「構造的な賃上げ」に向けて必要なこと(2)
2022年10月13日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利
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近年、マスコミなどを中心に、従来の「メンバーシップ型雇用システム」から、「ジョブ型」に転換すべきだ、という主張が目につくようになりました。「ジョブ型」の定義は必ずしも統一されていなかったのですが、10月3日の岸田総理の所信表明演説によって、「日本に合った職務給」を採用する雇用システムということで整理されることになりました。「日本に合った職務給」の具体的内容に関しては、来年6月までにとりまとめられるものと思いますが、
*査定が行われ、人事考課によって昇給・降給する。
*定期昇給的な習熟昇給は、たとえ設けられたとしても大きくない。
ということになるのではないか、と推測されます。
100年に1度と言われる大変革の時代、また「従業員エンゲージメント」
の向上が求められている時代に、職務給で対応できるのかどうか、きわめて疑問だと思います。
「構造的な賃上げ」に向けて必要なことは、労働移動の円滑化や職務給への移行ではなく、「なぜ春闘が必要なのか」で指摘しているように、
*産別を運動基盤とした団体交渉
*賃上げや賃金水準における社会的相場形成
*マクロ経済の実情に応じた根拠のある賃上げ
*個別企業における賃金制度の確立
によって、わが国の経済システムに賃上げ(ベースアップ)を組み込んでいくということだと思います。
職務給の問題点
日本ではこれまで、職務遂行能力を基準とした職能給を基本とした賃金制度が一般的で、1990年代後半からのいわゆる成果主義の導入以降も、基本的には変わっていないものと思われます。一方、職務を基準とした職務給については、
*職種を超えた人事異動が困難で、組織が硬直的になりがちである。
*一人ひとりの仕事の範囲が縦割りになりやすく、人材を多様な業務に柔軟に活用することが難しい。
*このため、技術や市場の変化、ビジネスモデルや企業組織の変更などへの対応が難しい。
という問題点があり、一部の職種を除いて広がりを見せていません。
とりわけ今日、産業・企業は、
*DX、GXの展開
*経済安全保障の強化に向けたバリューチェーンの再構築
という、まさに100年に1度と言われる大変革に対応していかなければならないのですから、職務給のような変化に対応しにくい賃金制度が適切なのかどうか、きわめて疑問だと思います。
わが国製造業の競争力の源泉として、「カイゼン」があることは言うまでもありません。どのような肩書き、立場であろうと、みんなで協力し、知恵を出し合い、工夫し合い、チームで成果をあげていく仕事のやり方にとって、職務給はなじみません。現場の従業員がカイゼン提案を行ったりするのは言語道断、生産プロセスの改善はエリートの仕事であり、現場の従業員は黙々と指示に従っていればよい、職務給はそうした発想に立ったシステムであり、生産性向上よりも、階級秩序の維持を重視した賃金制度だと言えます。
職務給を導入すれば、長期にわたる経験によって蓄積された従業員の技術・技能やノウハウ、判断力と創意工夫、それらを発揮することによる技術開発力、製品開発力、生産管理力などといった、日本企業の強みである「現場力」を損なうことになりかねません。
従業員エンゲージメントと職務給
近年、「従業員エンゲージメント」が注目を浴びています。定義は人によってやや異なっているようですが、「仕事に対するポジティブで充実した心理状態」のことで、日本では、帰属意識と貢献意欲を合わせた概念としてとらえられているようです。
ビジネスパーソン向けの経営学の専門誌として最も権威のあるハーバード・ビジネス・レビューの2019年11月号に掲載されたM.バッキンガム、A.グッドールの論文 ``THE POWER OF HIDDEN TEAMS’’ では、19カ国、1万9千人以上を対象にしたADPリサーチ・インスティテュートの調査結果(2019年)に基づき、
*エンゲージメントと生産性において個人差が生じる最も強力な要素は、 「業務の大部分をチームで行っている」と回答したかどうかだった。職場での生の体験、つまりは一緒に仕事をする同僚と、同僚とのやり取りが何物にも勝る力を持っていた。
*チームでは、自分の担当職務が誰かの担当職務に関わり、メンバー同士で各自の強みを補っているように感じるものだ。(you have strengths that seem to be complemented by those of others)
*素晴らしいチームとチームワークは歓迎すべき条件ではなく、欠かせない条件なのだ。
*チームとは、組織図上に記載されている指揮命令系統では説明できないものなのだ。
*スラックやJira、Webex Teamsなどを通じて、実際の職場で機動的かつ偶発的、短期的に動く非公式で流動的なチームの実態がわかりつつある。組織が従業員エンゲージメントや業績に対処するためには、チームから生じるデータをリアルタイムでただ分析すればいいだけだ。報酬や昇進、役職など
といった外的なインセンティブを軸にして職務を設計することも、少なくなるだろう。
と指摘しています。従業員エンゲージメントを向上させるために、
*企業の組織図上の指揮命令系統では説明できないチームで、
*自分の担当職務が誰かの担当職務に関わり、
*メンバー同士で各自の強みを補っている
ことが必要だとすれば、縦割りの職務給が相応しい賃金制度でないことは明らかなのではないでしょうか。
なぜ職務給への移行が主張されているのか
「労働移動の円滑化には職務給への移行が必要」という考え方については、
