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【熟年離婚】〈男の言い分63〉

妻の嫁いびりで、息子夫婦は別居中。夫の私は離婚。ほんとにもう、カンベンしてくれ。


 F氏、62歳。自営業。3歳下の妻と、今年4月離婚。

 まぁ、私は離婚、息子夫婦も離婚の危機―と父子揃って“おだやかな家庭”とは縁遠い人生ですよねぇ。―今となれば、こうなったのも、そもそも私の結婚が間違っていたんでしょう。友達に言わせると、「妻の教育」が初めからなってなかった、と言うんですが、彼だって「妻の教育」なんて、そんなオソロシイこと、やれてるはずがない。立派に奥さんの、特大の尻に敷かれてますもの。

 友人が「間違っていた」という、私の結婚は、見合いでした。私は、法規関係の事務所をやっていますが、資格を取るまで応援してくれていた先輩が、「独立して事務所をやるには、しっかりものの女性じゃないと」と、熱心に推してくれた女性が―妻です。

 たしかにしっかりもので、気が利いて、私ひとりの小さな事務所には、なかなか得難い“人材”でした。電話番、接客、書類や資料をお客さんに届けたり、部屋の片づけをしたり、と―私が独立してから2年後に、事務員を雇えるようになるまで、けっこう助かりました。

 その後まもなく、長男、2年後に次男が生まれて、妻は専業主婦で頑張っていました。家事も子育ても近所付き合いも良くできているようで、私も何の心配もなく、仕事に専念できました。

 “異変”が起きたのは、長男が小学5年になった頃です。それまでは“世間〟並みに週1、学習塾に通わせていましたが、妻は、〝教育ママ〟ならぬ〝教育モンスター〟に変身。週2回の家庭教師を付けるようになりました。幸か不幸か、息子は、母親に抵抗することもなく、勉強していました。

 次男は、元気いっぱいの暴れん坊で、自分から進んで少年野球のチームに入って、毎日“野球三昧”。おかげで、モンスターから逃れることができていました

 そのうち、長男が地元の進学校にトップクラスで合格すると、妻の情熱爆発。主要科目全部に、それぞれ家庭教師を付けて―「将来は、医者にする」と大張り切り。家庭教師が来る度に、いそいそお茶を運んで、夢いっぱいのようでした。

 妻の“悲願”が叶って、長男は医大に合格。その後、医師になりました。

 放任だった次男は、自分なりに勉強して、地元の野球強豪校に入って、野球一筋の後、社会人野球が強い会社に就職して、彼なりに幸せそうでした。

 と、ここまでは、わが家も“順風満帆〟というところでしたが、長男の結婚で、大きく船が傾きました。

 長男が、医師としてようやく世間のお役に立てるようになったら、妻の「嫁探し」が始まりました。

 息子のヨメは「お医者さんか弁護士さんのお嬢さんじゃなくちゃ」と、勝手に決めて、あちこちに声をかけるようになりました。医者、弁護士が社会の頂点、と思っているんですね。どっちでもない私と結婚したあんたは何なんだ?

 そんなこととはおかまいなしに、息子は、母親の大泣きを無視して、恋愛結婚しました。学生時代やっていたワンダーフォーゲルで知り合った女子大学生だったそうで、元気いっぱいで明るい娘で、これなら息子も幸せにやっていけると、私は安心しました。

 ところが、妻は大泣き。ヨメは、関西の古い酒蔵の娘、お茶もピアノもクラシックバレエも知らない、と文句タラタラ―お前の嫁じゃない、と言い聞かせても、不平不満を並べるばかり。


【熟年離婚】〈男の言い分63〉イラスト1



姑来襲

 ここまでは勝手にグチっていればいい。息子達が結婚3カ月ほど経った頃、彼らが暮らしている東京の家に行った妻は―息子から聞いたが―ちょうど、昼飯の後、息子が食器洗いをしていたところで、妻は「こんなことをさせるために、私は息子を育てたんじゃない!」と嫁を正座させて、大泣きしたそうで―私と息子のいや~な予感が当たって、妻は、ひと月に一回は息子夫婦のところに行っては、あれこれと二人の暮らしに口出しするようになりました。

 嫁は、なかなか賢くて、その度に「はい」「はい」と言っていたそうです。妻が“干渉”を超えて“嫁いびり”になったのは、子供が生まれてから。 息子が、オムツを変えたり、洗濯物を干したりしたものなら「こんなことさせられて」「こんなみっともない男に育てたおぼえはない」と泣きわめき、嫁に「あんたのような人と結婚した息子がかわいそう」と―。

 それでも、息子夫婦は我慢していたようですが、子どもが3歳になる頃―それまで静かに姑の悪口雑言を聞いていた嫁が、子供を連れて、実家に帰ってしまったんです。


【熟年離婚】〈男の言い分63〉イラスト2

 妻は「だから、あんな嫁はだめだって言ったでしょう」と。いやいや、あんたのような姑がダメなんだよ、と私が言ったら、また大泣き。「あんたも嫁の肩をもつのね」と。

 私と息子と、二人で、嫁の実家に詫びと迎えに行きました。嫁の両親にはどれほど非難されても仕方がない、と覚悟して行ったんですが、穏やかに迎えてくれて、「娘が至らなくて―」と言うばかり。母親の暴走を食い止められなかった息子が悪い。誰より、私の妻が悪いんですが。

 息子が、彼女と話し合ったところ、「あんなお義母さんの介護までする人生は考えられない」と―。彼も納得していましたよ。

 ま、大人二人のことに私等親は踏み込めない。しかし、あの姑がもっと年がいって嫁が介護―なんて、傍から考えても大変なことだ。

 家に帰って、事の次第を妻に話したら、何と言ったと思います? 「ああ、〇〇さん(嫁の名前)って、もったいない。私も乗れなかった玉の輿に、せっかく乗れたのに!」。

 おやおや、私は妻に乗って頂くのが「玉の輿」でなくてすみませんでしたね。―しかし、お医者さんて、本当に女性達の憧れなんですねぇ―「そう言うあんたも玉の輿」に乗れるような女じゃないだろうよ。

 「俺が乗せるのが玉の輿でなくて、戸板なら、てめぇはその上に乗るおかめじゃねぇか」と、私もついにキレた。

 ―これから先、普通に生きれば、後、20年は人生を楽しめる。私との結婚を“失敗”としている女と一緒に生きて、時間を無駄にしたくない。

 妻だってそうでしょうよ。―大喧嘩と、妻の大泣きの末、離婚しました。

 ―幼い頃から、母親の干渉を受けず、のびのびと育って、さっさと独立した次男が「お父さん、ご苦労さんだったね」と―。長男も、口には出さないが、ほっとした様子です。「父さんと、母さんのことは最後まで見るから」と二人が言ってくれるのが救いです。

 私は家を出て、事務所の近くの小さなマンションに住んでいます。いつか、長男夫婦が元に戻って、孫を連れて遊びに来てくれるのを楽しみに、まだまだ仕事を頑張りますよ。

(橋本 比呂)

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