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霊山と宇津峰の陥落|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載118

 南北朝時代の興国4年(1343/興国は南朝の元号)6月、奥州南朝の重鎮であった白河の結城親朝が北朝へ寝返った。これで奥州および北関東における軍事バランスが一変。まず常陸国(茨城県)の南朝勢が壊滅してしまう。さらに奥州の南朝勢も梁川城(伊達市)の伊達氏、霊山(伊達市)の広橋経泰、守山(郡山市)の田村氏のみとなり、勢力が著しく縮小。そして奥州南朝の大将・北畠顕信は興国3年(1342)に出羽三山(山形県)に逃亡したまま。というわけで1343年の夏には、北朝の奥州制覇が目前に迫っていたわけである。

 ところが、ここで北朝が内紛を起こす。以前から北朝の総帥・足利尊氏と不仲だった奥州北朝の司令官・石塔義房が興国6年(1345)冬にとうとう奥州大将を解任されてしまったのだ。石塔を鎌倉に送還させると同時に尊氏は、新たに奥州管領という役職を設置。畠山国氏と吉良貞家を任命した。管領を2人にしたのは足利家の派閥争いが原因。当時、尊氏の弟・足利直義と足利家執事の高師直が対立しており、尊氏は両者に考慮しなければならなかったのである。ちなみに畠山国氏は師直派、吉良貞家は直義派。もちろん2人の関係は良好なものではなかった。

 それでも畠山と吉良は、南朝元号の正平元年(1346)1月に揃って陸奥国府の多賀城に着任。さっそく奥州南朝と決着をつけるべく動き出す。といっても軍事行動を起こしたのではない。いまだ南朝か北朝か態度を明らかにしていなかった武士たちへ書状を送り「北朝につけ」と説得を繰り返したのである。畠山、吉良の執拗な誘いにより、少なからずの武士が北朝支持を表明。頑なに南朝に従う伊達と霊山の広橋、守山の田村を孤立させることに成功した。


 ここに至るまで1年余。正平2年(1347)6月末になってようやく畠山と吉良が動く。霊山と守山田村氏の拠点であった宇津峰(郡山/須賀川)を攻略せんと陸奥国府を出陣したのだ。

 対する南朝勢も守りを固め、南下してくる敵に対し伊達氏は藤田城(国見町)を中心に防衛線を敷き、守山田村氏も岩色城(本宮市)を中心に複数の砦を築き、会津方面から攻めてくる敵に備えた。

 北朝勢は浜通り方面に迂回したうえで一気に霊山と宇津峰を同時攻撃することもできたが、畠山と吉良が「まずは敵の出城をしらみ潰しにしてから」ということで意見が一致。7月は藤田城と岩色城で激しい攻防が続いた。そして8月になり、とうとう北朝勢が南朝勢の防衛線を突破。そのまま二手に分かれて霊山と宇津峰に襲いかかった。霊山の守将・広橋経泰と宇津峰を守る守山田村氏はすでに力を使い果たしており、北朝勢の猛攻に屈した。つまりこのとき奥州南朝は壊滅したのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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