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結城氏の反乱―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載106

 元弘3年(1333)5月に鎌倉幕府と北条氏を倒し、7月より〝建武の新政〟を開始した後醍醐天皇。とはいえすべての武士が天皇に心服したわけではない。いまだ北条の再来を望む残党たちは、多くが津軽に潜伏した。これに対処するため後醍醐は、北畠顕家を陸奥国司に任命、秩序回復にあたらせる。同年11月に国府(多賀城)に着任した顕家は、まず建武元年(1334)1月に〝陸奥将軍府〟を開設。「奥州武士の土地所有を保障する」と宣言する。これが功を奏し、建武の新政に半信半疑だった現地の武士は進んで顕家に臣従した。そのうえで顕家は津軽討伐軍を編制。同年11月までに反乱を鎮圧した――。こうして元弘元年(1331)8月に後醍醐が討幕の戦を開始して以来、およそ4年ぶりに陸奥国に平穏な時が訪れた。

 だが、穏やかな日々は長くは続かなかった。陸奥国外での戦火がこちらにも飛び火し、ふたたび戦乱の世を迎えてしまうのである。

 そのきっかけとなったのは北条時行。最後の北条得宗(本家当主)だった北条高時の遺児である。時行は幕府が滅ぶ直前に鎌倉を脱出。諏訪(長野県)に身を潜めていた。建武3年(1335)7月初旬になると現地の武士たちが時行を支援。鎌倉奪還のために挙兵する。すると各地に散らばっていた北条残党も時行に呼応。7月25日には鎌倉を占領した。この快進撃が、心の奥底で「やはり北条の世が良かった」と思っていた奥州の武士たちを刺激。福島県南部で時行に同調する者たちがあらわれた。その中心となったのが白河の結城一族だった。

 当時、白河の支配体制は複雑で、阿武隈川をはさんで現在の白河市北部から旧大信村の一帯を結城盛広が、阿武隈川から南の地域を結城宗広が支配していた。ちなみに盛広と宗広は従兄弟の間柄。後醍醐と顕家に認められ陸奥将軍府で要職に就いていた宗広に対し、盛広は冷遇されていた。これを不満とした盛広が、弟の祐義とともに「じつは自分も北条残党だ」と、時行に与したのである。


 建武3年(1335)8月9日、結城盛広と祐義は富沢(白河市大信下小屋)で叛旗をひるがえす。謀反を知った北畠顕家は、ただちに追討軍として結城宗広と伊達行朝を派遣。追討軍の猛攻をうけ、13日までに盛広が小館山城(西郷村)へ、弟の祐義が長倉城(平田村中倉?)へとそれぞれ逃れた。対する追討軍は小館山には宗広が向かい、長倉には伊達があたる。追い詰められた盛広と祐義兄弟にとって「他の北条残党が援軍に駆けつけてくれる」ことこそ一縷の望み。が、肝心の鎌倉にいた時行が、この頃すでに足利尊氏のまえに敗色濃厚となっていた。

 結果、8月19日に関東での敗北が決定。時を同じくして小館山と長倉の両城も陥落し、盛広と祐義は行方知れずとなった。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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