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吉良貞家の逆襲|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載121

 南北朝時代の西暦1351年(南朝・正平6/北朝・観応2)春、南朝の皇子である守永王が奥州に入った。新たなリーダーを推戴した奥州南朝は勢力を回復。同じころ出羽三山(山形県)にいた奥州南朝の大将・北畠顕信も再起し挙兵する。

 1351年10月、守永王は宇津峰(郡山/須賀川)から陸奥国府(多賀城)をめざして北上、これに顕信も呼応して南下を開始する――。対する北朝の奥州管領・吉良貞家は国府を出陣し広瀬川(宮城県)で迎撃態勢を整えた。だが、南朝の挟撃作戦のまえに敗北し、浜通りの相馬領へ逃れた。こうして1351年12月、南朝は14年ぶりに国府への入城を果たしたのであった。

 だが、南朝の覇権は長くは続かなかった。国府奪還から半年も経たないうちに吉良貞家の逆襲が始まったのである。

 1351年秋、いったん相馬領に逃れた吉良は、その後いわきから須賀川西部の稲村城へと転々としながらも、宮城県と岩手県の北朝勢へさかんに書状を送り「国府を攻めろ」と檄を飛ばしていた。年が明け1352年(南朝・正平7/北朝・観応3)1月になると徐々に吉良の催促に応じる武士が現われ、国府の南朝を脅かすようになる。とはいえ北朝の反攻は散発的なもので、顕信と守永王に撃退されていた。ところが同年2月、ひそかに吉良が宮城県へ舞い戻ったことで形勢が逆転する。奥州管領・吉良貞家のもとで北朝勢が再び団結した結果、大規模な攻勢をかけられるようになったのである。

 ちなみに旧暦1352年は閏年で、2月の次に閏2月があった。

 この閏2月、柴田郡(宮城県)で北朝の亘理氏や武石氏などが挙兵。これに浜通りから相馬氏も加わり、南から多賀城の国府を攻める気配をみせるようになった。顕信と守永王としては看過できない事態である。このまま北朝に柴田郡を完全掌握されたら、梁川(伊達市)の伊達氏や守山(郡山市)の田村氏ら南朝の有力武将との連絡を遮断されてしまうからだ――。そこで顕信は同年3月、柴田郡へ出陣する。

 が、これは吉良の罠であった。

 顕信が南に向かった直後、東から国府を総攻撃したのである。

 国府には守永王が残っていたが、年少のうえ戦の経験に乏しい。百戦錬磨の吉良に対抗できるわけがなく3月11日に国府は陥落してしまう。慌てて顕信が戻ってくるが時すでに遅し。このときの顕信には、守永王を守り伊達領の大波城(福島市)まで逃れるのが精一杯であった。


 結局、南朝が陸奥国府を回復した期間は実質3カ月。これは南朝大将・北畠顕信の失策というより奥州管領・吉良貞家のほうが武将として一枚上であったと言うべきだろう。何しろ吉良は、かつて自分が敗れた挟撃作戦を、見事にやり返し勝利したのだから。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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