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(浅井茂利著作集)TPPで労働法の対応が必要

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1601(2016年4月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利

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 2010年の交渉開始より5年以上、日本の交渉参加からも2年以上を経て、ようやくTPP協定が合意・署名に至りました。これからは各国による国内手続きが行われる段階であり、日本でも2016年3月には、承認案および「環太平洋パートナーシップ協定の締結に伴う関係法律の整備に関する法律案」が国会に提出されました。2009年11月のオバマ米大統領の交渉参加表明を受け、直ちに検討を開始し、2010年4月以来、日本の早期交渉参加を主張してきた金属労協としては、重要な政策・制度課題が実現したことになります。
 しかしながら、問題点がひとつあります。TPP協定の効果、利益というのは、もちろんたくさんあるわけですが、そのなかの重要なものとして、「労働章」が盛り込まれている点が挙げられます。TPPに盛り込まれた「労働章」の内容からすれば、日本としても労働法における立法措置が必要なはずですが、なぜか関連法案の中に、労働法が含まれていません。
 日本国憲法98条2項では、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」とされており、TPP協定を承認し、発効すれば、自動的に日本の国内法を規制することになるので、特別な立法措置をしなくとも、差し支えないと言えば言えないことはないのですが、政府は今までそうしたやり方は採ってこなかったということですし、やはり適切ではないと思われます。政府はただちに、TPPに対応するための立法措置に着手すべきです。

TPP「労働章」の内容

 当初から想定されていたことではありますが、TPP協定では労働に関する章(労働章)が設けられています。その具体的な中身は、
①締約国は、労働者の権利に関するILO加盟国としての義務(ILO宣言で述べられているものを含む)を確認する。
②締約国は、保護主義的な貿易の目的のために労働基準を用いるべきでないことを認める。
③各締約国は、自国の法律及び規則及び当該法律及び規則に基づく慣行において、ILO宣言に述べられている権利を採用し、及び維持する。
④締約国は、労働法令で与えられる保護を弱め、または低下させることにより、貿易・投資を奨励することが適当でないことを認める。このため、いずれの締約国も、締約国間の貿易・投資に影響をおよぼすやり方で、自国の法律・規則について免除その他の逸脱措置をとってはならない。
などとなっています。こうした規定は、アメリカやEUが締結したFTA(自由貿易協定)では普通に盛り込まれていますが、日本が参加しているものには、わずかな先例があるだけです。
 ここで焦点となるのは、③です。「ILO宣言」というのは、1998年に採択された「労働における基本的原則及び権利に関するILO宣言」のことで、ILOの基本8条約(29号、87号、98号、100号、105号、111号、138号、182号)に定められた4つの中核的労働基準、すなわち、
(a) 結社の自由及び団体交渉権の効果的な承認
(b) あらゆる形態の強制労働の禁止
(c) 児童労働の実効的な廃止
(d) 雇用及び職業における差別の排除
に関しては、すべての加盟国は、条約を批准していない場合においても、まさにこの機関の加盟国であるという事実そのものにより、「尊重し、促進し、かつ実現する義務を負う」というものです。(上記翻訳はILOのもの。TPPでの翻訳は若干異なる)

日本は中核的労働基準を満たしていない

 ILO宣言で「実現する義務を負う」とされてはいるものの、現実には日本では、
(b) あらゆる形態の強制労働の禁止
(d) 雇用及び職業における差別の排除
について、これを満たしていない状態にあります。
 まず強制労働ですが、日本では、公務員の争議行為を指導した者には、懲役刑が科せられることになっています。たとえば、国家公務員法110条では、国家公務員の争議行為を「共謀し、そそのかし、若しくはあおり、又はこれらの行為を企てた者」には、「3年以下の懲役又は百万円以下の罰金」とされています。懲役刑そのものは、ILO条約でも認められていますが、
*政治的な圧制若しくは教育の手段又は、政治的な見解若しくは既存の政治的、社会的若しくは経済的制度に思想的に反対する見解をいだき、若しくは発表することに対する制裁
*労働規律の手段
*同盟罷業に参加したことに対する制裁
としての懲役刑は、禁止されていますので、これに抵触してくるわけです。
差別については、日本国憲法14条でも、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」とされているので、一見、大丈夫なような気がします。
 しかしながら、かつて、新入社員が、採用試験の際に学生運動などの参加活動を隠して虚偽の記載・回答をしていたことが判明し、会社側が試用期間満了直前に本採用を拒否したのに対して、新入社員が会社を訴えた事件で、先述の憲法14条および19条(思想及び良心の自由)は、「もっぱら国または公共団体と個人との関係を規律するものであり、私人相互の関係を直接規律することを予定するものではない」とした最高裁判例がネックとされています。

