賃金の社会的相場形成
2023年10月2日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利
<情報のご利用に際してのご注意>
本稿の内容および執筆者の肩書は、原稿執筆当時のものです。
当会(一般社団法人成果配分調査会)は、提供する情報の内容に関し万全を期しておりますが、その正確性、完全性を保証するものではありません。この情報を利用したことにより利用者が被ったいかなる損害についても、当会および執筆者は一切責任を負いかねます。
なお、本稿の掲載内容を引用する際は、一般社団法人成果配分調査会によるものであることを明記してください。
連絡先:info@seikahaibun.org
賃金の「社会的相場形成」
賃金水準やベースアップは、自社の体力や業績、すなわち支払い能力に応じて決めるもの、というイメージがあるかもしれません。
しかしながら現実には、個別企業の賃金水準やベースアップといえども、
①マクロ経済の状況に基づいて形成される賃金水準やベースアップの世間相場の幅の中で、
②産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して、
決定されています。
ところがベアゼロが長く続く中で、とくにベースアップに関しては、マクロ経済の状況に基づいた「社会的相場形成」の意識が失われ、「マクロ経済軽視」「支払い能力一辺倒」の雰囲気が醸成されてきました。しかしながら、物価上昇に対応し、生産性の向上を反映したベースアップが不可欠となっている中では、労使ともに「社会的相場形成」を強く意識していく必要があります。
世間相場の状況
たとえば、製造業の上場企業の平均年収について比較してみると、年収ワースト企業の年収を1として、製造業平均はおおむね2、最大手企業は3という比率になります。1対3という比率は製造業だけでなく、運輸・情報通信業、小売業、サービス業といった主要な産業で共通に見られますので、これが現時点における日本の賃金水準の世間相場の幅というものだと思います。1対3という比率が大変大きいことは事実ですが、それでも年収ワースト企業と最大手企業では、連結の売上高が1対3万5千、1人あたり売上高でも1対9ですから、企業規模や業績の差に比べればはるかに小さいと言えます。
また、厚生労働省「賃金構造基本統計調査」により、2022年における所定内給与を男性・産業計・企業規模計で見てみると、35歳・高卒・直入者では、半分の人が26.35万円から34.29万円の7.94万円の幅の中にいることがわかります。大卒でも、30.36万円から39.89万円という9.53万円の幅となっています。賃金格差が大きいことは間違いありませんが、それでもこうした傾向にあることは世間相場の存在を示している、と言えるのではないでしょうか。
厚生労働省による2023年春闘の詳細な集計はこれからですが、東京商工リサーチが行った賃上げ(ただし、定期昇給・賞与の増額などを含む)の行われた大企業・中小企業合わせて2,942社の賃上げ率の集計では、
*ベースアップが実施されたと思われる2%台以上の企業が90.7%
*物価上昇をカバーできたと思われる5%台以上の企業が36.3%
となっており、58.5%の企業が3~5%台となっています。こうした状況も、賃上げにおける世間相場の存在を示すものと言えるでしょう。
マクロ経済の状況に基づいた「社会的相場形成」の意識が失われた理由
長く続いたベアゼロの時代に、なぜ、マクロ経済の状況に基づいた「社会的相場形成」の意識が失われてしまったのか、それは、「ベースアップの世間相場がゼロだったから」ということだろうと思います。ベアゼロの間も、ベースアップの世間相場は存在していたのだが、それが「ゼロ」という数字だったということです。
前述のように、個別企業におけるベースアップは、
①マクロ経済の状況に基づいて形成される世間相場の幅の中で、
②産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して、
決定されていくわけですから、
(1)マクロ経済が、成長率はゼロ%台、物価上昇率はゼロ%をはさんで推移、というような状況であれば、①の世間相場がゼロとなってしまい、あとは②、すなわち支払い能力を反映してベースアップを決定することになる。
(2)こうした中で、①の意識が失われ、「マクロ経済軽視」「支払い能力一辺倒」の雰囲気が醸成されてきた。
(3)ところが、現実には①は生き続けているので、個別企業では自社の支払い能力を反映してベアゼロとしているつもりなのだが、実際には世間相場に従ってベアゼロにしているだけ、という齟齬が生じた。
(4)その結果、どのような業績であろうとも、「支払い能力=ない」という思い込みが形成されてしまった。
ということなのではないかと思います。
マクロ経済の状況に基づいた「社会的相場形成」の必要性
日本で働く勤労者には、
*日本経済の成長に相応しい生活水準の向上を享受する権利
*日本の経済力に相応しい生活を送る権利
