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戯曲「これからの女性労働問題」(連載第2回)

 日本労働ペンクラブ代表代理・君嶋護男氏(元厚生労働省愛知労働局長、元独立行政法人労働政策研究・研修機構労働大学校長)より、戯曲「これからの女性労働問題」のご寄稿をいただきましたので、掲載させていただきます。


作者紹介 君嶋護男
1973年4月労働省(当時)入省。1981年7月秋田県商工労働部職業安定課長、1983年7月内閣法制局参事官補、1986年4月労働省婦人局(10月から中央機会均等指導官)、1993年労働省婦人局庶務課長、1995年6月愛媛労働基準局長、2000年7月中央労働員会事務局次長、2001年7月愛知労働局長、2003年8月厚生労働省退官、同年10月労働大学校長、2005年8月女性労働協会専務理事兼「女性と仕事の未来館」副館長、2007年9月鉱業労働災害防止協会専務理事、等

登場人物
未来・・・本名:館野未来。弁護士。X大学夏季集中講義「女性労働 昨日・今日・明日」講師、座談会メンバー。14年間勤務した会社の幹部のセクハラ事件裁判で、会社に不利な真実の証言をしたことから退職に追いやられた。その後、X大学事務局に非常勤職員として2年間勤務したのち、弁護士。X大学からの要請で、「女性労働 昨日・今日・明日」をテーマに夏季集中講義を引き受けた。
川田昌彦・・・X大学社会学担当准教授、座談会メンバー。均等法、特に制定当初の均等法に批判的で、その立場から積極的に発言や執筆活動などをしている
大鳥伶花・・・X大学法学部3年生、座談会メンバー
高野健人・・・X大学大学院生(工学部修士課程)、座談会メンバー
東井富美子・・・X大学事務局副事務局長、座談会司会者
南田明子・・・X大学経済学部4年生、座談会聴衆
男子学生・・・座談会聴衆

(X大学「女性労働 昨日・今日・明日」をテーマとした夏季集中講義の最終日。裁判例を中心に講義を行ってきたが、「明日」については、講義を踏まえ、これからの女性労働のあり方を展望するという趣旨で座談会を行い、それを学生が聴衆として参加する形をとることになった)

連載第1回より続く

(ポジティブアクション)
大鳥  ちょうどポジティブアクションの話が出ましたが、賃金差別の講義の際、私が従来の雇用管理による男女差を埋める措置が必要ではないかとお聞きした際、館野先生は、それについては最後にお話をするとおっしゃっていましたので、是非ここでご見解をお聞かせいただきたいと思います。

高野  ポジティブアクションというのは逆差別じゃないですか?だって、同じ能力の男女がいた場合、女性の方を優遇するわけですから。それも能力が同じならまだしも、多少女性の方が能力が低くても女性を優遇することがあるということですので、これでは男が不満を持つのは当然で、やる気をなくしてしまいます。女性差別がいけないことは当然のことですが、それは男女を平等、均等に扱えば足りることであって、女性を優遇するようなポジティブアクションには納得できません。

