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お金と商品の間の話

最近通貨に関する書籍を読みましたので、みなさんがときおり不思議に思うであろう貨幣について少し筆をしたためたいと思います。

当たり前の話ですが、世の中は商品で溢れかえっています。
自らですべての必要な商品を賄うのは不可能です。
ゆえに、人は交換をします。
交換をする上では、とりあえず前提として当たり前ですが双方の合意が必要となります。
大昔の人は穀物と魚、肉、衣類などをそれぞれ交換していたのでしょう。
商品を交換していますと、やはり「金銀」が「みんなが欲しがる商品」として浮き上がってまいります。
①キラキラしていてきれい ②希少性がある ③変形させやすい
などが理由となるわけです。
金銀が貨幣(=共通して欲しがられる商品の筆頭)となるのはこういうわけです。
表題で示した「貨幣の幻想性」とは、「貨幣は普遍的商品だ」ということは幻想に過ぎない、と喝破する学者もいるのも事実だということを示しました。
それはある側面では、事実であると考えます。
ただし、それはまた一つの側面では「本当に価値がある」があってこそ、です。

最近読んだ本というのは、以下のものです。

貨幣というものは、もちろん今の社会では政府が発行し、政府の統治が及ぶところでのみ流通している、というふうに認識されていると思います。

ですが歴史をさかのぼりますと、必ずしも自分の政府が発行したものが流通したものでないこともあります。

マリア・テレジア銀貨(ターラー)というものが昔ありました。
少し調べればわかることでもありますが、17~18世紀に発行されたものが20世紀になっても中東や北部アフリカで流通していたことが知られています。
欧米列強もそれを駆逐するために自らの発行した貨幣を流通させようとしましたが、結局かなわずマリア・テレジア銀貨を鋳造した、ということがありました。

旧来から経済学において、「貨幣は金である」とされています。ですが歴史をさかのぼりますと、所によっては貝殻であったり、銀や銅であったり、場合によっては鉄が使われたこともあります。

古今東西の経済を眺めてみますと、税金は労役や作物で収めるけれども貨幣は巷で普通に流通している、といった状況は普通に見られました。そして結局代納が認められる、といったこともありました。
また日本でも、上記したマリア・テレジア銀貨のような現象が見られ、明銭や宋銭が中国より輸入され流通していました。またそれらを日本が模造し鋳造する、といった現象も見られました。

かのアダム・スミスはその著書「法学講義」で「貨幣とは公道のようなものだ」と述べているそうです。
確かに道路だけでは使いようがありませんが、なくてはならないものだということを痛感させられます。

また魯迅の故郷の最後の一文もあげようと思います。
もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ
というものです。
ここで重要なのは、「歩く人が多くなれば」というところです。

貨幣は必ずしも政府が決めるものではなく、どれだけの信用と流通性があるかという点です。
上記した明銭や宋銭、またマリア・テレジア銀貨は自政府が発行したものではなく、他地域から流入したものが民衆の間で使われていました。当時の政府が回収し、自ら発行したものを流通させようとしましたが、結果果たせず、むしろ政府が現状に追認したという形になりました。

なかなか日本では見られない現象ですが、自政府の貨幣が信用されないということは古今東西間々あったことです。
また世界貨幣というと、米ドル、英ポンド、欧州ユーロ、日本円、人民元あるいはスイスフランです。国境を超えて流通する貨幣というものは、それだけ信用があるということでもあります。

改めて貨幣とは何であるか、ということは皆さんあまり考えないと思います。ですがビットコインや昨今の金の高騰を考えますと、貨幣とはなんであるかということについて、思索を深めた次第です。

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