*社会的な賃金水準が形成しやすく、各社の賃金比較が容易になるため、職務給には労働移動との相性がよいという傾向がある。しかしながら本質的な問題は、転職すると賃金水準が下がるという傾向であり、転職先において前職の経験なども考慮された適切な能力評価を行うことによって、職能給であっても労働移動が不利にならないように対応することができる。
*企業は、産業・企業における仕事の内容や進め方、働き方に即して、従業員の能力形成・能力発揮を促す賃金制度を採用すべきである。労働移動との相性がよいという理由で、職務給を採用するのは本末転倒である。転職が一般的に行われている職種については、別建ての制度で対応すればよい。
と言えるのではないでしょうか。
1990年代後半以降、いわゆる成果主義の名の下に大部分の中高年従業員の賃金を一定水準で留め置く、もしくは引き下げる制度が導入されてきました。経団連の『2022年版経営労働政策特別委員会報告』では、「大手企業を中心に、年功に偏重した制度から、働き手が担っている仕事や役割、貢献度を基軸とした制度へと移行が進んでいる。こうした賃金制度見直しの流れをさらに強めるとともに、賃金項目や賃金体系の検討も必要となろう」と指摘していますが、職能給から職務給に移行し、習熟昇給の仕組みを設けないか、あるいはごく小さなものとすることにより、中高年層の一層の賃金抑制が図られる可能性があります。
若年層で賃金を引き上げても、中高年層の賃金を引き下げれば、わが国の賃金水準を全体として引き上げることにはなりません。消費への影響からしても、単に中高年層の消費が減少するだけでなく、若年層においても、中高年層になった時の収入に対する不安から、消費を抑制せざるを得ません。
さらに長期的には、中高年層の賃金が引き下げられると、子どもの予備校や塾などの補習教育にかける費用を賄えるかどうかの格差が拡大することになりますので、教育格差が拡大し、所得格差、資産格差の拡大をもたらし、やがて格差の固定化につながる可能性もあります。高等教育における返済不要の給付奨学金や出世払い奨学金などの拡充は大変重要な政策ですが、補習教育には対応できません。昨年10月の所信表明演説で触れられていた「格差」「中間層」という言葉が、今年の所信表明演説では1回も出てこないのが大変気になります。
職能給から職務給への移行の際の問題点としても、職能給を基本とする賃金制度で勤務してきた中堅層の従業員について、その後の賃金水準の抑制・引き下げを意図して、職務給に移行することがあってはなりません。若年層についても、若年層における賃金水準を従来並みに抑えたままで、将来の賃金水準の抑制を目的として、職務給に移行することがあってはなりません。さらに、非正社員を正社員化する場合に、賃金水準を低いまま据え置くための賃金制度として、職務給を利用してはなりません。
職務給を基本とする賃金制度を導入する場合には、ICTやカーボンニュートラルの分野など新技術の開発や活用のため、国内外の高度人材の確保と活躍促進を目的とする制度として、整備を図るべきだと思います。
職能給に対する誤解
職能給は、言うまでもなく職務遂行能力を評価し、それを賃金に反映する仕組みです。顕在能力のみならず、潜在能力をも含めて評価する制度、と説明されることもありますが、厳密に言えば、職能給はチームワークを基本とする職場において、チーム全体の成果を高めるために必要な、チームのメンバー一人ひとりが得意とするさまざまな能力を評価する仕組みである、と言えます。
評価される能力には、実務的な職務遂行能力だけでなく、基礎的な職務遂行能力も含まれます。
基礎的な職務遂行能力の例
規律性、協調性、積極性、責任制、改善意欲、時間意識、安全意識など
実務的な職務遂行能力の例
知識・技術・技能、表現力、計画力、折衝力、外国語力、情報収集力など
このため、職能給における人事考課は主観に基づいた総合的で抽象的な評価、という誤解があることは否定できません。たしかに、基礎的な職務遂行能力は、営業成績のようにただちに数値で示されるものではありませんが、ある程度客観性をもって、具体的に評価することは可能だと思います。
もし職場全体の現場力が、個人の能力を単純に足し合わせたものであるならば、そもそも能力を評価する必要はなく、単純に勤務成績を評価するだけで十分です。しかしながら、チームワークを基本とする職場では、前述の「従業員エンゲージメント」で触れたとおり、チームのメンバー一人ひとりが得意とするさまざまな能力を発揮し合い、影響し合い、サポートし合うことによって、職場全体の現場力が相乗的に高まり、ひいては企業の競争力強化につながるのだと思います。こうした場合には、一人ひとりの勤務成績を評価するだけでは不十分で、メンバー一人ひとりが得意とするさまざまな能力を評価していくことが不可欠となります。職務給では、こうした役割を果たすことは困難です。
職務給への移行と解雇規制緩和の問題
職務給が採用されている場合、従業員の担う職務やポストが不要となった際に雇用がどうなるのか、という問題があります。
現行の制度では、当然ではありますが、職務給への移行により、企業の雇用責任が軽減されて解雇が容易になる、というわけではありません。職務やポストが不要となった従業員に対しては、企業は次の職務やポストを用意しなければなりません。もし職務給への移行で解雇が容易になるという誤解が生じているのなら、注意を促す必要があります。東京地裁の判決ではありますが、典型的な大手日本企業の雇用慣行とは異なる外資系金融機関に関しても、整理解雇の四要件という「判断枠組自体を否定すべき理由はない」との判断が示されています。(2021年12月13日、バークレイズ証券事件)
しかしながら、現行はそうであるとしても、職務給への移行が一般化すれば、解雇規制を緩和し、職務やポストが不要となった場合に従業員を解雇できるよう整理解雇の四要件を見直すべきだとの主張が強まって、制度変更が行われる危険性がありますので、十分に注意する必要があります。
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