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五百川の凶徒と御春の輩|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載113

 延元元年(1336)11月、京を占領した足利尊氏は新たに光明天皇を即位させ、その下で武家政権を樹立する。一方、無理やり退位させられる恰好となった後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ「正統な天皇は自分である」と宣言。この時から京の北朝と吉野の南朝による争いが本格化していくことになった。

 南北朝の戦火はもちろん奥州にも及ぶ。足利の家臣である斯波一族が奥州の武士たちへ「おまえたちの領地は北朝が保障する」と呼びかけ、これに多くの武士が靡いていった。対して南朝方の大将・北畠顕家は、延元2年(1337)1月に国府を伊達郡の霊山に移転。天然の要害である霊山で守りを万全にしたうえで巻き返しを図ろうとしていく。具体的に顕家が目指したのは再度の上洛だ――。2年前の建武3年(1335)暮れに顕家に率いられた奥州軍は怒涛の勢いで西上、足利軍を打ち破っている。このときの鮮烈な印象が後醍醐天皇の脳裏に深く刻まれており、吉野に脱出するやいなや後醍醐は「すぐに上洛して尊氏を討て」と、顕家に命じていたのだ。天皇の命令とあれば顕家も従わないわけにはいかない。とはいえ奥州ではすでに北朝方が優勢。そこで顕家は、まずは陸奥国府を霊山に移し政治の中枢を敵に奪われないよう手を打ち、延元2年2月から二度目の西上の道を模索していったのである。

 となると次に優先すべきはルートの確保だ。霊山から京へ進軍するには信夫(福島市)に出て現在の国道4号(当時は東山道)を南下するのが最短。当然、顕家もそのように考えた。が、早くから奥州南朝軍の動きを警戒していた尊氏が「顕家の行く手を阻め」と、奥州の北朝方に指示。これに応じた安積郡(郡山市)の伊東一族と三春の田村一族が、延元2年3月に五百川沿いを封鎖した。安積伊東と三春田村は、顕家から「白河の結城親朝の指揮下に入れ」と強制されたことに不満を抱いていたのである。

 さらに三春田村は平家の末裔で、藤原氏の血筋であった守山(郡山市田村町)の田村氏とは異なる一族であった。顕家が守山田村ばかり重用していたことにも反発したらしい。




 五百川は現在、本宮市と郡山市の境を流れており当時から街道筋であった。ここを渡らなければ上洛は不可能だ。さっそく顕家は、梁川城の伊達行朝と守山城の田村宗季へ討伐を命じる。だが4月になっても、なかなか五百川を突破することができない。焦った顕家は結城親朝にも出陣を下知。その命令書の中で安積伊東を「五百川の凶徒」と、そして三春田村を「御春の輩」と憎々しげに呼び捨てている。

 3月に始まった戦闘は7月まで長引いたが、どうにか南朝方が北朝方を撃破。安積伊東は郡山市西部に後退し三春田村は降参した。これで、いよいよ上洛の道がひらけたのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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