見出し画像

2024年春闘想定問答集(1)支払い能力

2024年1月17日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

<情報のご利用に際してのご注意>
 本稿の内容および執筆者の肩書は、原稿執筆当時のものです。
 当会(一般社団法人成果配分調査会)は、提供する情報の内容に関し万全を期しておりますが、その正確性、完全性を保証するものではありません。この情報を利用したことにより利用者が被ったいかなる損害についても、当会および執筆者は一切責任を負いかねます。
 なお、本稿の掲載内容を引用する際は、一般社団法人成果配分調査会によるものであることを明記してください。
連絡先:info@seikahaibun.org


 この「2024年春闘想定問答集」は、個別企業における労使交渉の主に前段において、一般論、マクロ論として取り上げられることが想定される論点について、労使としてとるべき考え方を整理したものです。内容的には、「2024年春闘の論点」シリーズの他のレポートとかなり重複していますが、状況に即して新しい情報を追加しており、また、一問一答形式になっていますので、都度、ご参照いただければと存じます。
 なお、「資料購読登録・賛助」のページに、図表付きのものを掲載しております。

わが社における賃上げ額(率)は、わが社の支払い能力に応じて決定するものではないか?

 日本で働く勤労者には、
①日本経済の成長に相応しい生活水準の向上を享受する権利
②日本の経済力に相応しい生活を送る権利

があるはずです。
 政労使で合意している日本生産性本部の「生産性運動三原則」は、
①雇用の維持拡大
②労使の協力と協議
③成果の公正な分配
からなっていますが、このうち「成果の公正な分配」については、
生産性向上の諸成果は、経営者、労働者および消費者に、国民経済の実情に応じて公正に分配されるものとする
とされています。個別企業の支払い能力ではなく、国民経済すなわちマクロ経済の実情に応じた成果配分が求められているわけです。

 労使において意識されているかどうかは別として、個別企業におけるベースアップは、現実には、
①マクロ経済の実情に応じて形成されるベースアップの世間相場の幅の中で、
②産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して、
決定されています。これが社会的相場形成です。
 たとえば、全上場企業における年収ワースト企業と、最大手企業の平均年収を比較すると、製造業など主な産業では、おおむね1対3という傾向になっています。一時金を除いて月例賃金で比較すれば、その差はもっと小さくなるはずです。
 年収で1対3という格差が大きいことは事実ですが、それでも、もしそれぞれの企業が自社の支払い能力に応じてベースアップを行っていたのなら、これ以上の、とてつもなく大きな賃金格差となることは避けられません。
 かつて、労使の賃上げ交渉に対し、マスコミが「百円玉の春闘」と揶揄していた時代がありました。百円玉何個かのベースアップしか取れないという意味ではなく、個別企業ごとの労使交渉によって変動する幅はせいぜい百円玉の何個分かだけ、という意味です。しかしながら、マクロ経済の実情に応じた成果配分を行おうとすれば、当然、個別企業ではそのような交渉になるわけで、まさに「百円玉の春闘」こそ、正しい賃金交渉だということになります。企業の規模、業績、体力に圧倒的な違いがあっても、賃金の格差が一定程度に止まっているのは、まさに賃金の社会的相場形成が行われ、世間相場が存在しているためです。

 市場経済原理の下では、価格は「市場で決まっている価格」に収斂され、あまりかけ離れた値付けをすることはできません。これが「一物一価の法則」であり、労働市場における労働力の価格である賃金も例外ではありません。市場経済原理の下では、本来、個々の買い手の「支払い能力」は、価格の決定要素にはならないので、ベースアップの決定に際し、「自社の支払い能力」を強調するのは、市場経済原理に反するものと言わざるを得ません。
 ちなみに、わが国では2013年までベアゼロが一般的となっていましたが、これは、個別企業において支払い能力がなかったというよりも、ゼロ成長やデフレ経済を背景に、社会的に形成された世間相場がベアゼロであった、ということだと思います。

経団連は「賃金決定の大原則」を掲げており、自社の支払い能力を重視しているのではないか?

