(浅井茂利著作集)米中新冷戦その後
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1646(2020年1月25日)掲載
金属労協政策企画局主査 浅井茂利
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本誌2019年3月25日号において筆者は、
*米中対立は単なる貿易戦争ではなく、経済体制、政治体制、安全保障、同盟関係、イデオロギーなどを含めた全面的な「米中新冷戦」であること。
*トランプ大統領の政策というよりは、共和・民主両党はもとより、政界・経済界全体のいわば「オール・アメリカ」の合意によるものであること。
*米中新冷戦は四半世紀ぐらい続くことになるかもしれないこと。
などを指摘しました。
米中の貿易交渉では、第一段階の合意が発表されていますが、国内向けに成果を見せたい米中両首脳の思惑の側面が強く、中国において自由主義・民主主義・平和主義が確立されるまでは、米中新冷戦は続くものと考えるべきです。
日本企業も含め世界中の企業が、米中新冷戦を前提とした事業構造、ビジネスモデルに転換していくことが不可欠となっています。中国国内から東南アジアなどへの生産移管も始まっていますが、日本企業は様子見の傾向が強く、このままでは「脱中国」においても、遅れをとることになりかねません。
米中合意は本質的な前進ではない
USTR(米国通商代表部)は2019年12月13日、米中が貿易交渉で第1段階の合意に達したことを明らかにしました。
中国側が知的財産権、技術移転、食品と農産物、金融サービス、為替レートと透明性などについて構造改革に取り組み、数年にわたって米国製の物品・サービスの大量購入を行う一方、米国側は12月15日に予定していた輸入額1,560億ドルに相当する品目に関する対中追加関税の発動を見送るとともに、9月1日に発動していた輸入額1,200億ドルに相当する品目の追加関税率を15%から7.5%に引き下げることになりました。それ以前に発動されている輸入額2,500億ドルに相当する品目の追加関税率25%は据え置かれますが、適用除外品目が拡大されました。
しかしながら、技術移転、金融サービス、為替レートと透明性、および双方の評価と紛争解決に関しては、中国側から具体的措置に関する言及がありませんし、米国製の物品・サービスの購入も、米国側は2年間で2,000億ドルと発表していますが、中国側の需要、米国側の供給能力の両面で実現が危ぶまれています。
米国商工会議所や全米小売業協会などは、合意に歓迎の声明を発表していますが、共和・民主両党の対中強硬派は、当然のことながら強く批判しています。選挙を控えたトランプ大統領の思惑、そして対中追加関税が米国の消費者に打撃を与えているものについて軌道修正したにすぎず、本質的な問題解決への前進でないことは明らかです。大統領は第2段階の交渉をすぐに開始する意向ですが、最近5年間で倍になったとされる中国政府の国有企業などへの補助金が俎上にのぼるものと見られています。まさに統制経済の根幹に触れる問題であり、合意はますます困難と考えられています。
東南アジアへの生産移管の動向
米中新冷戦を受けて、中国の生産拠点を東南アジアに移転する動きが拡大しています。
*フィリピンに対する海外からの投資認可額は、2019年1~9月に前年同期比7.14倍となった。
*ベトナムに対する海外からの直接投資(製造業)の金額は、2019年1~9月に前年同期比28.1%増となっている。
*マレーシアに対する海外からの投資認可額(製造業)は、2019年1~6月に前年同期比64.8%増加した。
*2019年9月、タイ政府は中国からタイへ移転する企業への優遇策「タイランド・プラス」を策定している。
*米国からアジア新興国への直接投資は、2019年第1四半期だけで2018年通年の10.4億ドルに迫る勢いとなっている。
といった状況にあるようです。
米中対立に最も敏感に反応しているのは、むしろ中国企業で、
*中国からベトナムへの直接投資額は、2019年1~7月の累計で2018年通年を上回る。
*中国からタイへの直接投資は、2019年1~6月に新規申請額が前年同期比5倍、新規認可額が2倍となっている。
などの状況が報じられています。中国からの生産移管は、今のところ比較的身軽な食品とか繊維関係の工場が多いようですが、その点を割り引いたとしても、脱中国ですら、中国企業に遅れをとるという冗談のような状況になりかねません。
ただし東南アジア諸国では、中国企業の生産移管受け入れについて、慎重姿勢に転じる可能性も出てきているとのことです。企業の社会への貢献や環境負荷、そして対米関係などを考えれば、中国企業が歓迎されざる存在であることは容易に想像できます。
様子見を続ける日本企業
一方、日本企業は、米中対立は長期的に続くと認識しつつも、当面は様子見の姿勢をとっているようです。日本経済新聞では2019年9月、「日本企業の中国担当1,000人調査」を実施しましたが、これによれば、米中対立が10年超続くと考える人が51.3%に達しているものの、現在の中国事業については、60.4%が「現状維持で様子を見る」と回答しており、「縮小すべきだ」は23.9%となっています。
