし畠山との内紛をみて北朝に嫌気が差したのか、味方する武士が少ない。やむなく吉良は、南から進撃してくる守永王を阻む役目を相馬氏のみに命じた。相馬の軍勢は白石(宮城県)に布陣。10月に白石で両軍が激突し、兵力に勝る守永王が相馬勢を打ち破った。

 これを知った吉良はみずから広瀬川(宮城県)に防衛線を張った。だが、このとき出羽三山から陸奥国へ侵攻した顕信が、まさに吉良の背後に肉迫しようとしていた。みごと挟撃作戦が成功したのである――。結果、南朝勢は広瀬川の戦に勝利、吉良を相馬領へ敗走させる。そして守永王と顕信は馬を並べ、堂々と陸奥国府へ入城を果たしたのであった。


南朝の国府奪還|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載120

 先代の奥州南朝の大将・北畠顕家が、形勢不利なため多賀城から霊山(伊達市)へ移ったのが1337年のこと。つまり南朝は14年ぶりに国府を奪還したのである。おそらく顕信は多賀城の空を眺め「ついにやりました」と、亡き兄に報告にしたであろう。(了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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