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北畠顕家の死|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載114

 延元2(1337)年3月。南朝の北畠顕家は、吉野(奈良県)に逃れた後醍醐天皇を救うべく上洛を計画していた。しかし北朝方により本宮市と郡山市の境を流れる五百川沿いを封鎖されてしまう。これを南朝が突破したのは同年7月末。そして8月11日、ついに顕家は霊山(伊達市)を出陣、西上の途についた。これを聞いた後醍醐天皇は「京に帰れる」と喜んだに違いない。2年前、奥州勢が足利尊氏を打ち破った記憶が残っていたはずだからだ。しかし今回の遠征は奥州勢にとって容易なものではなかった。顕家を警戒していた北朝の総帥・足利尊氏が万全の迎撃態勢を整えていたからである。

 11月、鎌倉に進撃した奥州勢は関東の北朝方と交戦。防衛線の突破に手こずり鎌倉で年を越すはめになる。年が改まって延元3年(1338)の正月になり、ようやく顕家は鎌倉を出発。東海道を進み美濃国の青野原(現在の関ヶ原)に達した。霊山からここに至るまで、すでに半年が経過。前回の遠征では多賀城から京までを20日あまりで走破したことを考えると、遅すぎると言わざるを得ない。それだけ沿道にて北朝方が激しく抵抗したわけだ。しかも青野原には足利の名だたる武将たちが満を持して奥州勢を待ち受けていた。

 1月28日に両軍は激突。長旅に疲れていた奥州勢は敗れ、美濃国(岐阜県)から伊勢国(三重県)へ転進し、態勢を立て直すことになった。3月になり伊勢から奈良へと転戦した顕家。5月には河内国(大阪府)に移り、京へ攻め込もうとする。が、この間に兵力は激減、さらに尊氏がまたも大軍を派遣し、顕家の北上を阻もうとした。延元3年5月22日、現在の堺市あたりで激戦が繰り広げられ、とうとう奥州勢は殲滅されてしまう。そして総大将の顕家も21歳の若さで討死した。


北畠顕家の死|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載114

 ところで死の直前、顕家は後醍醐天皇へ手紙を送っている。建武政権における天皇の失政を諌め「国家元首に復帰したければ次の七ヶ条を守れ」という内容だ。

 ①地方にしかるべき役人を配置せよ。京に一極集中させてはいけない

 ②三年間は免税し、皇室は質素倹約に努めろ。無駄な公共工事は言語道断

 ③政府における身分の序列を守れ。天皇の私情によって人材登用するな

 ④役人は真面目に政治に参加せよ。手柄があった者には公平に報いろ

 ⑤無意味な巡幸や参詣、さらに宴会は控えるべきだ

 ⑥法令は遵守しなければならない。朝令暮改はダメだ

 ⑦天皇にちかい僧侶や女性が政治に口出ししてはならない

 すべて現代にも通用する意見ばかりではないか。この手紙を読むだけで、いかに北畠顕家が非凡な才能の持ち主だったかを窺い知ることができる。それだけに若すぎる死が悔やまれてならない。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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