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「構造的な賃上げ」に向けて必要なこと(1)

2022年10月11日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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 10月3日、岸田総理は所信表明演説の中で、「構造的な賃上げ」の実現を訴えました。
*賃上げが、高いスキルの人材を惹きつけ、企業の生産性を向上させ、更なる賃上げを生むという好循環が、機能していないという、構造的な問題がある。
*まず、官民が連携して、現下の物価上昇に見合う賃上げの実現に取り組む。
としています。
 ここだけを読むと、大変けっこうなことのように思われます。政府が春闘に口を出すことについては、「官製春闘」などと揶揄されたり、労使自治への介入として批判されたりしていますが、「市場の失敗」、ここでは労働市場の失敗ということになりますが、その是正に関与するのは政府の重要な役割です。
 ところが、所信表明演説のこの部分全体を見ると、なぜか、
*賃上げには労働移動の円滑化が必要。
*労働移動の円滑化には職務給への移行が必要。
と受け取られるように思われます。あくまで憶測にすぎませんが、労働移動の円滑化や、職務給への移行を進めたい人たちが、総理のご意向をねじ曲げているようにも感じられます。
 労働移動そのものは、もちろん否定すべきものではありません。DX、GXに対応するための「公正な移行」は、産業界にとって最重要課題のひとつです。所信表明演説でも触れているリスキリング(学び直し)の支援策拡充は、効果的な制度設計こそなかなか難しいとは思いますが、大いに期待したいところです。
 しかしながら、実は第2次安倍内閣においても労働移動の促進策が進められましたが、政策的に失敗した経過があります。黒田日銀の量的・質的金融緩和によって景気が回復し、人手不足となっており、中長期的にも生産年齢人口が減少傾向にあるという状況の下では、企業の生き残りにとって、人材確保、人材の囲い込みこそが必須であり、労働移動の促進策の失敗は当然だと思います。
 また、仕事の内容や進め方、働き方は産業・企業、そして職種によって千差万別であり、賃金制度もまたそれに即したものとなっているはずです。大企業か中小企業かによっても、賃金制度は変わってきます。職務給への移行は政府が誘導するようなことではありません。
 労働移動の円滑化を進めようとすれば、来年6月の骨太方針では、解雇規制の緩和が盛り込まれるかもしれませんが、「市場の失敗」ならぬ「政府の失敗」を繰り返すことにならないよう、政府はさまざまな意見に耳を傾け、慎重な判断を行っていくべきだと思います。

近年の労働政策の失敗

 第2次安倍内閣以降、雇用情勢が改善し、賃上げの促進や法定最低賃金の引き上げなどによって労働分配率の低下傾向に歯止めがかかり、非正社員の賃金も引き上げられてきました。しかしながら一方で、労働政策ではたとえば次のような失敗も重ねています。

*2017年11月、新しい外国人技能実習制度が導入され、制度運用の適正化に向けて、優良な受け入れ企業・監理団体に対して受け入れ人数枠・受け入れ年数の拡大が行われたが、
・外国人技能実習機構による実地検査での、受け入れ企業における技能実習法違反件数は、2018年度4,707件から、2021年度13,577件に拡大した。
・労働基準監督署の受け入れ企業に対する監督指導も、違反事業場数は2017年の4,226件(監督指導実施事業場数5,966件のうち70.8%)に対し、2021年には6,556件(同じく9,036件のうち72.6%)と改善の兆しを見せていない。
という状況になっている(制度の所管は法務省)

*2019年4月、外国人に対する新しい在留資格制度として導入された「特定技能」では、特定技能外国人を受け入れることのできる「特定産業分野」として認められるためには、「生産性向上や国内人材確保のための取組を行ってもなお人材を確保することが困難な状況にある」ことが必要となっている。しかしながらそれにも関わらず、各国で広く行われている労働市場テス ト(国内人材で充足されないことの確認)はまったく行われておらず、産業独自の、あるいは他の産業を上回る「生産性向上や国内人材確保のための取組」が行われているかどうかについても、根拠がほとんど示されていない。(制度の所管は法務省)

*金融、コンサル、研究開発に関わる5業務の労働者に対して労働時間規制の適用除外を行う「高度プロフェッショナル制度」が2019年4月に導入されたが、2022年3月末時点で、導入されているのは21社・22事業場・665人に止まっている。対象範囲が狭いとの批判もあるが、この少なさはニーズが存在しないことを示していると考えるべきである。

*2022年9月に経済産業省の作成した「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン」では、
・取引先に対し人権尊重の取組を要求した場合、下請法や独占禁止法に抵触する可能性がある。
・人権侵害企業に対する取引停止は最後の手段で、適切と考えられる場合に限って実施されるべき。
・国家等の関与の下で人権侵害が行われる場合、その地域で事業活動を行っていることのみをもって、 直ちに人権侵害に関係したこととはならず、事業活動の停止が求められるわけではない。
などと指摘している。核心部分において、人権デュー・ディリジェンスの基本文書である国連「ビジネスと人権に関する指導原則」と相容れないものとなっており、国際スタンダードに則した人権デュー・ディリジェンスの取り組みにブレーキをかけることになりかねない。
というような状況にあります。

