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(浅井茂利著作集)理念の見られぬ経労委報告

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1635(2019年2月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利

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 中西経団連会長は2018年10月24日の定例記者会見において、「マクロレベルでどれくらいの賃上げ水準が必要かを示す必要があるというのなら、議論したいと思う」と発言されていましたので、経団連の春闘方針である経労委報告(経営労働政策特別委員会報告)でどのように具体化されるのか、注目していましたが、「マクロレベルでどれくらいの賃上げ水準が必要」か、まったく触れていないばかりか、マクロの労働分配率の低下を理由に、賃上げの余地があるとの主張があるが、労働分配率は業種や企業規模、企業ごとに異なることから、マクロの労働分配率は個別企業の賃金決定の基準にはならないとして、マクロ経済の観点から、付加価値の向上を反映した適正な成果配分ができているかどうかを確認するための重要な指標であるマクロの労働分配率の意義すら否定しています。
 結局、「ベースアップ実施等による月例賃金の累積効果」による負担増を理由として、「多様な方法による賃金引上げや総合的な処遇改善」、すなわち基本賃金の引き上げではなく、一時金など賃上げ以外の処遇改善を、という姿勢は従来とまったく変わっていません。勤労者の生涯生活設計を可能にし、生活の安心・安定を確保し、消費拡大を促すという、勤労者生活およびマクロ経済における基本賃金引き上げの持つ重要性を理解せず、ひたすら人件費は変動的であればよいとする姿勢は、経営者団体として理念なきものと言わざるをえません。

ベースアップの累積

 経労委報告では、「ベースアップ実施等による月例賃金の累積効果を含め、自社における近年の賃金引上げの実態や総合的な処遇改善の状況を労使で十分に確認するとともに、これまでの取組みに対する評価を行う必要がある」としています。わかりにくい表現ですが、要はベースアップの累積により、月例賃金の水準が上昇しており、その負担増をよく考えろ、という趣旨であると思います。
 しかしながら、例えばGDPは、前年度の生産額を出発点として、そこからの増加分を成長率としています。毎年の増加分の累積が、長期的な国の発展の姿を示しているわけです。賃金についてもまったく同様であり、ベースアップの累積こそが、働く者の長期的な生活の向上を意味しているわけで、これを企業にとっての負担増としかとらえられない感覚というのは、きわめていびつなものだと思います。
 労働組合が全体として賃上げの取り組みを再開したのは2014年ですので、その前の2013年度と直近の2017年度とを比べてみると、「法人企業統計」で従業員1人あたりの年間人件費は約9万6千円増加していますが、人件費の原資である1人あたりの付加価値は約44万4千円増加しています。べースアップの累積によって企業の負担が重くなっているとは言えず、相対的には、むしろ人件費負担は軽減されていると言えるのではないでしょうか。
 また、厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」における正社員の所定内給与を見てみると、このところ緩やかな上昇を続けてきましたが、実質賃金を算出すると、2017年度には2013年度に比べ大幅に低下しています。実質賃金が低下しているようでは、本格的な消費拡大は困難です。仮に、2014年4月の消費税率の引き上げ分の影響を除いたとしても、どうにか横ばいとなっているにすぎません。
 基本賃金を引き下げることは困難であるため、企業としては、生産性向上の成果を基本賃金ではなく、一時金で配分しようとする意向が強いものと思われますが、実質生産性の向上は、恒常的なものであり、恒常的な収入である基本賃金に実質で反映すべきです。一方、企業ごとの短期的な業績の変動は、一時金のうちの変動部分(年間4カ月を超える部分)に反映するのが基本だと思います。

日本の労働生産性 

 経労委報告では、「国際的な比較では、時間当たり労働生産性(2017年)は、アメリカやドイツ、フランスが70ドル前後であるのに対し、日本はその3分の2程度の水準(47.5ドル)である。長期的にみても、OECD加盟国(35カ国)内の順位は20位前後で推移している」と指摘しています。労働生産性が低いのだから、賃金も低くて当然、ということなのでしょうが、国際的に見て、労働時間あたり人件費は労働生産性よりもさらに低くなっており、このため、労働分配率は主要先進国中で最低となっています。
 また、就業者1人あたりの設備投資額を見ると、日本はアメリカの3分の2に過ぎません。労働装備率の正確な比較は困難なものの、日本はアメリカに比べ、人の役割の大きい事業活動になっていると言えるでしょう。従って、アメリカに比べ労働生産性が低くとも、それが働く者の労働の価値の低さ、競争力の脆弱性を示しているわけではありません。
 ちなみに、OECDの資料により、製造業における労働時間あたりの雇用者報酬(法定内外の福利費などを含む)を比較すると、日本の人件費は、主要先進国の中で最低、ノルウェー、デンマークに比べると半額となっています。現行の為替水準(1ドル=109円程度)で比較して先進国最低水準となっているだけでなく、理論的な為替レートである購買力平価(1ドル=102円程度)によって実質賃金を比較しても同様であり、北欧諸国との差は縮まるものの、スペインに追い越され、チェコ、スロバキアと接近する水準となっています。
 日本が競争しているのは新興国・途上国であって先進国ではない、との指摘もありますが、新興国・途上国と競争しているのは日本だけではありません。北欧の国々も、ドイツ、フランス、アメリカなども、新興国・途上国と熾烈な国際競争を繰り広げています。先進国・新興国・途上国の競争は世界共通です。高い人件費の国には、高い人件費なりの企業経営があり、それによって強い国際競争力を確保しているはずです。
 売上高人件費比率を見ると、日本の製造業は10%台ですが、欧米系のものづくりグローバル企業は売上高の20~30%を人件費に投じています。エリクソン38.0%、シーメンス35.7%、ボンバルディア34.1%、フィリップス32.8%、SKF30.2%などとなっていますが、こうした高い人件費比率で、売上高営業利益率はSKF11.0%、シーメンス10.0%、フィリップス8.5%と高い利益を生み出しています。金属産業では新しい成長分野で、急激な技術進歩が進み、また第4次産業革命による変革が急速に進展していますが、10%台の人件費で欧米系グローバル企業に対抗し、競争力を確保できるのかどうか、きわめて疑問です。日本企業も、賃上げをはじめとする積極的な「人への投資」を行っていくことが重要であり、それによって利益率を高めていかなくてはなりません。

