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陸奥国府の移転|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載112

 建武3年(1335)1月、足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権に叛旗をひるがえし京を占領。しかし奥州から駆けつけた北畠顕家に敗れ、尊氏は九州へと落ち延びた。

 延元元年(1336)3月に顕家は奥州への帰途に就き、6月に陸奥国府の多賀城(宮城県)へ帰着する。だがこの時、またも京の情勢が一変していた。九州で勢力を回復した尊氏が大軍を擁して東進。5月25日に湊川(兵庫県)で楠木正成を討ち取って官軍を撃破。27日には二度目の入京を果たしている。そして後醍醐は比叡山に逃れ、尊氏によって退位に追い込まれていた――。つまり顕家が陸奥国府に到着する以前に、ふたたび建武政権は崩壊してしまったのである。

 尊氏が新たに光明天皇を即位させると、各地で足利派が息を吹き返す。 奥州における足利派のリーダーは斯波家長だが、このとき家長は鎌倉にいたため、岩手県盛岡に残っていた一族の斯波兼頼が職権を代行。7月下旬に陸奥国内の武士へ「足利に味方せよ」と呼びかけた。すると石川町の石川貞光らが即座に呼応。8月に松山城(浅川町)で兵を挙げた。

 これを知った顕家は、ただちに討伐軍を派遣。が、直後に守りが手薄になった陸奥国府が足利派から攻撃されてしまう。8月から9月にかけて一進一退の攻防が続いた結果、辛うじて顕家が敵を退けた。

 10月になると今度は顕家が攻勢に転じ、陸奥国府から平泉まで進軍。斯波兼頼を盛岡に退却させた。しかし、とどめを刺すまでには至らない。石川町やいわき市で依然として足利派の動きが活発であり、これに対応するため国府に戻らなければならなかったのである。

 この隙に斯波兼頼が態勢を立て直し、11月に再び国府に迫った。さすがの顕家も相次ぐ足利派の攻撃に苦戦を強いられる。平地に位置する国府は守りに適していないのだ。また梁川の伊達行朝や白河の結城宗広ら有力武将が来援に駆けつけるにも遠すぎた。

 そこで顕家は、ついに国府移転を決断。選んだのは福島県にそびえる標高825㍍の霊山だった。


 当時の霊山は山全体が大寺院であり、建物をそのまま政庁として利用できる。さらに伊達氏の領内であり、太平洋側の宇多郡(相馬市/新地町)も結城宗広の所領ということで守りも万全であった。

 顕家が国府の移転計画を進めていた11月下旬、京でも新たな動きが起こる。後醍醐が吉野(奈良県)に脱出し「自分こそ正統な天皇である」と、北朝(京)の光明天皇に対して南朝を樹立。南北朝時代の幕開けとなった。

 そして延元2年(1337)1月8日、国府移転を完了させた顕家が「霊山こそ陸奥国の政庁である」と宣言。この時から福島県でも南北朝の争いが本格化していくのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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