 経団連では、労使交渉・協議にあたり、「賃金決定の大原則」に則った検討を求めています。「大原則」といっても、「生産性運動三原則」のように政労使で合意したものではなく、経団連が独自に主張しているものです。
 「賃金決定の大原則」は、
①社内外の様々な考慮要素(経済・景気・物価の動向、自社の業績や労務構成の変化など)を総合的に勘案し、
②適切な総額人件費(企業が社員を雇用するために負担する費用の総和)管理の下で、
③自社の支払能力を踏まえ、
④労使協議を経た上で、
各企業が自社の賃金を決定する大原則のこと
とされています。
 どのくらいベースアップを行ったら、総額人件費がどうなるのかを考慮しない企業はないと思いますので、②と④は当然のことです。
 しかしながら「賃金決定の大原則」では、「社会的相場形成」の下での賃金決定という意識が、やや薄いように思われます。①において、「経済・景気・物価の動向」が考慮要素としてまず最初に掲げられているのは、大変重要なことですが、「自社の業績や労務構成の変化」と③の「自社の支払能力」は同じことを意味しているので、「自社の支払能力」が二重に強調されてしまっていることになります。

 ただし、経団連の春闘方針である『2024年版経営労働政策特別委員会報告(経労委報告)』では、
物価上昇が続く中、「社会性の視座」に立って賃金引上げのモメンタムを維持・強化し、「構造的な賃金引上げ」の実現に貢献していくことが、経団連・企業の社会的責務である(P.109)
との認識に立って、
*各企業においては、「賃金決定の大原則」に則った検討の際、特に物価動向を重視し、ベースアップを念頭に置きながら、自社に適した方法でできる限りの賃金引上げの検討・実施を強くお願いしたい(序文)
適度な物価上昇を前提に、為替の水準(円安状態)、労働力需給の状況(需給逼迫)、実質GDP成長率の推移(安定上昇)なども勘案しながら、中期的に物価上昇に負けない賃金引上げを継続することが考えられる(P.110)
としていますので、事実上、軌道修正を行っているようです。

賃金の社会的相場形成、世間相場というが、結局、大企業準拠になるので、中小企業がついていくことは不可能ではないか?

 大企業のベースアップ回答やその推測記事がマスコミで報道されることにより、ベースアップの「相場観」が形成されることは否定できません。しかしながら、大企業といえども、いや、むしろ社会的に影響力の大きい大企業だからこそ、自社の支払い能力に応じて、自社の都合で、ベースアップを決定することは難しいのです。
 大企業、とくに主要産業のトップグループに位置するような企業のベースアップは、企業自身が意識しているかどうかは別にして、業界全体、産業界全体、国民全体の反応や意向を無視して決定できません
 すなわち、
①マクロ経済の実情に応じた適切なベースアップの世間相場のあり方を探りながら、
②産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して、
決定されているわけです

 業界全体、産業界全体、国民全体の反応や意向に縛られることがいやなので、ベースアップを公表しない企業もありますが、そのことこそ、まさに大企業が自社の支払い能力や自社の都合でベースアップを決定することが難しい証拠です。また、ベースアップを公表しない企業であっても、世間相場を無視したベースアップを行うことはできません。
 繰り返しになりますが、ベースアップの世間相場は、業界全体、産業界全体、国民全体の反応や意向を踏まえつつ、マクロ経済の実情に応じて形成されているのですから、大企業だけでなく、中小企業も、世間相場を踏まえたベースアップを実施する社会的責任があります。世間相場が、大企業の自社の支払い能力や自社の都合で決定されているのであれば、中小企業がついていくことは困難ですが、そうではない以上、世間相場についていけないという言い訳は成り立ちません。

「マクロ経済の実情に応じた成果配分」というのは、具体的にはどのようなことになるのか?

 「マクロ経済の実情に応じた成果配分」を具体化する考え方が、宮田義二鉄鋼労連委員長(金属労協議長)が1974年に提唱した「経済整合性論」です。
①前年要求や前年獲得実績を出発点にした賃上げ要求から、
②実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げへ、

というもので、高度成長期には、労働組合は前年の賃上げ要求や前年獲得実績をもとに、それを上回る要求を行っていましたが、第1次石油危機を経て、そうした要求からの転換を図ったものです。
 提唱後、すでに半世紀を経過しようとしていますが、2014年に賃上げが再開されて以降、1%ないし2%の賃上げ要求を続けてきたのが、昨今の顕著な物価上昇によって前例踏襲型のベースアップが通用しない状況となっている点については、現在も同じであり、経済整合性論の今日的な意義はきわめて大きいと言えます。
 経団連の『経労委報告』でも、2023年版、2024年版で「経済整合性論」が紹介されており、とくに2023年版では、1981年の春季労使交渉について、
*マクロ経済動向と賃金引上げとの整合性を重視した「経済整合性論」による賃金決定を図るべく、労使双方が意識的に対応した
として、これを高く評価しています。また2024年版では、企業会計ベースではありますが、実質賃金の伸び率と実質労働生産性の伸び率とを比較して分析を行っており(P.131)、経団連が「経済整合性論」の
*実質生産性の向上に見合った実質賃金の引き上げ
という考え方を肯定
していることは明らかです。