未来  (優しく微笑むと)ご質問をいただいてから何日も経ってしまいましたが、ここでお答えしたいと思います。ポジティブアクションについては、現行法上義務付けられていませんし、努力義務すら課せられていません。では、全く何の規定もないのかといえば、均等法8条で、男女均等取扱いの例外として事業主がポジティブアクションを行うことができることを定め、14条では、ポジティブアクションを行う事業主に対し、国は相談その他の援助を行うことができると、非常に緩い規定を置いています。ポジティブアクションは今高野さんが言われたように、しばしば女性優遇という意味で「逆差別」との批判を受けますが、そういう面を完全には否定できないとしても、その多くは誤解に基づくものだと思います。
 今、この会場には男性も女性もいますが、特に女性の方にお聞きしたいのですが、これまで学校生活の中で、男女差別をどれだけ感じてきたでしょうか。私が学生だったのはもう四半世紀も前になりますが、学校生活の中で、少なくとも制度的な面では男女差別を感じたことはありませんでした。「制度的な面では」と特に注釈を付けたのは、私がとんでもないお転婆娘であったことから、様々な場面で、「女の子はそんなことをするものではない」、「女のくせに」、「女らしくしなさい」などと行動を制約しようとする動きが、家庭でも学校でもしばしば見られたからです。もっとも、私はそうした圧力にひるむような玉ではなく、むしろこれらを栄養にして、一層お転婆、跳ねっ返り生活を謳歌してきたような気がします。ただ、そうしていられたのは大学までで、会社に入った途端、男女差別の現実を突きつけられました。私は、一応総合職として入社したのですが、同じ総合職でも、その扱いにおいて男女差は歴然としていました。最初営業に配属されたのですが、男性社員は新人から営業の一線に放り込まれるのに対し、女性は後方支援、ハッキリ言えば、男性社員のアシスタントとして位置付けられ、男性社員の癒しの機能を期待されていたように思います。ただ私は子供の頃から既成の枠をはみ出すようにできており、それまでの女性社員とはかなり外れた存在であったようで、上司に談判して男性と同様に営業の第一線で働けるようにしてもらいました。まあ、会社としても私に癒しを求めても無いモノねだりと判断したのかも知れません。そのことが当初は相当な軋轢を生み、なまじ営業成績が良かったこともあって、先輩方から、かなりシビアーな苛め、嫌がらせ、聞くに堪えないような誹謗中傷や風評の流布を受けたりもしました。
 しかし、その後非常に優れた上司と出会い、好き放題にやらせていただき、商品開発を担当するようになった20代半ばからの数年間は、幼い子供を抱えてハードでしたが、大変痛快な会社生活を送り、自分で言うのも何ですが、相当な実績を挙げることができました。
 ただ、当時強く感じたのは、会社にかなりの数の女性社員がいながら、殆どが補助的・定型的な仕事に特化され、活気が感じられないことでした。私が入社した会社は、当時は女性に結構人気がありましたから、先輩の女性達はそれなりに厳しい競争を勝ち抜いて来たはずなのに、ハッキリ言ってそうした輝きを感じることがありませんでした。その理由は何か。それは会社側、女性側双方に原因があるのでしょうが、基本的には会社の育て方の問題であったろうと思います。普通の人であれば、会社から特段期待されず、その反面厳しい鍛え方をされなければ、「そこそこ」の生き方に走るのはむしろ当然でしょう。誰でも入社した場合、腰掛けのつもりでない限り、5年後、10年後、20年後の姿を思い浮かべることと思います。それは何を見れば良いかといえば、5年、10年、20年の先輩を見ることです。こうした先輩達が輝いていれば「よし自分も」と張り切って仕事に励むでしょうし、くすんでいれば「自分の将来は明るくない」と判断して、転職するか、社内に残って「そこそこの会社生活」を送るかになってしまいがちです。私がいた会社でも、私の入社前にはかなり優秀な女性もいたようですが、会社の女性社員の扱いに嫌気がさして、優秀な女性ほど退職していったようです。多くの女性が、潜在的な能力を持ちながら、なかなかその能力を顕在化できない一つの理由としては、目標とするようなロールモデルが少ないということが挙げられると思います。
 今でも企業幹部などの中には、本音では「女なんて‥‥」と思っている人は相当いると思いますが、昔のように、それを堂々と口走る人はほとんどいません。少なくとも「男女差別はいけない」という建前は浸透しているものと思います。企業幹部らの意識をこのように変えるについて均等法の果たした役割が非常に大きかったことは、先ほど述べた通りです。
