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(浅井茂利著作集)「人への投資」の多様性ということ

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1641(2019年8月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利

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 2019年闘争では、賃上げ額が前年に比べてやや低下しましたが、それ以上に注意すべき点は、大手組合を中心に賃上げ獲得組合の割合が低下したということです。一部の経営側は、2014年以降続いている賃上げの累積による負担の重さを強調し、「人への投資」の「多様性」を主張して、賃上げに後ろ向きの姿勢を見せています。
 こうした姿勢はますます強まることが予想され、放置しておくことは大変危険です。マクロ経済や産業・企業の生産性向上を反映した成果配分を実現していく必要があること、「人への投資」の中でも、賃上げが中心であるべきことを、再確認していく必要があります。

2019年闘争の賃上げ獲得状況

 金属労協の全体集計では、賃上げを獲得した1,693組合の賃上げ額の平均は1,450円となり、前年の1,512円を62円下回る結果となりました。組合規模別では、組合員1,000人以上の大手が1,238円(前年差-251円)、300~999人の中堅が1,303円(-68円)、299人以下の中小が1,536円(-35円)となっており、3年連続で中小の賃上げ額が大手を上回るとともに、前年からのマイナス幅も規模の小さいところほど少ない、という状況になりました。
 当初から想定されていたとおり、交渉の本格的段階では経済環境が急速に悪化しましたが、引き続き深刻な人手不足が続いていること、賃金水準を重視した交渉を展開したことにより、中小組合の賃上げ額の落ち込みは小さなものとなりました。
 注意すべき点は、賃上げ額の低下よりも賃上げ獲得組合の割合の低下です。
 2018年には、賃上げ獲得組合の割合は67.0%となり、賃上げの取り組みを再開した2014年以降で最高となりましたが、2019年には一転、63.1%に落ち込みました。 2018年でも3割の組合が獲得できなかったのですか、それがさらに広がったということになります。中小組合ほど賃上げ獲得比率が低いのですが、前年との比較では、大手が10.2ポイントも低下し、2014年以降で最も低い水準(78.5%)となる一方で、中小組合では1.8ポイントの低下(57.6%)に止まりました。
 賃上げ獲得組合の割合の低下には、経済環境の悪化だけでなく
*2014年以降の賃上げの累積による固定的な負担増が、一部の経営側より、従来以上に強く主張された。
*大手企業の一部では、同業他社などに比べ高い賃金水準であることから、もう賃上げは必要ないのでは、との認識も見られた。
*「人への投資」は賃上げだけではない、という「人への投資」の「多様性」の主張が強まった。
ことなどが影響しています。
 JC共闘は底上げ・格差是正に力を尽くしていますが、当然のことながら、大手は賃上げをしなくてよい、ということではありません。賃金水準がトップクラスの超一流企業においても、物価などマクロ経済を反映した賃上げは不可欠ですし、大手で賃上げが行われなくなれば、中小にも波及する危険性があることは否定できません。

賃上げの累積の何が問題なのか

 一部の経営側は、賃上げの累積による固定的な負担増を強く主張していますが、毎年の賃上げは、労使が真剣かつ慎重な交渉を重ね、合意してきた結果であり、その累積の何が問題なのか、さっぱりわかりません。固定的な負担増といっても、賃上げが再開された2014年以降で見ても、生産性の向上、企業業績の改善、企業体力の強化に比べ、人件費負担が相対的に軽くなっているのは明白です。
 ほとんどの企業はその永続的な発展を願っていると思いますが、永続的に発展する企業では、賃金も永続的に引き上げていくことが不可欠です。
 企業の利益は、外部環境の変化により、必ずしも毎年増益が続くというわけにはいきませんが、生産性(人あたり・時間あたりの生産量や付加価値)は、恒常的に向上していくのが基本です。生産性が恒常的に向上しているなら、その成果は一時金ではなく、恒常的な所得である基本賃金に反映されるべきです。
 これまで金属労協では、日本の賃金水準が主要先進国の中で最低となっており、先進国全体の中でも低位グループにあることを指摘してきました。2019年の骨太方針では、「我が国の賃金水準が他の先進国との比較で低い水準に留まる」と指摘しており、政府も日本の低賃金を公式に認めたことになります。
 日本では大手と中小の賃金格差が大きいので、全体としては低賃金でも、大手は遜色ない、という可能性もないわけではありません。しかしながら、世界のものづくり企業(フィリップス、シーメンス、エリクソン、SKFなど)では、連結の売上高人件費比率が30%に達していることからすれば、大手企業についても賃金水準は低いと判断して差し支えないと思います。

「人への投資」の多様性について

 「人への投資」が、賃上げだけではないのは当然です。しかしながら「人への投資」の中には、労働の対価とは言えないものも含まれる可能性があります。春闘での労使交渉は、企業において産み出された付加価値を、従業員に労働の対価としてどのように配分するかという交渉ですから、労働の対価とは言えないものを、労働の対価として従業員の「取り分」とされるべきではないと思います。
 賃金、一時金、そして多くの福利厚生は労働の対価と言えると思いますが、教育訓練費用については、たとえばOJTと組み合わせて行うような、実践的な職業能力向上のための職業訓練は、「人への投資」ではあるかもしれませんが、純粋に事業を展開する上での経費であり、労働の対価にはあたらないと思います。社宅も、転勤者用であれば、労働の対価とは言えないでしょう。
 また、「人への投資」として多様な手段が考えられるとしても、
*生活の安心・安定の観点
*従業員全体のモチベーションの維持・向上の観点
*生産性向上を反映した成果配分を実現する観点
*雇用の移動を阻害しない観点
などからすれば、やはり賃上げが中心であるべきだと思います。

