イズミの履歴書① 「うさんくさいババア」と言われないために(笑)

はじめまして。

生活経済ジャーナリスト/人財開発コンサルタントの和泉昭子です。

note始めたばかりなので、まずは自己紹介を。
私はごくフツーの生い立ちだから、あえて詳しい経歴を発信する必要はないかなと思っていたのですが、ある番組に出演した際、SNSに「うさんくさいババア」的なコメントをみつけて、「そうかあ。私、信用ないんだ」と気づきました。で、どこかでバックグラウンドを説明したほうがいいのかなと思っていたところ。

少々長くなりますが、この場を借りてお伝えしますね。

東京生まれの横浜育ち。公務員家系で、比較的きっちりした家庭環境で育てられ、小学校から大学まで地元の国公立に通いました。大学は教育学部ですし、安定志向の周囲からは(家族だけでなく学校の先生たちからも)、私は教員か公務員になるものだという暗黙の了解があったように思います。が、忘れもしない教員の採用試験当日、葛藤の中で私が出した結論は、試験を受けに行かないということでした。おそらく自分の中ではとうに決まっていたのですが、なかなか周囲に言い出せない、表面的には優等生な子どもだったのです。

写真 庭

でも、教育学部で突然路線変更しても、民間企業への就職はハードルが高い。そこで、教育出版社の福武書店(現在の株式会社ベネッセ・コーポレーション)を受け、採用していただきました。入社後は広告部に配属されましたが、雑誌部門縮小のあおりを受け、半年後にニューメディア事業部に異動。「中国進出プロジェクト」でフィージビリティスタディを担当しました。プロジェクトは当時の専務(福武総一郎氏)直轄だったこともあり、新人ではあり得ない貴重な経験をさせていただけたことは超ラッキー❗️ しかし、社会人2年目に大病をして、1年半の休職をはさみ、退職することになったのです。

そこから、私のプロティアン・キャリア(時代の変化に応じた変幻自在なキャリア)な人生が始まりました。

もともと私は情報発信する仕事がしたいと思っていて、福武書店も教育関係というより、出版社という点に惹かれていました。
もっといえば、より直接的に、自分の言葉で情報を伝える仕事をしたい。”アナウンサーになりたい”と思っていたのです。しかし既卒から局アナになるのは現実的には難しく、地方局もいくつか受験しましたが、日本短波放送(現在のラジオNIKKEI)に1年契約のアナウンサーとして雇っていただきました。
短波放送は、競馬と経済(主に株式)、医療情報を主に発信するラジオ局。年末になると、今年1年の経済とマーケットを振り返り、来年を展望する特別番組が組まれるのですが、それを担当させてもらえることになったのです。ところが、台本には番組の紹介をする枠コメントはあるものの、内容については専門家であるキャスターの話に応じてフレキシブルに対応するとだけで、アシスタントのコメントは何も書かれていませんでした。当時の私は経済のことも株式のこともほとんどわかっていなかったので、どう言葉をはさめばよいかわからず、結局ひと言も声を発することなく番組は終わりました。
テレビなら、女子アナがそこに座って、笑っているだけで意味があります。でも、ラジオでは声を出さないかぎり、そこにいることすら伝わらない。私は「存在しない」ことになってしまうのです。
恥ずかしくて、なさけなくて、泣いて泣いて、しばらく立ち直れなかったのを覚えています。

これを契機に、私は経済の勉強を始めました。でも、最初は日経新聞すら、意味がよくわかりません。当時はインターネットもなかったので、放送大学を受講したり、本を読んだりしました。そんな中、アメリカから日本に入ってきたばかりの「ファイナンシャル・プランナー(FP)」いう仕事があることを知り、資格を取得しました。
その後、NHKのニュース番組や経済番組を担当して幅広く現場を取材し、FPとして数多くの家計相談を行う中で、机上の学びを生きた情報に変えていくことができたと思います。

次回は1995年、生活経済ジャーナリストに転身後のストーリー(そこそこ長く生きているのでね)。


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