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(浅井茂利著作集)ILO条約第105号(強制労働廃止条約)は批准できるか

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1657(2020年12月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利

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 ILO(国際労働機関)では、これまで190の条約が採択されてきました(うち撤回・廃止11、棚上げ19)が、このうち「この機関の内部及び外部においで基本的なものとして認められた条約」=基本条約が8つあり、この基本8条約に規定された4つの中核的労働基準については、「すべての加盟国は、問題となっている条約を批准していない場合においても、まさにこの機関の加盟国であるという事実そのものにより」、「尊重し、促進し、かつ実現する義務を負う」こととされています。
 現実には、8つの条約の批准率は92%に達しており、「批准していない場合」はごく少数です。ところが日本では、8条約のうちのふたつ、すなわち、強制労働廃止条約(第105号)、差別待遇(雇用及び職業)条約(第
111号)について、批准ができていません。
 105号については、公務員のスト指導者に対する懲役刑の適用が、 111号は公務員の政治活動の制限が諸外国に比べてやや厳しいことが障害となっているのですが、公務員のスト指導者の懲役刑の問題については、最近、状況が変化してきており、近い将来、批准が可能となるかもしれません。

ILO中核的労働基準に関する基本8条約

 ILOでは、
*結社の自由及び団体交渉権の効果的な承認
*あらゆる形態の強制労働の禁止
*児童労働の実効的な廃止
*雇用及び職業における差別の排除
の4項目を「中核的労働基準」と呼んでおり、基本8条約すなわち、
*強制労働に関する条約(第29号)
*結社の自由及び団結権の保護に関する条約(第87号)
*団結権及び団体交渉権についての原則の適用に関する条約(第98号)
*同一価値の労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約(第100号)
*強制労働の廃止に関する条約(第105号)
*雇用及び職業についての差別待遇に関する条約(第111号)
*就業が認められるための最低年齢に関する条約(第138号)
*最悪の形態の児童労働の禁止及び撤廃のための即時の行動に関する条約(第182号)
において、内容が規定されています。
 労働基準と言っても、最低賃金や労働時間規制といった具体的な賃金・労働諸条件の基準ではなく、労働に関する基本的人権プラス労働基本権ということになります。なお、日本では労働基本権として確立されている争議権は、明確なかたちでは中核的労働基準として記載されていませんが、結社の自由・団体交渉権の中に包含されるものとILOでは解釈されています。この解釈については、使用者側には異論がありますが、労使対等は、争議権を背景として確立されるものなので、当然と言えるでしょう。
 ILOに限らず条約というものは、合意・調印しただけでは不十分で、国会が批准して、はじめて効力を持つことになります。ただし、4つの中核的労働基準については、1998年にILO総会で採択された「労働における基本
的原則及び権利に関するILO宣言」において、「すべての加盟国は、問題となっている条約を批准していない場合においても、まさにこの機関の加盟国であるという事実そのものにより」、「尊重し、促進し、かつ実現する義務を負う」こととされています。
 また、「ILO宣言」自体は「政治的文書」とみなされているようですが、 TPP(環太平洋パートナーシップ)協定では、第19・3条において、「各締約国は、自国の法律及び規則及び当該法律及び規則に基づく慣行において、ILO宣言に述べられている次の権利を採用し、及び維持する」と規定されており、「次の権利」として、 4つの中核的労働基準を列記しています。TPP締約国では、ILO宣言は法的拘束力を持つことになるわけです。さらに日本国憲法第98条では、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守する」とされており、中核的労働基準や基本8条約は間違いなく「確立された国際法規」のひとつです。中核的労働基準、そして基本8条約は、日本において法的拘束力を持つものと解すべきだと思います。
 とはいえ批准の必要がない、ということでは決してなく、8条約は「この機関の内部及び外部において基本的なものとして認められた条約」ですから、きちんと批准されなくてはなりません。残念ながら、日本では強制労働に関する105号と差別に関する111号が未批准となっていますが、ILO加盟187カ国中、105号は174カ国、 111号は175カ国が批准しており、こうした条約を批准していないことは加盟国として、とりわけ先進国として、まことに恥ずべき状態だと言わなければなりません。外交上も、2条約を批准していないことにより、とりわけ韓国との関係などにおいて、日本は強制労働や差別の問題に冷淡な国、という印象を与えることは好ましくありません。

105号条約が未批准の理由

 わが国が強制労働に関する105号条約を批准できていない理由としては、国家公務員法、地方公務員法において、公務員のスト指導者に対して懲役刑が課されることになっていることが挙げられます。懲役とは、「刑事施設に拘置して所定の作業を行わせる」(刑法第12条2項)という刑であり、105号条約では、懲役刑そのものが禁止されているわけではありませんが、
*政治的な圧制若しくは教育の手段又は、政治的な見解若しくは既存の政治的、社会的若しくは経済的制度に思想的に反対する見解をいだき、若しくは発表することに対する制裁
*経済的発展の目的のために、労働力を動員し、及び利用する方法
*労働規律の手段
*同盟罷業に参加したことに対する制裁
*人種的、社会的、国民的又は宗教的差別待遇の手段
としてのすべての種類の強制労働が禁止されていることから、公務員のスト指導者に対する懲役刑は、これに抵触するものとみなされています。
 刑法では、自由刑(拘禁による自由の剥奪を内容とする刑罰)として、懲役、禁錮、拘留の3種類を定めていますが、「作業」を行わなくてよい禁錮を適用するのは、罪が軽いということではなく、「政治犯のような非破廉恥的な動機に基づく犯人に特別な処遇を与えるという名誉拘禁の思想に由来するもの」なので、殺人や窃盗などの破廉恥犯は懲役、政治犯や過失犯など非破廉恥犯は禁錮ということになります。ちなみに、内乱罪は政治犯のため、懲役刑は設けられておらず、死刑もしくは禁錮刑が適用されます。
 公務員のスト指導者は、破廉恥犯とは言えないので、本来、懲役の対象とされるべきではありません。これを規定しているのは刑法ではなく、国家公務員法、地方公務員法ですが、国家公務員法、地方公務員法は禁錮の規定を設けておらず、刑法との関係でバランスを欠いた粗雑なものと言わざるを得ず、憲法第14条の法の下の平等の観点からしても、問題があります。現実に、公務員のスト指導者に対して懲役刑が課された例はないことからしても、速やかにこれを見直すことが必要であり、見直すことによって、105号の批准も可能となるわけです。