労働移動支援助成金の失敗

 とりわけ大きな失敗は、今回の「労働移動の円滑化」と密接に関連する「労働移動支援助成金の抜本的拡充」という政策です。
 2013年の日本再興戦略では、「雇用制度改革・人材力の強化」の一番目として、「行き過ぎた雇用維持型から労働移動支援型への政策転換(失業なき労働移動の実現)」が掲げられました。
 具体的には、従業員のリストラで人材会社に支援を依頼すると、リストラ企業が助成金を受け取れる「労働移動支援助成金」について、2013年度当初予算では1億8,600万円となっていたのを、雇い入れた企業への支援も新たに導入した上で、2014年度予算では301億3,300万円、2015年度予算では349億4,400万円に増大させました。
 しかしながら、実際の執行額は、
2014年度 5億9,200万円(執行率2%)
     うちリストラ企業への支援5億9,000万円
2015年度 23億1,700万円(執行率7%)
     うちリストラ企業への支援22億900万円
に止まりました。しかもリストラ企業への支援は、2014年度では上位10社で40%、上位1社で20%を占めるという、きわめていびつな状態となりました。
 その後、予算は減額され、2023年度の概算要求は10億200万円となっています。なお、2021年度はコロナ対応もあり、当初予算額23億8,100万円、執行額13億9,100万円、執行率58%となっていますが、リストラ企業への支援は、6社・173人で4,900万円とまったくニーズのない状況となっています。

賃上げには労働移動の円滑化が必要という考え方について

 岸田総理の所信表明演説では前述のとおり、「賃上げが、高いスキルの人材を惹きつけ、企業の生産性を向上させ、更なる賃上げを生むという好循環が、機能していない」と指摘しています。まさにそのとおりだと思います。
 「賃上げには生産性向上が必要」と主張する人がいますが、わが国の賃金水準がその経済力に相応しいものとなっていないことについては、広く認識が共有されていると思いますので、まずは日本経済の成長に相応しい賃上げ、日本の経済力に相応しい賃金水準を実現することが第一で、それを「更なる賃上げ」に結び付けるという手順になります。「ニワトリが先か、卵が先か」と言われますが、卵があるなら、それを孵せばよいのです。

 個別企業ごとに見れば、現状では、そうした賃上げについていけない企業もあると思います。ただし、少し古いデータですが、中小企業庁の委託で日本リサーチセンターが作成した「平成28年度発注方式等取引条件改善調査事業報告書」によれば、製造業でも、下請事業者の中でカイゼン活動に取り組んでいるところは2割程度と見られます。中小企業では、生産性向上の余地は十分にあります。
 そして、それでも賃上げについていけない企業からは、自ずと雇用が流出し、より賃金の高い、生産性の高い企業に労働移動が行われることになると思います。あえて「労働移動の円滑化」などを政策課題として掲げなくとも、賃上げが労働移動を促すことになるのですから、賃上げには労働移動が必要という考え方では、政策と効果が逆になってしまいます。すなわち、
賃上げ ⇒ 労働移動の拡大・・・〇
労働移動の円滑化 ⇒ 賃上げ・・・✕
というわけです。
 
 結局、賃上げには労働移動の円滑化が必要、という考え方における「労働移動の円滑化」とは、「解雇規制の緩和」ということなのではないかと判断せざるをえません。「不況時に簡単にクビを切れるなら、賃上げができる」という主張であれば、ロジックとしては一応、成り立っているからです。
 ちなみに、解雇規制の緩和は、具体的には、「整理解雇の四要件」の緩和ということになると思います。
整理解雇の四要件
*人員削減の必要性
人員削減措置の実施が不況、経営不振などによる企業経営上の十分な必要性に基づいていること。
*解雇回避の努力
配置転換、希望退職者の募集など他の手段によって解雇回避のために努力したこと。
*人選の合理性
整理解雇の対象者を決める基準が客観的、合理的で、その運用も公正であること。
*解雇手続の妥当性
労働組合または労働者に対して、解雇の必要性とその時期、規模・方法について納得を得るために説明を行うこと。

 しかしながらわが国では、年間総賃金に占める一時金、所定外賃金の割合が大きいために、人件費はきわめて柔軟となっています。リーマンショックの際の人件費の変化を主要先進国で比較してみると、1人あたりの人件費が低下したのは日本だけでした。欧米では、「賃金の下方硬直性」が確認できますが、日本はそうではありません。2014年以降、毎年賃上げが行われ、働き方改革によって所定外労働の削減を進めている中でも、この構図は基本的に変わっていません。
 かつて、不況時に日本は賃金の柔軟性によって雇用を守り、欧米は雇用削減で対応する、ということが言われていました。欧州での解雇が日本より簡単かどうかはいちがいに判断できませんが、少なくとも日本において、賃金の柔軟性を維持したままで、その上、解雇規制まで緩和する理由はありません。繰り返しになりますが、わが国の賃金は、その経済力に相応しいものとなっていない状況にあるわけですから、賃上げの実施に際し、労働移動の円滑化、解雇規制の緩和などという前提条件を付けるのは間違いです。もし解雇規制を緩和するのであれば、たとえば、
*年間一時金は1~2カ月程度に抑え、現状でこれを上回っている分は所定内賃金に組み入れる。
*所定外労働は突発的な場合のみに厳しく制限し、所定外労働の制限によって生産性の向上が見られた場合には、所定内賃金に反映させる。
などということがなければ、労働者にとって一方的に不利で、不公正な制度変更になると思います。

 藤本隆宏・東大名誉教授(早大教授)は、中小企業の経営者や生産子会社の工場長が、従業員全員を何としても「食わしていくんだ」という気概で走り回り、親企業や本社に掛け合って、次の仕事は俺のところでやらせてくれ、と言って仕事を取ってくる、雇用を守るためにジタバタすることが、何十万の製造現場における草の根イノベーションを促し、産業構造転換をもたらしているのだ、と指摘しています。解雇規制の緩和は、こうした草の根イノベーションの芽を摘み、結局は、わが国産業の弱体化を招くことになるのではないでしょうか。

*この記事に関しては、みなさまからのご質問・ご意見などを踏まえ、補強していきます。
*この記事に関するバックデータは、会員向けの記事において、随時、提供していきます。


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