しかしながら同じ日本企業でも、EMS(電子機器の受託製造サービス)企業などでは、迅速な動きも見られるようです。同じく日本経済新聞の記事(2019年9月5日朝刊)によれば、「日本のEMS企業が東南アジアで生産増強に動いている。米中貿易戦争を受けて、EMSを使う企業が発注先を中国から東南アジアに切り替えており、日本のEMSが受け皿の一つとなっているためだ。大手の加賀電子はタイで新工場を建設、メイコーはベトナムの現地企業の子会社化などで能力増強をめざす。人件費の上昇もあって製造業の『脱・中国』の流れは続く見通しで、日本のEMSには商機となりそうだ」とのことです。
状況変化に対応できなければ、日本企業は困難なことに
今回の米中対立は、「新冷戦」という側面で見れば、1989年のベルリンの壁崩壊以来の変化ということになりますが、「対中政策」という点では、1972年のニクソン大統領の訪中以来、半世紀振りの大転換ということになります。
日露戦争の際、英国は日本と同盟を結び(日英同盟)、米国は日露の和平交渉(ポーツマス講和会議)の仲介者となることにより、日本を支援しました。ロシア帝国の南下政策に脅威を抱き、日本の大陸進出によってロシアへの歯止めとするためです。
しかしながらその後、第一次世界大戦を経てロシア革命がおこり、ソビエトが誕生しました。南下政策はロシア・ソビエトの一貫した政策ですが、それでも革命後の混乱もあり、脅威の圧力が弱まったことは否定できません。そうした大きな状況変化があったにも関わらず、日本は大陸進出をむしろ拡大し、英米にとって、こんどは日本が脅威となる状況を作り出してしまいました。国際連盟の発足を名目に日英同盟は解消され、対日包囲網が築かれ、太平洋戦争に追い込まれ、日本は破滅していきました。
ニクソン訪中以降、米国は中国が豊かになれば自由化・民主化、平和主義が進展し、中国共産党の一党独裁体制も変化するものと期待していました。しかしながら現実には、習近平国家主席の誕生によって、豊かになった中国は覇権を求め、領土的野心をあらわにし、国内の独裁体制と統制経済を強化するだけでなく、周辺諸国にそれを輸出しようとしていることが明白となりました。
従って、将来的な民主化を視野に入れていただろうと思われる胡耀邦・趙紫陽時代ぐらいの政治状況に、少なくとも中国が戻らなければ、米国が米中新冷戦を解消することはあり得ないでしょう。こうした状況変化に日本政府・日本企業が対応できなければ、先行きはきわめて困難なものにならざるをえません。
米国だって覇権を求めている点では中国と同じではないか、と思う人がいるかもしれません。しかしながら、日本国民が自由と民主主義を大事にしようと思うなら、中国側に立つことはもちろん、中立という選択肢もあり得ません。かつて「等距離外交」という言葉がありましたが、「自由で開かれた」国々(自由主義・民主主義陣営)との関係と、独裁体制、統制経済の国との関係とが等距離であることは考えられません。
アメリカにも乱暴なところがありますが、たとえ手荒な手段に訴えても、独裁体制を阻止しなければ、世界全体の自由主義・民主主義が危機にさらされるというのが、ナチスの台頭を経験した自由主義・民主主義陣営のコンセンサスです。いま、まさにそうした状況であることを強く認識しておく必要があります。
米中新冷戦下で日本企業の競争力復活を
先月号の本欄でも触れているとおり、
*国際環境が激変する中で、わが国経済を個人消費がリードし、底支えする強固なものに転換していくことが不可欠となっている。
*中国市場や中国の事業拠点(生産・研究開発)を活用して成長するという従来のビジネスモデルは通用しなくなる。
*収益構造や成長モデルの抜本的な再検討、生産拠点や研究開発拠点などグローバルなバリューチェーンの再構築が喫緊の課題である。
*グローバル市場において、中国企業の活動が制約を受けるなかで、わが国金属産業が、新技術や新製品・新システムの研究・開発・普及、新しいビジネスモデルの構築において主導的な役割を果たしていかなければならない。
*中国からの生産移管による東南アジアなどでの設備投資拡大を、日本企業に対する需要として取り込む必要がある。
と言えます。
いまや米中新冷戦の象徴となっているファーウェイ社の梁華会長は2019年11月に都内で記者会見を行い、2019年の日本企業からの部品調達額が前年より5割多い1兆1千億円に達するという見通しを示すとともに、「日本企業とファーウェイはウィンウィンの関係だ」と何度も強調した、と伝えられています。しかしながら、米国による投資規制や輸出規制には、日本企業としても対応する必要があります。すでに中国企業への事業売却ができない事例や、社内での対中事業のファイアーウォールの設置、米国拠点における中国人従業員に対する情報接触の制限などの必要性が出てきています。安全保障の観点からすれば、規制はますます強化されていくだろうということを、強く意識しておかなければなりません。
先述の「日本企業の中国担当1,000人調査」では、「巨大市場を無視することは今も今後もできない」、「市場ポテンシャルは高く、簡単に手放せない」などの意見もあったとのことです。中国市場が巨大であるのは言うまでもありませんが、人口はインドのほうが多くなるのは確実ですし、アメリカが引き続き人口もGDPも伸びていくのに対し、中国の成長鈍化は不可避です。目先の市場の大きさに幻惑されることなく、長期的な観点に立った判断が不可欠です。第4次産業革命では、日本企業が中国企業の後塵を拝している場合が少なくないと思われますが、米中新冷戦を競争力逆転の好機としていかなくてはなりません。
(米中の第1段階合意の内容・分析や東南アジアへの生産移管の状況などに関しては、ジェトロ「ビジネス短信」などを参考にしています)
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