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トラウマ小説の思い出

子供の頃、母のガラス棚が好きだった。
年に数回しか開かれることのないそこには、香水や小瓶に入った可愛らしいボタンたち、ちょっとしたアクセサリーが並んでいた。家族のお出かけの日に開かれると、一目散に飛んで行ってガラス棚の奥の方まで眺めた。棚が閉じた後も、母が唯一持っていた香水・シャネルの甘い残り香をいつまでも嗅いでいた。

ガラス棚の中には、いくつかの小説も並んでいた。
うちには別に大きな本棚も、入りきらなかった本を収納する専用のケースもあったので、なぜそこに入っていたのかはわからない。単にお気に入りだったのかもしれないし、子供に見せたくなかったのかもしれない。いくつか、と書いたが、本当は1冊だったのかもしれないというくらい曖昧だ。

幼い私、小学校高学年か中学生の私は、その中から貴志祐介の「天使の囀り」を取り出す。
本のページに香水の匂いが染みついていた。
普段知る母の匂いとは別の、大人の女の匂いがした。
私の知る限りだと、母がその香水をつけたのを見たことも嗅いだこともなかった。シャネルは母からただ独立した、むせかえるほどの女の匂いだった。

「天使の囀り」は角川ホラー文庫から出版されている。
簡単に内容を書くと、主人公が自殺した恋人の死の謎を解いていくサスペンスものだ。
主人公が最後に辿り着くのは、恐怖の感情を快楽へ書き換える、脳に寄生する線虫だ。
主人公が謎の核心に迫る度に、どんどん恐怖に囚われている人が死んでいく。

この本、めちゃめちゃ怖い。

特に怖かったのは、とある蜘蛛恐怖症の男がやはり線虫に侵され、自宅の押し入れで蜘蛛を飼う場面だ。
男は押し入れにびっしり蔓延る大小さまざまな蜘蛛を見て満足そうに頷き、蜘蛛たちへ向かって倒れこむ。
体の下で蜘蛛たちのぷちぷちと潰れる感触を得て射精するのだ(思い出のみで書いているので全然ちがう可能性があります)。

貴志祐介はグロテスクの中にもエロティシズムを美しく挿入する。
残酷さと美しさの同居は技術がないとできない、本当にすごい作家様だと思う。
しかし(おそらく)対象年齢から外れていた幼い私には刺激が強すぎた。
本に染み付いたシャネルが、ホラーの中に潜む性の匂いと重なる。
くらくらするほどの、女の放つだろう甘い匂い。
以来私はシャネルの香水を嗅ぐと背筋に冷たいものが走るようになった。


余談だが、この記憶は後にアレハンドロ・ホドロフスキーの「ホーリーマウンテン」に上書きされる。
タランチュラを顔に這わせるシーンだ。蜘蛛の生命と無機な部屋、服従している俳優を感じるいいシーンなので、是非見てほしい。


最近テレビをつけると、2020年を彩る顔として瑛人が香水を歌っている。

別に君を求めてないけど
横にいられると思いだす
君のドルチェ&ガッバーナの
その香水のせいだよ

これは私と貴志祐介の歌だ。
トラウマシャネルの曲だ。
ガラス棚が開かれる度に、町で甘く芳醇な香水を感じる度に、私は北海道の夕暮れの部屋に引き戻される。
傾いた夕日の中で目が離せずにいたグロテスクで残酷でエロティックで美しい本が浮かぶ。

20歳くらいの頃、母にこの話をすると、「私、あの香水好きじゃないんだよね」とカラッと笑っていた。
あの後の大掃除か何かで香水は捨てたようで、ガラス棚の中には今や家計簿やハンドクリームが眠っている。
だが、奥の奥にシャネルの袋がしまい込まれていて、なんだか泣きたくなってしまうのだ。


貴志祐介とは決別がついていて、カニバリストを描いた天狼星が面白かった、と書こうとして調べたら栗本薫の本だった。
決着はまだだ。悪の教典を読みます。おわり。


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