 経済整合性論をさらに数式化したのが、1984年に経済・社会政策研究会が発表した「逆生産性基準原理」です。経済・社会政策研究会は経済企画庁経済研究所長を務めた佐々木孝男氏の設立した研究機関で、佐々木氏は連合のシンクタンクである連合総研の発足に伴い、初代所長に就任しました。
 逆生産性基準原理は、
ベースアップ率=就業者1人あたり実質GDP成長率+消費者物価上昇率
というもので、短時間勤務で働く人が増えているので、労働時間あたり賃金で考えると、
ベースアップ率=就業者の労働時間あたり実質GDP成長率+消費者物価上昇率
ということになります。『平成27年版労働経済白書』では、逆生産性基準原理について、「標準的な経済理論が想定する世界と等しいもの」と評価しており、世界最大の単組であるIGメタル(ドイツ金属労組)も同様の考え方で賃上げ要求を行っています。
 逆生産性基準原理に従ってベースアップを行うと、
労働分配率=雇用者の労働時間あたり名目人件費÷就業者の労働時間あたり名目GDP
の分子と分母が、ほぼ同じような率で変化することになるので、労働分配率が安定する、という点でも、逆生産性基準原理は公正な配分のあり方を示している、と言えます。
 ちなみに、「就業者の労働時間あたり実質GDP成長率」は、2023年度の経済予測および4~10月実績のデータから算出すると1.3%、2023年7~9月期時点の潜在成長率から算出すると0.8%となります。2023年度の消費者物価上昇率は3%程度が想定されていますので、おおむね4%程度が、2024年春闘におけるマクロ経済の実情に応じた適切なベースアップということになります。

賃金の社会的相場形成については理解したが、わが社の業績は世間一般に比べて厳しい状況にあり、世間相場を踏まえたベースアップは不可能ではないか?

 前述のように、ベースアップは、
マクロ経済の実情に応じて形成されるベースアップの世間相場の幅の中で、
②産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して、
決定されています。もし「わが社」の業績が世間一般に比べて厳しい場合、②の段階において、その厳しさをどの程度ベースアップに反映させるか、ということが問題となります。
 以下、具体的な数値例でイメージを示してみたいと思いますが、あくまでわかりやすいイメージにすぎず、「こうあるべきだ」と主張するものではありません。また、とりあえず利益を主な判断基準としていますが、実際のベースアップ決定においては、当然のことながら、利益は判断基準のひとつにすぎません。 
 まず、
*ベースアップの世間相場には、ある程度の幅がある
*ひとくちに「わが社」の業績が世間一般に比べて厳しい、といっても、厳しさには段階があり、段階に応じて対応する必要がある
ということが前提となります。
 仮にベースアップの世間相場が、12,000円を中心に10,000円から14,000円程度であったとします。
①増収増益の場合
 「わが社」の業績が増収増益の場合には、当然、世間相場の中心(12,000円)、もしくはその上方(12,000~14,000円)が適切なベースアップということになります。
 ちなみに、2023年12月調査の日銀「全国企業短期経済観測調査(短観)」によれば、2023年度決算は全体として増収増益が見込まれていますが、増益率は2022年度決算に比べ鈍化する状況となっています。増益率の鈍化は一般的な傾向であり、マイナス材料にはなりません。
②顕著な減益である場合
 
小幅な減益の場合には、世間相場の中心(12,000円)をはずれる必要はありませんが、顕著な減益で、ぎりぎり黒字を保っているというような場合には、世間相場の下方(10,000~12,000円)でもやむをえないかもしれません。ただし、黒字は計上されているわけですから、世間相場の幅(10,000~14,000円)をはずれる必要はありません。また、減益ではあるけれど高利益水準を維持しているという場合には、世間相場の中心を超えるベースアップが行われてしかるべきです。
③突発的な事情による赤字の場合
 
赤字ではあるけれど、海外の戦争とか大口取引先の倒産とか、突発的な事情によるもので、いずれ黒字転換が見込まれる場合には、世間相場を踏まえたベースアップが行われるべきです。少なくとも世間相場の下限である10,000円程度のベースアップが行われる必要があります。
④構造的に赤字が続いている場合
 
構造的な要因により赤字が続いている場合には、世間相場を踏まえたベースアップを行うことは困難ということになります。せめて物価上昇をカバーするベースアップを行いたいところですが、ベースアップが物価上昇をカバーできない「実質賃下げ」を甘受しなくてはならないかもしれません。
⑤構造的な赤字が続き、会社の存続が具体的に危ぶまれている場合
 会社の存続が具体的に危ぶまれているような状況では、ベースアップをあきらめる、あるいはベースダウンということも視野に入れざるをえないかもしれません。ただし、そうした対応が必ずしも企業の存続に寄与するというわけではありません。従業員のエンゲージメントを低下させて、逆に、企業にとどめを刺す可能性もあることに留意する必要があります。
⑥人員整理(整理解雇、希望退職の募集)が行われる場合
 かつては、人員整理はまさに会社の存続が具体的に危ぶまれる状況の下で行われていたので、ベースアップをあきらめざるをえなかったわけですが、昨今では、とくに希望退職については、企業の体質強化、利益率の向上を目的として行われる場合があり、そうした場合には、人員整理がベースアップの抑制要因にはならないことにとくに注意する必要があります。

ベースアップの前に、まず生産性の向上を図る必要があるのではないか?