賃上げ、一時金と消費拡大

 経労委報告では、「2014年度から2017年度の4年間について、総務省『家計調査』を用いて、1世帯当たりの世帯主の定期収入および賞与と消費支出の相関係数を算出したところ、消費支出全体では、定期収入に比べて賞与の方が高」いと指摘しています。夏季一時金の時期と年末一時金の時期における定期収入の前年同期比伸び率と消費支出の伸び率の相関係数、賞与の伸び率と消費支出の伸び率の相関係数を比べた指摘です。
 しかしながら、こうした相関係数では、例えば、定期収入の増加分の全額を消費支出に回し、一時金の増加分は全額を貯蓄に回した場合においても、一時金の伸び率と消費支出の伸び率の相関係数のほうが、定期収入の伸び率と消費支出の伸び率の相関係数よりも高くなる場合があります。こうした場合、伸び率での相関係数は、因果関係を示していません。
 本格的な消費拡大のために重要なのは、所得増が消費につながるだけでなく、所得のうちで消費に振り向ける部分(平均消費性向)がどれだけ高まるか、ということです。経団連と同様の期間について、実収入に占める定期収入の割合、実収入に占める一時金の割合と、平均消費性向との相関関係を見てみると、実収入に占める定期収入の割合は、平均消費性向と正の相関関係を持っているのに対し、実収入に占める一時金の割合は、平均消費性向に対し少なくとも正の相関関係を持っているとは判断できません。こうした結果は、経済学の標準的な理論(恒常所得理論やライフサイクル・モデル)に沿ったものと言えます。

中小企業における賃上げ

 経労委報告では中小企業の賃上げについて、「マクロでみた大手企業との賃金格差の是正を主な理由に賃金引上げ要求がなされても、経営状況の厳しい中小企業の経営者の理解・納得が得られるとは考えにくい」ので、「中小企業の労働生産性が向上し、収益が改善・拡大したことによって賃金引上げが行われた結果として、規模間格差が縮小していくことが望ましい」と主張しています。
 しかしながら、労働生産性の向上 → 収益の改善・拡大 → 賃金引き上げを待っていたら、格差是正など実現しません。賃金の規模間格差是正に際し、中小企業における生産性向上が重要であることはいうまでもありませんが、現行の賃金水準が、賃金の社会的相場や働く者の「労働の価値」の観点から見て低い水準と判断される場合には、まずは格差是正に努める必要があります。

内部留保、現預金

 経労委報告では、「『企業は現金・預金を必要以上に貯め込んでいる』との主張もみられる。しかし、2017年度の企業全体の現金・預金(222.0兆円)は売上高の1.72カ月分(前年度1.74カ月分)にあたり、これは事業運営における当面の運転資金として適切な範囲内といえる」と主張しています。
 企業が現金・預金を月間売上高の何カ月分保有しているかを示す現預金月商比率(または手元流動性比率)は、企業の短期的な支払い能力を判断する重要な指標ですが、一般的に、大企業で1カ月分程度、中小企業で1.5カ月分程度を確保できていれば、安全性があると判断されています。財務省「法人企業統計」によれば、2016年度1.74カ月、2017年度1.72カ月となっていますが、2016年度の1.74カ月は統計開始以来最高の水準です。企業規模別で見ても、2017年度に資本金10億円以上の企業が1.35カ月、1千万円以上1億円未満が2.31カ月、1千万円未満が2.11カ月となっており、全体としては十分な水準にあるものと言えます。

マクロ経済の実情を反映した社会的相場形成

 経団連は、「経済・景気・物価の動向や労働市場の需給関係、同業他社の賃金水準などの『外的要素』と、企業業績や労務構成の変化、近年の賃金改定状況などの『内的要素』といった考慮要素を総合的に勘案」することを「賃金決定の大原則」と主張しています。
 しかしながら、「外的要素」にしても「内的要素」にしても、 「総合勘案」というよりは、ひとつずつきちんと検討していくことが必要だと思います。労使交渉では、まずは景気の動向、GDP成長率、その中身である消費、投資、輸出、そして物価、雇用などのマクロ経済の実情を労使で確認し、賃金水準や賃上げの社会的相場を強く意識した上で、ミクロの状況、すなわち産業の動向、企業の業績や体力、労働力の過不足などを踏まえつつ、自社の従業員の労働の価値(知識・技能、負担、責任、ワーキング・コンディション)とあるべき賃金水準、賃上げなどについて、検討を深めることが必要です。

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