生活の安心・安定の観点

 消費拡大をもたらすのは、消費者の「恒常的な所得の増加」と「生涯所得の見通しの向上」です。所得が安定して増加し、生涯の生活を賄うに足る所得が得られるだろうという安心があってこそ、消費生活を楽しむことができるし、仕事の上でも積極的なチャレンジができるのです。そのためには、定期昇給とベースアップが絶対に必要であり、一時金の増額やその他の福利厚生の拡充では、これを実現することはできません。
 家賃補助や社宅制度、昼食補助などの拡充も実質的に賃上げと同じでは、と考える人がいるかもしれませんが、こうしたものは、企業業績が悪化した場合にカットされやすいので、「恒常的な所得」や「生涯所得の見通し」に含めるわけにはいきません。そもそも経営側が賃上げ以外の「人への投資」を主張するのも、業績悪化の際にカットしやすいから、ということなのではないでしょうか。

従業員全体のモチベーションの観点

 福利厚生をいくら拡充しても、よほどインパクトのあるものでない限り、従業員全体のモチベーションの向上や、継続的なモチベーションの維持にはつながりにくいと思います。その点で賃上げは、賃上げをした時点で従業員全体のモチベーションの向上につながりますし、賃上げの累積で他社よりも高い賃金水準を確保できれば、継続的にモチベーションを維持し続けることができます。
 企業に対する従業員の貢献の度合いは一律ではありませんが、従業員全体のモチベーションの向上という観点からすれば、後述するように、生産性向上、とりわけマクロ経済を反映した成果配分は、従業員全員に対して行われるのが基本だと思います。成績優秀な一部の従業員だけに賃上げが行われるような企業では、賃金が上がった者のモチベーションは高まるかもしれませんが、職場全体のモチベーション、ひいては職場全体のパフォーマンスが低いものにならざるをえません。
 40代後半ぐらいになると限られた者以外は定期昇給が行われない企業、マイナス定昇が行われる企業、ベースアップがあっても、一定の賃金水準になると対象外になってしまう企業などもありますが、そうした制度で職場全体のモチベーションを高めることは困難と言わざるを得ません。

生産性向上を反映した成果配分の観点

 わが国では、長期にわたって労働分配率が低下傾向をたどっています。働く者への配分が不十分であることを示しているわけで、生産性向上に見合った成果配分の獲得が不可欠となっています。
 福利厚生を拡充したとしても、福利厚生を含めた総額人件費で労使交渉を行っているのでない限り、従業員に対しトータルとしてどれだけの配分が行われたのか、生産性向上に見合った成果配分が獲得できているのかのチェックは困難です。チェックが困難であれば、当然、適正な配分は行われにくくなります。
 たとえば実質生産性が1%上昇し、物価が1%上昇した場合には、勤労者への配分を2%引き上げないと労働分配率は低下してしまいます。賃上げであれば、ベースアップとして2%引き上げれば、(一時金の月数などで大きな変動がなければ)総額人件費もおおむね2%増加するだろうと推測しても、それほど大きくずれることにはならないと思います。

雇用の移動の観点

 いわゆる雇用の「流動化」については、その是非を単純に判断することはできません。解雇を容易にする、非正規雇用を拡大するというのであれば、労働組合としては反対ですし、逆に働く者のキャリア形成を促進する、経営側に対し従業員の交渉力を高めるというような方策であれば、積極的に推進すべきです。いずれにしても、働く者が自分の意思で行う転職を阻害しない、ということが重要です。
 中途採用者の賃金を決定する際、賃金規程はあるけれども、前職の賃金水準も考慮する場合があります。少なくとも前職の賃金水準を保証しないと、人材が得られないということがあるからです。
 その場合、賃金は低いが会社の福利厚生が充実している人と、賃金は高いが福利厚生はあまりない企業の人とを比べると、前者のほうが転職には不利と考えざるを得ません。
 賃金が低い企業は人材が流出しやすいので、福利厚生の充実でそれを押し止めるというやり方があると思いますが、それは従業員に犠牲を強いる可能性があることを意識する必要があります。
 労働時間短縮、65歳以降の就労確保、育児や介護、病気治療の支援、労働CSRなど、人事・労務分野で企業として積極的な行動をとっていくべき分野が山積しており、これらが企業にとって負担増になる、という懸念があるのだろうと思います。しかしながら、これらはいずれも労働力供給を拡大し、生産性を向上させるために不可欠な施策です。こうした対応を進めつつ、マクロ経済や産業・企業の生産性向上の成果は賃金に反映させるというのが、市場経済原理の下でのあるべき成果配分だと思います。

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