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(浅井茂利著作集)コロナ禍が続く中での最低賃金引き上げ

株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1664(2021年7月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利

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 本号が発行される頃には、2021年度の地域別最低賃金をどのように引き上げていくのか、すでに目安が示されていると思います。
 しかしながら本稿執筆時点では、「骨太方針2021」で方向性が示された段階であり、中央最低賃金審議会の目安、都道府県ごとの地域別最賃の実際の引き上げ額については、まったく予断を許さない状況です。
 そうした意味では、最低賃金に関して原稿を書きにくい状況ではあるのですが、今回、「骨太方針2021」で示唆されている引き上げ、すなわち3%程度の引き上げを実現することができるかどうかは、わが国における今後の最低賃金引き上げや賃上げの動向、ひいては、政府の掲げる「賃上げを通じた経済の底上げ」の成否に大きな影響を与えると思いますので、地域別最賃引き上げの重要性について、改めて整理したいと思います。

「骨太方針2021」は、3%程度の引き上げを示唆している

 さる6月18日、政府は「骨太方針2021」を閣議決定しました。「賃上げを通じた経済の底上げ」を掲げ、
*民間主導で早期の経済回復を図るため、賃上げの流れの継続に取り組む。
*我が国の労働分配率は長年にわたり低下傾向にあり、更に感染症の影響で賃金格差が広がる中で、格差是正には最低賃金の引上げが不可欠である。
*感染症下でも最低賃金を引き上げてきた諸外国の取組も参考にして、
*感染症拡大前に我が国で引き上げてきた実績を踏まえて、
*より早期に全国加重平均1000円とすることを目指し、本年の引上げに取り組む。
ことが打ち出されています。 2020年度には中央最低賃金審議会において地域別最賃引き上げ額の目安が示されず、結果的に全国加重平均で1円の引き上げに止まりましたが、 2021年度については、政府は引き上げに積極的な姿勢を示すところとなっています。コロナ禍が依然として続いていますが、地域別最賃が発効する10月には、ワクチン接種も相当進んでいるものと思われますので、経済の正常化も間近で、妥当な判断だと思います。また、政府が積極的なだけでなく、経済財政諮問会議の有識者議員からも強い姿勢が窺われることは、注目すべきだと思います。
 ただし、これで2019年度以前のような引き上げが復活するかというと、不確定要素がかなり多いと言わざるをえません。現時点では、コロナ禍の下で、経済活動の制限が続いているという状況に加え、
*骨太方針の本文には、2016年以来、2019年まで記載されていた「年率3%程度」の引き上げという文言が盛り込まれず、「感染症拡大前に我が国で引き上げてきた実績を踏まえて」という表現に止まったこと。(本文ではなく、脚注に、「2016年3.1%、2017年3.0%、2018年3.1%、2019年3.1%と引き上げられている」という経過が紹介されている)
*原案の段階ではなかった「感染症の影響を受けて厳しい業況の企業に配慮しつつ、」という文言が挿入されたこと。
*4月に、日本商工会議所、全国商工会連合会、全国中小企業団体中央会の三団体が連名で、「コロナ禍の収束が見通せない中、政府は中小企業・小規模事業者の資金繰りや事業再構築等の経営支援に最優先で取り組むべき」「今年度は、足元の景況感や地域経済の状況、雇用動向を踏まえ、『現行水準を維持』すること」という内容の対政府要請を行っていること。
*かねてより、日本の賃金水準の低さを問題視し、経済財政諮問会議の有識者議員でもあった経団連の中西会長が、経団連会長、有識者議員を退任したこと。
などといった要因があるからです。

最低賃金が雇用に与える影響について研究結果は一致していない

 2021年度の地域別最賃引き上げの検討が始まる前段階では、日本経済新聞が3日間の特集を組むなど、最低賃金引き上げの雇用に対する影響の如何がクローズアップされました。
 最低賃金引き上げの雇用に対する影響については、国内外でさまざまな研究がなされているものの、その結論は一致していない、というのがコンセンサスではないかと思います。そもそも、研究対象となった国々や時期によって、経済力や賃金水準、景気の状況、経済構造などはさまざまなわけですから、結論が一致しないのは当たり前のことです。文政権の下で行われた韓国における最低賃金引き上げが、たとえ雇用に悪影響を与えていたとしても、事情が異なる以上、日本もそうなる、とは言えません。
 ラーメンはおいしいか、まずいか、という研究で、おいしいラーメンを食べた研究者は、ラーメンはおいしいという結論を出すでしょうし、まずいラーメンを食べた研究者は、ラーメンとはまずいものだという判断を下すでしょう。
 あくまで一般論として言えば、賃金を過度に引き上げ過ぎれば、雇用の減少を招く可能性があることは否定できません。しかしながら、最低賃金を10%引き上げたとしても、 10%の生産性向上があれば、とくに問題はない
はずです。一方、最低賃金をはじめとする賃金水準が経済力に比べて低すぎる状況では、生産性向上が見られない場合でも、引き上げを行うべきであると言えます。それで企業経営が成り立たなくなるのであれば、それは、低賃金というぬるま湯に浸かっていた経営者の責任だと言えるでしょう。
 経済力に比べて賃金水準が低すぎる場合、マクロ経済では個人消費不足による供給過剰、または外需依存になっている可能性がありますので、最低賃金など賃金水準の引き上げは、内需を拡大させ、雇用の安定・創出に寄与することになると思います。
 一部では、最低賃金で働いている人は必ずしも貧困層ではないので、最低賃金は貧困対策として役立たない、などという言い方がされます。しかしながら、最低賃金法第1条では、「この法律は、賃金の低廉な労働者について、賃金の最低額を保障することにより、労働条件の改善を図り、もって、労働者の生活の安定、労働力の質的向上及び事業の公正な競争の確保に資するとともに、国民経済の健全な発展に寄与することを目的とする」と謳われています。最低賃金は、単に最低限の衣食住を満たすためのもの、というわけではありません。わが国の経済力に相応しい、労働の質に見合った賃金を保障するものであり、最低賃金の対象者が貧困層であるかどうかは、まったく関係のないことです。もちろん、収入の低い層において、最低賃金引き上げの効果が大きいことは、言うまでもありません。

