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顕家の帰還―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載110

  建武2年(1335)7月の北条時行による反乱から、後醍醐天皇による〝建武の新政〟の崩壊が始まった。まずは経緯を順に説明していこう。

 建武2年7月   北条時行が鎌倉占領
   同年8月   足利尊氏が鎌倉奪取

 建武3年1月11日 尊氏が入京
   同年1月30日 尊氏が京から敗走

 1月30日の戦いで足利勢を京から追い払った最大の功労者は、奥州から駆けつけた北畠顕家だった。600㌔という距離をわずか20日で走破、そのまま足利勢と交戦し勝利している。さらに顕家と奥州勢は2月6日に摂津国豊島河原(大阪府)へ出陣。反撃を試みようとする足利勢を撃破し、九州まで敗走させることに成功した。これでようやく奥州勢の長い戦いは終わったのである。

 そして小康を得ることができた建武政権。後醍醐天皇は奥州勢の強さに感激し、白河の結城宗広と守山(郡山市)の田村宗季に功績を称える文書を与えている。とくに結城宗広を〝公家の宝〟と絶賛。この場合の公家とは朝廷という意味らしく、宗広は「政府にとり至宝たる人物」とされたわけだ。

 これほど後醍醐から信頼されたわけだから、顕家ら奥州勢はこのまま京に留まり建武政権の中枢に居座ってもおかしくはなかった。京を追われたとはいえ足利尊氏は依然、九州で勢力を保ちつづけ、いつまた牙をむいてくるか分からない状況だったからである。しかし顕家は3月下旬に早くも帰国の途についている。「自分たちの役目は終わった」と言わんばかりの去り際は爽快だ。




 が、じつは顕家には、すぐ奥州に戻らなければならない理由があった。自分が留守にしている間に足利派の武士たちが活発に動いていたからである。

 なかでも激しい抵抗をみせていたのが小高城(南相馬市)の相馬重胤であった――。宇多郡(相馬市と新地町)の領有権を認められなかった重胤は、以前から建武政権に根強い不信感を抱いていたのである。そこで重胤は、奥州における足利派のリーダーであった斯波家長に同調。顕家を帰国させまいと鎌倉の郊外まで出陣し、ここに防衛線を張る。4月16日、顕家と斯波・相馬の連合軍が鎌倉西方の片瀬川(神奈川県)で激突。激戦のすえ家長は敗走し、重胤は討死した。 

 一方、必死の抵抗をうけた顕家は「もはや相馬を服従させるのは無理だ」と判断。鎌倉から宇都宮、白河を経由して浜通りを北上、小高城を総攻撃した。相馬勢は懸命に防戦したが、5月24日に落城。これで奥州における足利派は、いったん壊滅状態となった。

 こうして顕家は6月になり、ようやく陸奥国府の多賀城に帰還することができたのである。     (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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