があるはずです。政労使で合意している「生産性運動三原則」は、
*雇用の維持拡大
*労使の協力と協議
*成果の公正な分配
からなっていますが、このうち「成果の公正な分配」については、「生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする」とされています。個別企業の支払い能力ではなく、国民経済すなわちマクロ経済の実情に応じた成果配分が求められているわけです。
かつて、労使の賃上げ交渉に対し、マスコミが「百円玉の春闘」と揶揄していた時代がありました。百円玉何個かのベースアップしか取れないという意味ではなく、個別企業ごとの労使交渉で変動する幅はせいぜい百円玉何個分かだけ、という意味です。しかしながら、マクロ経済の実情に応じた成果配分を行おうとすれば、当然、個別企業ではそのような交渉になるわけで、まさに「百円玉の春闘」こそ、正しい賃金交渉だということになります。
なお表面的には、大企業労使が世間相場を作っているように見えるかもしれません。しかしながら大企業といえども、産業界全体、そして国民全体の反応や意向を無視して、ベースアップを決定することはできません。世間相場は、大企業も中小企業も、大企業で働く人も中小企業で働く人も含め、まさに社会全体で形成していくものと言えます。
賃金水準は、労働市場における労働力の価格ということになりますが、労働力の価格も、「一物一価の法則」から逃れられません。本来、市場経済原理の下では、個別企業ごとの「支払い能力」は、賃金の決定要素にはならないはずです。わが国で主流の職能給よりも、いわゆる「ジョブ型」でクローズアップされている職務給のほうが賃金水準の社会的な相場を形成しやすいということがあり、「脱職務主義」「職能給化」の進む米国では、賃金水準の社会的相場形成との両立が課題となっています。
経団連の姿勢
経団連は従来から、「賃金決定の大原則」というものを提唱していました。「社内外の様々な考慮要素(経済・景気・物価の動向、自社の業績や労務構成の変化など)を総合的に勘案し、適切な総額人件費管理の下で、自社の支払能力を踏まえ、労使協議を経た上で、各企業が自社の賃金を決定する」というものでした。
「経済・景気・物価の動向などの外的要素」も勘案要素に入っていますので、「支払い能力一辺倒」というわけではありませんが、
*社会的な相場形成、世間相場という観点は抜け落ちている(ちなみに、かつては「生産性基準原理」という世間相場の考え方を示していました)。
*結局、最後は「自社の支払能力」に従うことになる。
という問題点がありました。揚げ足取りのようにはなりますが、勘案要素である「自社の業績や労務構成の変化などの内的要素」は「自社の支払能力」とほぼ同じことなので、二重に考慮されてしまう、という問題もあります。
しかしながら2023年春闘では、経団連の姿勢はかなり変化しているように見受けられます。『2023年版経営労働政策特別委員会報告』では、「賃金決定の大原則」を降ろしたわけではありませんが、従来に比べ扱いが後退しており、その内容は、本文では紹介されず、脚注に記載があるだけとなっています。
『経労委報告』では代わって、「物価上昇の流れが浸透しつつある現状」を「長く続いたデフレと低成長にピリオドを打つ絶好のチャンス」「大きな転換点」としてとらえ、「デフレマインドを払拭し賃金引上げの機運をさらに醸成して消費を喚起・拡大する」とともに、賃金と物価が適切に上昇する「賃金と物価の好循環」「構造的な賃金引上げ」「分厚い中間層の形成」につなげていくことにより、「日本経済再生」を果たすという、「社会性の視座」に立って、「物価動向を重視した賃金引上げ」「賃金引上げのモメンタムの維持・強化」を「企業の社会的な責務」として企業に求めており、賃金の社会性、賃上げのマクロ経済的な必要性を繰り返し、強く訴えています。
また、同じく『経労委報告』は、企業労使の賃上げ交渉において、「自社の経営状況を労使で正しく共有した上で」「連合や産業別労働組合など上部団体が示す方針等を参考にしつつ決定した要求を受けて」「様々な考慮要素のうち、物価動向を特に重視しながら」検討していく必要がある、と指摘しており、あえて「連合や産業別労働組合など上部団体が示す方針」に言及しているのも、社会的相場形成重視の表れと言えます。
十倉経団連会長も、2023年2月6日の定例記者会見において、「『2023年版経営労働政策特別委員会報告』には、賃金引上げの目標値こそ明記していないが、賃金引上げを企業の社会的責務とまで位置づけ、その実現を力強く訴えている。連合が、今年の春季労使交渉の運動目標として5%の賃上げ指標を掲げたことは理解できるが、日本の企業数・従業員数の大部分を中小企業が占めているうえ、業績が業種・業界・個社により様々でもあることから、経団連が一律の数値目標を掲げるのは適切ではない」との見解を示し、経団連が一律の数値目標を掲げることはできないものの、連合の5%(定昇相当分を含む)の賃金要求方針を事実上、支持しました。