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【熟年離婚】〈男の言い分60〉

長年、誇りを持って頑張って来た私の職業を、妻は―リスペクトしていなかった。


 N氏、58歳。医療従事者。3歳下の妻と昨年12月離婚。

 私は、首都圏のある病院のレントゲン技師をして38年になります。

 26歳の時、同じ職場の事務員と結婚しました。恋愛結婚ですよ。結局、別れることになりましたがね。
 私が27歳の時に長男、30歳の時に長女が生まれ、一家4人、職場近くの小さな賃貸マンションで暮らしていました。妻も病院の事務のパートをしながら、まぁ、平穏に暮らしていました。

 ところが、子供二人がそろって喘息になって―学校も休みがちになる、夜中に発作が起きて救急に連れて行く、そのうち、子供達は友達とのつきあいや勉強についていけなくなって、不登校になる―本当に辛い時期が3年も続いたんです。

 どうしたものか、夫婦で考えた末、空気のきれいな所に引っ越してみよう、ということになりました。あれこれ転居先をさがしていたところ、たまたま妻の実家の隣町で、小さな“ニュータウン”造りが始まっていました。大きな川沿いの土地を住宅地にして、60坪単位で売り出す。家々の境界は生垣、住宅のブロックを碁盤目に仕切る道は欅と銀杏の並木と、10年後には緑の豊かな、落ち着いた住宅街になるだろう―実際、今そうなっていますがね―と、すぐそこを買って、家を建てて、子供達が6年生と4年生の時に、移り住みました。

 しかし、私の職場までは100㌔を超える距離なので、私だけ残留で、1DKのアパート暮らしになりましたが、月1回程度は家に帰って―というのがわが家のパターンになりました。

 うれしいことに、子供達は、引っ越して半年ほどで喘息の発作が収まって、それから1年後にはすっかり元気になりました。緑の中のきれいな空気、地元の学校の仲の良い友達が一番のクスリだったんですね。

 首都圏のゴミゴミした街で生まれ育った私には、家に帰る度に、大きな川のほとりを散歩しながら、遠くの雄大な山並みや、道端の野草の花を眺めるのが楽しかったですよ。毎日、味気ない壁に囲まれた仕事場に閉じこもっている私にとって、“わが家”に帰ることは、何よりの幸せでした。

 もちろん、元気いっぱいで成長する子供達の姿、以前はいつも眉根にシワを作ってイラついていた妻の、おだやかな顔を見るのも、幸せな気持ちになりましたよ。

 家に帰って来ると、茶の間に近所の奥さん達が3、4人集まって、おしゃべりしていたりするんですが、みんな、私にも愛想のいい笑顔を見せる。ああ、妻もいいご近所さんに恵まれているなぁ、と私もうれしかったですよ、その時はね。

 ある時、その奥さんたちのお茶タイムに出くわしたら、中の一人が「センセーもご一緒にいかがですか?」と声をかけました。私も、ご近所付き合いも大事だな、と思ってちょっとご一緒、と思ったんですが、妻が「いいえ、せっかくですけど、主人は今帰ったばかりで疲れてますから」と勝手に断る。ま、いいか、奥さん達のおしゃべりに付き合うより、自分の部屋でごろ寝しよう、と。

 それから間もなく秋―私が家に帰ろうと通りを歩いていると、隣近所が小さい空き地に集まって、バーベキュー大会の真っ最中でした。私の家族もいたので立ち止まると、奥さん達が「センセー!」「センセー!」。
「センセーもご一緒にどうですか!」と男性達も声をかけるんです。

 「センセー」なんて呼ばれると面映ゆくて逃げ出したい気持ちでしたが、そこはご近所の付き合いも大事、とバーベキューに混ざりました。みんなビールやら酎ハイやらを飲んで大はしゃぎでしたが、なぜか妻だけはシン、とうつむいている。何だろう、とは思いましたが、そこはスルーして私も楽しいひと時を過ごしました。

 次に家に帰って来た時、突然、道路で「センセー!」と呼び止められました。驚いてふり返ると、いつものご近所さんです。「センセーにお願いがあるんですが」と彼女は言う。私は「センセー」じゃないと言う間もなく彼女が訴えるには、夫に膵臓癌の疑いがある。地元の病院で診てもらっているが、どうもはっきりしない。センセーのご専門は何ですか? 何とかセンセーの病院を紹介していただけませんかという訴えでした。


 びっくりしたのは私。みんな私を医師だと信じていたんですね。だから「センセー」と呼ばれていたんだ。いや、私、医師じゃない、とその時言おうとしましたが、待てよ、これ大問題だぞ―と感じて、「ちょっと時間をください、検討させていただきます」とその場を逃れました。

 これは、妻の“陰謀”です。私はこの町では医師ということになっているんだ。私の勤めている病院は確かに、最先端の医療を行っている病院で、有名人や政治家もよく来院するので、地方でも名を知られている。「夫は、そこの医師なんです」と言っていたんですね、妻は。

 恥ずかしくて悔しくて、体が震えました。恥ずかしい、というのは私が医師でない、ということではない。妻のその見栄が恥ずかしい。悔しいのは、私が、使命感と誇りを持って38年、やって来た仕事を隠されたこと。リスペクトされていなかったことです。

 沢山の患者さんのレントゲンを撮って、その病状が好転している時のうれしさ、逆の時の悔しさ、何の異変も無い時の安堵感、何か異変のある時の心配。もちろん、それは私個人の密かな思いで、あくまでも医師が判断する厳正なデータに他なりませんが―「はい、息を吸ってー、そのまま止めてー」と暗室で写真を撮っている人、と思われているでしょうが、このデータを医師に提供して適切な治療のための情報にするレントゲン技師は、大切な役割を果たしているんですよ、それを妻は誇りに思ってくれてはいなかった。結婚以来、そうだったのかもしれない。職場の同僚で、医師と結婚した人は“勝ち組”の時代だったですからね。それならなんで私と結婚したの?と、今さらながら聞きたいですけどね。

 妻にそのウソを問いただすと、長年の―この町に移り住んでから今までの―ウソを認めました。もう、一緒に残りの人生を歩く気持ちは消えてしまった。もう一度、言いますよ。医療は医師だけでなく、いろいろな専門分野の者がチームで真剣に行うものです。一つ一つの専門分野の者達が、誇りと使命感を持って頑張っているんですよ。

 子供達もとっくに独立して、離婚は両親が決めること、と淡々。家のローンも終わっているし、何とか貯えもあるし、私はまだまだ現役でやれるし、夫婦でもめることもなく離婚成立。お互い、まだ残りの人生が長い。妻には妻の人生設計があるんでしょう。病院を紹介してほしい、と言ったご近所さんには「予約が満杯でー」と、私は「センセー」のまま、やんわりお断りしておきました。離婚を機に、地元の会社の事務員になった妻が、ずっとこの町で暮らしていけるようにね。

 私は相変わらずのアパート暮らしですが、職場の消毒の臭いが、なんだか芳香に感じられて―これからまだまだ頑張りますよ。
 (橋本 比呂)

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