TPPにより、違反状態の放置は許されず

 このふたつの事例は、98年の「ILO宣言」に関しても違反するということになるわけですが、「ILO宣言」自体は、政治的な宣言であり、批准を必要とするものでもなかったので、違反状態が放置されてきたわけです。しかしながら、TPP協定に「ILO宣言に述べられている」権利の「採用し、及び維持」が明記された以上、TPP締約国においては、ILO宣言が単なる政治的な文書ではなく、法律的な文書となったわけであり、TPP協定を批准し、締約国となるのであれば、違反状態を放置することは許されなくなった、ということが言えるでしょう。
 それなのに日本政府は、「日本は、TPP協定の労働章において、各締約国が保障すべきこととされている労働者の権利に関係する国内法令を既に有していることから、追加的な法的措置が必要となるものはない」との見解を示しており、「環太平洋パートナーシップ協定の締結に伴う関係法律の整備に関する法律案」でも労働法の改正案は含まれていません。

立証される可能性がないので、守らなくてよいという日本政府の姿勢

 なぜ日本政府は、TPP協定の「労働章」に対応するための法的措置をとらないのでしょうか。
 2016年3月3日に開催された超党派の「ILO活動推進議員連盟」の勉強会における厚生労働省の説明によると、「労働章」の中に、締約国は、「義務の違反を確定するためには、他の締約国が法律、規則又は慣行を採用せず、又は維持しなかったことが締約国間の貿易又は投資に影響を及ぼす態様であったことを示さなければならない」という記載があるからだ、ということでした。
 つまり簡単に言えば、たとえ日本がILO宣言に違反していても、その違反を確定するためには、他の締約国が、日本の違反を立証するだけでなく、違反によって、貿易や投資に影響が出ているということを立証しなければならないので、(公務員の争議行為の指導や、採用の際の思想の自由の問題で、貿易や投資に影響は出ないし、出たとしても立証はできないから)放っておいてもよいのだ、ということになります。
 しかしながら、違反状態であるということと、違反状態を確定する、ということはまったく別物だろうと思います。TPP協定を遵守するというのであれば、他の締約国が貿易・投資への影響を立証して、違反状態が確定する可能性があろうとなかろうと、違反状態を放置していてはいけないだろうと思います。
 条約を締結するに当たっては、これを誠実に遵守するため、「条約の批准に関連して立法を要する場合には、批准前に立法の措置を講じ、これにつき国会の議決を求める」という閣議決定が、昭和28年になされていたということです。「いうことです」というのは、実は筆者自身でこの閣議決定を確認できていないからですが、もしTPP協定を「誠実に遵守」しようとするならば、「批准前に立法の措置を講じ」なくてはならないと思います。

そのような姿勢で労基法を守らせることができるのか

 繰り返しになりますが、TPP協定の「労働章」違反の問題に関する厚労省の姿勢は、違反状態による貿易・投資への影響を立証できず、違反状態が確定することはないので、放置しておいてよい、というものです。
 しかしながら、厚労省は、労働基準監督署を所管する官庁であり、労働基準監督署は、言うまでもなく、労働基準法などを遵守させるために、司法警察権を行使することのできる組織です。このような組織が、立証できないから放っておいてよい、という姿勢で本当によいのでしょうか。日本中のすべてのブラック企業は、労基法違反を指摘されても、監督署に捕まらなければ、是正する必要はないのだ、厚労省もそう言っている、と主張できることになります。もちろんそんなことを言うブラック企業は、ないだろうと思いますが、少なくとも論理的にはそうなってしまいます。TPP違反状態を放置することは、まさに厚労省の存立基盤をも危うくするものであると筆者は思います。

立法措置を行い、ILO基本8条約すべての批准を

 日本では、ILO基本8条約のうち、第105号(強制労働の廃止に関する条約)、第111号(雇用及び職業についての差別待遇に関する条約)を批准できていません。TPP協定は、ILO基本8条約に規定された4つの中核的労働基準を盛り込んだ98年の「ILO宣言」の採用・維持を求める、という構造になっており、従って、ILO基本8条約の批准そのものを求めているわけではありません。しかしながら、TPP協定を遵守する立法措置が行われれば、ILO8条約が批准できる状態になる、ということになるわけです。両条約は、ILO加盟187カ国中、それぞれ175カ国、172カ国が批准している、きわめて重要な条約であり、未批准が12カ国、15カ国にすぎない中で、その中に日本が入っているというのは、実に恥ずべき状況と言えるでしょう。2019年には、ILOは創設100周年を迎えるため、これを踏まえ、基本8条約の未批准国において、批准作業を進めている国もあると言われています。
 人権に関する歴史問題では、わが国の主張は、国際社会において、必ずしも十分に理解されていないように見受けられます。外国人技能実習制度において、人権侵害の事例が多いことも、国際的に、強制労働ではないかという強い批判を招いていますが、ILO加盟187カ国中の175カ国、172カ国が批准している基本的な条約を批准しないで、わが国の主張が説得力を持つとは、到底考えられません。
 まずはわが国が、世界において、人権確保の先頭に立っていることが絶対に必要です。ILO基本8条約すべてを批准することにより、わが国の人権問題に疑念を抱かれることのないようにしていかなくてはなりません。

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