 ベースアップを実施するためには、まず付加価値生産性の向上が必要である、というのは、一般論としては、まったくそのとおりです。
 しかしながら、
①わが国の人件費水準は、他の主要先進国の6割程度に止まっている
②欧州の主要国では、GDPベースの労働分配率も、企業会計における売上高人件費比率(製造業)も、わが国よりはるかに高い水準となっている
③わが国は、他の主要先進国に比べ付加価値生産性が低い状況にある中で、それ以上に人件費が低いため、労働分配率が最低となっている
という状況にありますので、まずは適切なベースアップを行うことが先決です。「成長と分配」において、適切な分配が行われていないことが「成長」を阻害しているのであれば、まずは分配の強化によって、「成長と分配の好循環」の実現を図らなくてはなりません。

 2022年のギャラップ社の調査によれば、エンゲージしている従業員の比率は、グローバル平均で23%、OECD加盟国平均で20%なのに対し、日本は5%に過ぎません。エンゲージメント(従業員の仕事や職場への関与と熱意・・・職場のチームの仲間との強い一体感の下で、熱意をもって仕事をしていること)の極端な低さが、日本の人件費水準や労働分配率が国際的に見て極端に低いことと無関係であるとは考えにくく、日本企業はまず人件費を引き上げてエンゲージメントを高め、低賃金・低生産性の企業活動から、高賃金・高生産性の企業活動に転換していく必要があります。

厳しい解雇規制、右肩上がりの賃金カーブの下で賃上げを行うことは困難であり、ベースアップの前提として、ジョブ型雇用システムへの転換を図る必要があるのではないか?

 わが国の解雇規制は厳しすぎる、という主張が一部にあります。しかしながら、整理解雇については、日本は米国よりは厳しいけれど欧州並み、というのが一般的な見方です。米国などでは定年制が禁止されており、日本よりも厳しい側面もあります。「解雇の金銭解決」がよく話題になりますが、わが国で「解雇の金銭解決」が禁止されているわけではありません。

 さらに米国では、職務給を中心とする制度が、従業員の柔軟な働き方や能力開発、環境変化に対する組織の適応力を制約しており、環境変化に対応するための職務改廃コストも大きいことから、「脱職務主義」、「職能給化」が進んでいるとのことです。(石田光男・樋口純平『人事制度の日米比較』2009年、ミネルヴァ書房)

 そもそも「厳しい解雇規制、右肩上がりの賃金カーブの下で賃上げを行うことは困難」という理屈は、
*ベースアップをするとしても、人件費総額は増やしたくない
*ベースアップをするとしても、固定費増になるので、解雇を容易にすることによって人件費を変動費化したい
という発想に基づくものであり、
*「構造的な賃金引上げ」と「分厚い中間層」形成の実現に貢献し、「成長と分配の好循環」の歯車を加速させることが極めて重要(『2024年版経労委報告』P.1)
という現在の局面とは、まったく相容れません。
ちなみに日本では、ジョブ型を採用している企業でも、整理解雇の四要件は免除されません。

 付加価値生産性と人件費が、前項の①~③に示した状況であることに加え、
④1990年代後半以降、成果主義賃金制度の導入により、中高年層の賃金水準の低下が著しく、若年層もこうした状況の中で、将来不安、子育て不安を抱き、消費抑制を強めている
⑤わが国の中高年層の賃金水準が、国際的に比較して、若年層に比べとくに高いという傾向は見られない
⑥わが国では人件費に占める一時金や所定外賃金の割合が大きいために、人件費がきわめて変動的となっている
ことからしても、こうした理屈は成り立ちません。

中小企業では労働分配率が高く、人件費負担が重いので、賃上げは困難ではないか?

 企業会計ベースの労働分配率を見ると、中小企業は大企業よりも高い傾向にあることは否定できません。しかしながら中小企業では、労働装備率(従業員1人あたりの設備の保有状況。資本装備率ともいう)が低い状況にありますから、労働分配率が高いのは当たり前です。中小企業は大企業よりも「従業員の力」に、より依存した経営となっており、それに相応しい配分を確保する必要があります。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?