日本の賃金水準が経済力に比べ低すぎるのは明らかである

 2021年4月号の本欄でも触れているように、わが国の賃金水準の低さということについては、ずいぶんと理解が広がってきたものと思います。
 労働分配率の国際比較については、4月号で製造業の数値をグラフでご紹介しましたが、今回は全産業のデータを表で掲載しました。これによれば、たしかに、全産業の付加価値生産性(時間あたり名目国内総生産)については、日本は他の主要先進国に比べて低い水準となっているのですが、一方、時間あたり人件費(時間あたり名目雇用者報酬)は、国際的に見て、国内総生産の低さよりももっと低いので、労働分配率も最低となっています。金属産業では、付加価値生産性はほぼイタリア、英国に近い水準となっていますが、時間あたり人件費が際立って低いのは、産業計と同様です。
 また、中小企業(ここでは、資本金1千万円以上、2千万円未満と1千万円未満)における企業収益ベースの労働分配率について、3%程度の地域別最賃引き上げが始まる直前の2015年度と、直近の2019年度を比べてみると、分子に役員給与・賞与を含んだ労働分配率では、上昇ないし横ばいとなっているのに対し、これらを含まない、すなわち、分子が従業員給与・賞与、福利厚生費だけの労働分配率は、低下しています。 2019年度時点では、中小企業における人件費負担は2015年度に比べてむしろ軽くなっているわけであり、全体として、中小企業には、人件費増の負担能力があると言えるのではないでしょうか。

 日本の賃金水準の低さへの理解が進んでいるとしても、一方で、
*賃金水準が低いのは、生産性が低いためである。
*賃金水準を引き上げるためには、まず生産性を上げなくてはならない。
などという主張がよく見られます。「骨太方針2021」ですら、企業の付加価値創出力の強化、生産性向上等に取り組む中小企業への支援強化、などに取り組むことにより、賃上げを促すことにしています。
 しかしながら、生産性が低い以上に人件費が低いのであればこうした見方があてはまらないことは明らかで、低賃金が低生産性をもたらすスパイラルに陥っているということだと思います。
 高付加価値経営の要は差別化とカイゼンです。最低賃金も含め、積極的な賃金の引き上げによって、「現場力」の強化を図り、「高賃金・高生産性」を追求していく以外に道はありません。

中小企業は最低賃金引き上げに対し前向きな方策で対応する

 2021年2~3月に東京商工リサーチが行った、中小企業を対象とする内閣府請負調査(有効回答4,151社)によれば、「最低賃金の引上げを含む賃金相場が上昇した場合の対応策として、貴社で実施を検討するもの」との質問に対する回答(複数回答)としては、
*「人件費以外の経費削減」を挙げる企業が最も多い。(回答者全体の43%、地賃に近い賃金水準の企業の47%)
*業務効率の改善や製品の新開発、販路拡大など前向きな回答をした企業が3~4割に達しており、しかも、回答者全体に比べ、地賃に近い賃金水準の企業のほうが多くなっている。製造業では、業務効率の改善を挙げる企業がもっとも多い。
*採用の抑制、福利厚生費の削減、正規雇用・非正規雇用の削減は1割程度に止まっている。
*正規雇用・非正規雇用の削減を挙げる企業は、C・Dランクの地域で目立って少なくなっており、「人材確保による生産性向上」を挙げる企業はDランクで最も多くなっている。
*「不採算事業の見直しや廃業の検討」を挙げているのは、回答者全体、地賃に近い賃金水準の企業とも2割台前半、給与の削減は7%の企業となっている。
などといった傾向が見られます。中小企業では、最低賃金の引き上げなどによる人件費増に対して、総じて前向きの方策により、対応しようとしており、最低賃金の引き上げが生産性の向上や設備投資を促進していることが
わかります。
 なお、製造業の下請事業者のうち、本格的なカイゼン活動に取り組んでいるところはおよそ2割程度に止まるものと推測されます。
 最低賃金をはじめとする賃金の引き上げによって、職場一体となったカイゼン活動を促すことにより、付加価値の拡大、生産性向上の余地は大きいものと思われます。


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