 さて、前置きが長くなりましたが、ここから本題に入ります。ある会社で、それまで、男性は将来の幹部候補として、長期にわたる研修を受け、転勤なども含めて様々な仕事を経験させられて厳しく鍛えられてきた一方、女性は、特定の部署に長く置かれ、「余人をもって替え難い」などとおだてられながら、幅広い経験をすることを妨げられてきたことが多かったように思います。そこで、それではいけないと考えて、ある時から「我が社はこれから男女別の人事管理を止めて、性別に関わりなく実力本位で昇格、昇給させる」と宣言し、実践したとします。では、これによって、職場の男女差別は解消し、男女均等取扱いが実現したといえるでしょうか。私は、このことは男女差別撤廃に向けた基本的な取組みではあるものの、これだけでは不十分と考えています。それは何故でしょうか。
 仮に、男女の同期生がいて、例えば共に15年間勤務を続けていたとします。その間、男性は幹部候補生として、様々な仕事を経験し、キャリアを積んできた一方、女性は特定の部署に塩漬けにされ、そこの仕事には詳しくても、経営全体を見るような訓練を受けていないとした場合、元々の能力にはそれ程の差がないとすれば、将来の幹部としての能力には相当な差が生じていると考えられます。そういう中で「さあ今日からは男女平等、実力主義だ」となれば、男性の方が有利になることは目に見えています。「男女平等?結構なことだけど、そんなことは入社の時に言ってもらいたかったわ」、「私の青春を返せ」というのが多くの女性の正直な気持ちだと思います。でも、過ぎ去った時間はもはや取り戻すことはできません。その失われた時間を少しでも取り戻そうというのがポジティブアクションだと私は理解しています。例えば、これまで課長に昇進するには係長を5年以上経験することが要件となっていたような場合、男女差別によって係長になれないでいた女性については、条件を整えてできるだけ早く係長に昇進させた上で、その間の遅れを取り戻すための研修を行うなどして、例えば3年で課長に昇進させることなどが考えられます。言うならば、昇格・昇給等で男女差別を行ってきた企業は、女性に対して借金を背負っていると考えれば良いのではないでしょうか。借金であれば、当然これを返済しなければなりません。ただ、この借金が普通の借金と違うところは、金額がわからないこと、返済の期限が示されていないこと、返済しなくても具体的な制裁が課されることがないことです。ですから、返済など必要ないと考えるのか、それでも返済に努めるのか、そこは法律の問題ではなく、企業の器量、品格が問われる問題だと思います。「ポジティブアクション=逆差別」論者の多くは、この借金の返済場面だけを見て、「女性には金が渡されるのに、男性には渡されない」と言っているようなものです。そもそも男性には借金してないのですから、お金が渡らないのは当然でしょう。
 私も、企業社会を十数年経験しており、少なくとも当時私が勤務した会社に関しては大数観察をすれば、残念ながら男女にかなりの能力差があったことを認めざるを得なかったと思っています。ただ、その原因が男女差別的な雇用管理にあったことは間違いないとしても、それだけなのか、企業経営という面において本質的に男女の能力差があるのか、正直言って良くわからない面があります。「男女に能力差はない、全て個人差だ」と言う人もいますが、私は直ちには賛成する気になれません。大数観察をすれば、男性の方が優れた分野、女性の方が優れた分野があることは経験的に感じるところです。例えば、オリンピックの競技は男女別に行われていますが、これは男女に能力差があることが前提になっているからだと思います。仮にオリンピックの競技を男女共用で行ったとすれば、美を競う競技は別として、ほとんどの種目で女性が排除されることになるでしょう。「運動能力は別」ということかも知れませんが、他の面でも立証されていないけれども男女の能力差がある可能性について、もちろん、女性が優位ということも含めて、より謙虚に考察することが必要かと思います。したがって、男女半々、あるいはそれに近いところへ持っていくような人為的な措置は採らない方が良いと思っています。ただ、是非申し上げたいことは、かつて多くの企業等において男女差別的な雇用管理が行われ、そのことが多くの女性のやる気を失わせたり、甘えさせたりしてその能力の発揮を妨げてきたことは間違いありませんから、昇格・昇給等の判断に当たっては、あくまでも個々人の能力、仕事の業績に着目して雇用管理を行うことが必要です。初めから「女性だから」という理由で男性より低く見るような雇用管理を改める、これまでの差別的取扱いによって生じた男女の格差については、ポジティブアクションを活用するなどして、その是正を図ることが重要であろうと思います。
 企業が、男女均等取扱いを宣言し、それを実践したとしても、過去の男女差別的取扱いによって生じた格差を放置した場合、多くの女性達は「今更なんだ」という気持ちになるでしょうし、先輩女性がそうした気持ちで仕事に取り組む姿を目の当たりにした若い女性達はどう思うでしょうか。「今はいいけど、いずれは差別されるのではないか」と疑心暗鬼にならないとも限りません。これは女性社員にとってだけでなく、企業にとっても不幸なことだと思います。女性社員に対しこれまでの借金を返済することは、従来からの女性だけでなく、これから入社する女性達にも希望を与え、企業を活性化させるものと思います。

