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新たな南朝大将|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載116

 延元3年(1338)5月、奥州南朝の総大将・北畠顕家が石津(大阪府堺市)で討死。残された奥州の兵たちは9月に伊勢国(三重県)で再集結、海路で奥州への帰還をはかった。が、暴風雨により遭難。顕家の父・北畠親房と梁川城主・伊達行朝ら一部の者は常陸国(茨城県)に漂着したが、多くの兵は伊勢に吹き戻されてしまった。11月には顕家に代わり奥州兵を束ねてきた白河の結城宗広が伊勢で病没。有力武将が戻ってこない奥州では、しだいに南朝方が劣勢となっていた。

 とにかく北朝に対抗するには顕家に代わるリーダーが必要だ。そこで興国元年(1340)5月、ふたたび伊勢の港から一人の青年が船に飛び乗った。顕家の弟・北畠顕信である。顕信は生年が不明なため年齢がはっきりしないが20歳くらいだったと思われる。本来ならば顕信は最初の航海により奥州南朝の総大将を務めるはずであった。しかし船が難破し伊勢で足止めを食らっていた。それから2年の時を要し、ようやく奥州に向かう準備が整ったのである。

 興国元年5月、まず常陸に上陸した顕信は父と再会。協議の結果、親房と伊達行朝は関東で戦うことになり奥州には顕信のみ赴くと決定した。

 同年7月に顕信は石巻に到着。地元の武士・葛西氏に出迎えられる。石巻から奥州全土へ「自分が新たな南朝大将だ」と宣言した顕信。この声に霊山(伊達市)を守っていた広橋経泰、守山(郡山市田村町)の田村宗季、白河の結城親朝など当時の福島県にいた武士たちが奮い立った。それまで彼らは各々近隣の北朝勢に脅かされてきたが、いよいよ顕信のもとで反撃に転じる時が来たのである。


 顕信は各地に書状を送り、南朝の武将たちと連携。そして秋を迎えた頃、福島県の者たちへ「奥州北朝の総大将・石塔義房は多賀城(宮城県)にいる。自分は葛西氏や八戸(青森県)の南部氏と力を合わせ、北から多賀城を攻める。おまえたちは機を見計らい南から進撃せよ。戦機は翌年の夏頃(1341)となろう。それまでに力を蓄えておけ」と通達する。焦らず時間をかけた入念な作戦、弱冠20歳の若者による立案とは思えぬものである。ところが顕信の反攻作戦は思わぬところから綻びが生じてしまう。興国2年(1341)の夏、いよいよという時に常陸にいた北畠親房が敗北を喫し、奥州の南朝勢に援けを求めてきたのだ。これにより白河の結城親朝と守山の田村宗季が南へ注視せざるを得なくなった。さらに浜通りでも相馬氏の動きが活発となり、霊山の広橋経泰と伊達一族も自領に釘付けとなってしまう。戦力が半減したことを知った顕信。顕信ら北の勢力だけでは多賀城を攻め落とせない。完全にタイミングを失ってしまったことを彼は悟る。結果、顕信は1年以上も石巻で忍従を強いられることになった。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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