懲役及び禁錮の単一化

 おりしも、法務省の法制審議会少年法・刑事法(少年年齢・犯罪者処遇関係)部会では、「懲役及び禁錮を、新自由刑として単一化する」ことが検討されてきましたが、その際、「作業を行わせることその他の矯正に必要な処遇」をどのように位置づけるかということが、論点のひとつとなりました。
 2019年12月の第23回会議で発表された「検討のための素案(改訂版)」では、
*新自由刑は、刑事施設に拘置して、作業を行わせることその他の矯正に必要な処遇を行うものとする。
と記載され、「作業を行わせることその他の矯正に必要な処遇」が「拘置」と同様に「刑の内容」として位置づけられる方向が示されました。これでは、懲役と禁錮の単一化というよりも、むしろ禁錮の廃止と懲役への一本
化ということになるように思われます。
 刑法改正の際には、あわせて国家公務員法、地方公務員法の罰則規定も改正されるものと想定されますが、仮に公務員のスト指導者にこうした刑が適用されることになると、引き続き105号条約に抵触することになります。それどころか、こうした刑法の改正によって、105号条約抵触問題は、公務員のスト指導者に止まらず、政治犯全体に拡大することにもなってしまいます。
 このため金属労協では、 2020年4月にとりまとめた「2020年政策・制度要求」において、
*ILO基本8条約中未批准2条約(強制労働の廃止に関する条約・・・第105号、雇用及び職業についての差別待遇に関する条約・・・第111号)の早期批准を行うこと。
*第105号の批准に向け、国家公務員法、地方公務員法における罰則規定の改正を行うこと。
*刑法改正によって懲役および禁錮が「新自由刑」として単一化され、これに伴い、国家公務員法、地方公務員法の改正が行われる場合には、第105号に抵触しないものとすること。
を主張してきました。
 「作業を行わせることその他の矯正に必要な処遇」を「刑の内容」とすることについては、部会の委員からも、たびたび異論が出されていました。たとえば素案(改訂版)が出される以前の部会での「意見要旨」を見ると、
*「作業その他の矯正に必要な処遇」を刑の内容とする場合、「矯正に必要な処遇」の範囲がはっきりしないので、刑罰の明確性の観点から、規定ぶりを検討すべきではないか。
*罪刑法定主義の観点から、刑の内容は明確に規定されるべきであるが、 「矯正に必要な処遇」は、内容が曖昧であり、内面に深く関わる性格の矯正なども含めた処遇がされ得るという問題があるので、少なくともこれを刑の内容として刑法に書き込むのは問題があるのではないか。
*新自由刑の下で、作業を「矯正に必要な処遇」として位置付けるのであれば、現行の懲役における刑の内容としての作業とは意味合いが異なるということを何らかの形で法律上明確にしておくことが必要ではないか。
などといった意見が出されていました。
 素案(改訂版)が示されてからも、
*「拘置して」という部分と「作業を行わせることその他の矯正に必要な処遇を行う」という部分はかなり種類の違うものであり、拘置するということと後半の部分とは項を分けるとか、あるいは、新自由刑は刑事施設に拘置するとした上で、受刑者を主体にした形で、拘置された者は作業を行うことその他の矯正に必要な処遇を受けるものとするという規定にするようにしていただきたい。
などといった趣旨の意見が繰り返し出されていました。しかしながら、とくに議論が深まることはなく、議事録を見る限りでは、ほぼ無視されているように見受けられました。
 ところが、7月22日の部会において突如、幹事より、
*刑罰の内容と処遇の内容とは区別して、項を分けて規定すべきである。
などといった意見が出され、8月6日の部会で発表された「要綱(骨子)」では、
*新自由刑は、刑事施設に拘置するものとする。
*新自由刑に処せられた者には、改善更生を図るため、必要な作業を行わせ、又は必要な指導を行うことができるものとする。
と、拘置と処遇は項を分けて記載されることになりました。 2019年12月の「素案(改訂版)」とは、決定的に違うものであることは明らかです。
 こうした方向で刑法が改正され、それに伴って国家公務員法、地方公務員法の罰則規定も改正されれば、105号条約が批准できなかった理由、すなわち公務員のスト指導者に対する懲役刑適用の問題が解消されるものと期待されます。

111号条約の場合

 一方、差別に関する111号条約に関しては、105号のように、批准ができない明確な理由があるわけではないようですが、やはり公務員の問題で、わが国では政治活動の制限が諸外国に比べてやや厳しすぎるので、その見直しが必要ではないかとの見方があります。この点については、政党ごとに考え方の違い、立場の違いがあるため、その合意形成が図られないと、政府として批准に踏み切れない、という事情があるのかもしれません。

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