大鳥  ありがとうございました。何となくもやもやしていたものが、きれいに晴れたような気がします。

高野  (食い下がって)確かに不当に差別されていた女性が遅れを取り戻すために、一定の優遇措置を講じる必要性は理解できましたが、中にはそれまで差別を受けてもいないのに、更に優遇措置を受けている女性もいるのではないでしょうか。大臣だとか、国や地方公共団体などの要職に抜擢された女性の履歴などを見ると、それまで差別されていたのかな、使用者はその女性に借金をしていたのかな、など疑問に感じることもあるのですが。

未来  確かに、個々の場面を見ると、借金もないのに返済をしているようなことも見られないではないでしょうが、それを余り追及すると、結局ポジティブアクション自体の否定に繋がりかねませんし、たとえ一部に借金なき返済があったとしても、それは過渡的なものかと思いますから、余り神経を尖らせない方が良いと思います。

川田  館野先生は、男性向きの分野、女性向きの分野があるというご意見のようですが、そうなるとクウォーター制には反対ということでしょうか。北欧などでは、大臣についてもクウォーター制を取り入れることによって目覚ましい成果を上げていますので、我が国の余りにお寒い現状を打破するためには、政府や企業の枢要なポストについてクウォーター制を是非取り入れるべきだと考えますが。

未来  男性向きの分野、女性向きの分野があるというと、伝統的な性による役割分担を肯定したかのように見えてしまうので、誤解を招くと思います。私が言いたかったことは、大数観察をすれば、男性が優位な分野、女性が優位な分野があるであろうから、あらかじめ人為的に男女の数を割り当てることは避けた方が良いということです。その意味で、クウォーター制には基本的には反対です。基本的にと言ったのは、ある分野で女性が全くいなかったり、極端に女性の比率が低かったりして、経験的に見て、その分野で女性がそこまで男性より劣っていることはないということが一見明白と思われるような場合、推進力を付ける意味で一定の割当をすることは考えられますし、それまで否定しているわけではありません。かつて、政府の審議会において、女性委員を10%以上にしようと目標を立てたことなどは、その例に当たるのではないかと思っています。ただ、クウォーター制というのは一種の劇薬的な要素があり、これをどこで止めるかの判断が非常に難しく、政府の審議会の委員の女性委員の比率目標も現在では30%に引き上げられており、仮にここで止めたとすれば、「何故、男女比が7対3で良いのだ」との批判が生まれるでしょう。恐らくその問いに対する合理的な回答はできないでしょうから、ギリギリ言えば、恐らく男女半々に行き着かざるを得ないと思います。

川田  (食い下がって)各分野男女半々になって何か悪いことがあるのでしょうか。これこそが究極の男女平等ではないでしょうか。

未来  もちろん、自然な形で結果として男女半々になったのであれば問題はありません。問題は、例えば大数観察では男性が優位な分野に、人為的に女性を増やして男女半々、あるいはそれに近いような状態にするような場合です。そうなると、その分野では下位の女性よりも優れた男性がはじかれて、大数観察で女性優位の分野に行かざるをえないことにもなりかねませんから、本人にとって不本意であると同時に、人的資源の無駄も生じることになると思います。

川田  大数観察で、男性優位、女性優位の分野があるということですが、具体的にどのような分野を指しているのでしょうか?

未来  具体的にその分野を明示することはなかなか難しいと思います。ただ、先ほどオリンピックの例を示したように、運動能力の分野では明らかに男性が優位といえるでしょうし、長生きの分野では女性優位といえるかと思います。これらの分野は数字で明確に示されていますが、それ以外でも、経験的に見て、数学や物理といった分野では大数観察をすれば男性の方が優れていると良く言われますし、学校時代の成績を思い浮かべても、そうした傾向は見られたように思います。一方、言葉を覚える点では女性の方が優れていると感じられます。私には、男女1人ずつ子供がいますが、言葉を覚えたのは娘の方がかなり早く、これは私だけの経験ではなく、多くの人から同じようなことを聞かされますし、外国語をマスターするのでも、少なくとも会話に関して言えば、一般に女性の方が覚えが早いように思います。

川田  仮に、館野先生がおっしゃるように、大数観察で男女差が見られる分野であっても、劣ると見られる性の中にも、その分野で優れた人はいるはずです。先ほど、長生きは女性が優位というご指摘がありましたが、男性が長寿日本一になった例もあります。また、運動能力は男性優位ということですが、例えば女性がオリンピックの陸上の100メートルで決勝に出るには10秒台が求められるようですが、10秒台で走れる者は男性でも滅多にいません。通常の仕事であれば、オリンピックほど高度な能力を求められるわけではありませんから、「大数観察によれば、この分野は男性優位」ということで、女性を排除するようなことがあってはならないと思います。

未来  それは当然のことです。以前に比べれば、法制度上女性が就くことができない仕事は、妊産婦を除けば極めて僅かになりました。ただ、制度面では男女平等になっても、意識の面で、必ずしも合理的な根拠が明らかでないまま、何となく「男性向き」、「女性向き」とレッテルを貼って、一方の性が参入しにくくなっている場面はまだ多いと思いますので、そうした面での意識を変えていく必要はあろうかと思います。ただ、意識の変化というのは時間がかかるもので、それを短兵急にクウォーター制に持っていくことが果たして適切かどうかと言っているわけで、目指す方向については川田先生と同じではないかと思っています。(つづく)

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