被災地に入る?

「被災地に入る」という表現が気になる

 仕事で「東京に行く」というけれど、「東京に入る」とは言わない。でも、被災地だと、例えば、「能登に入る」という人が多い。なぜ「行く」ではなく「入る」をわざわざ使うのだろう。

 「山に入る」という表現がある。山菜採りであったり、登山であったり、何か特殊な目的を持って出掛けていくときに、「入る」と言う言葉が使われている。安全な日常がある場所から目的と決意を持ってちょっと場所に入って行くイメージだ。 安全な場所から被災地という非日常に入っていくとき、「行く」ではなく「入る」と表現することで、周到な準備のもと固い意志を持ってミッションを達成しに行く自分の姿を表現しているのだろうか。山登りのように。 あるいは被災と未災の間に明確な線を引こうとしいるのだろうか。自分のいる場所は安全だけどこれから入っていく場所は大変なところだ。両者はつながっていない。わざわざボーダーを超えていくところだ。 それとも単なる符牒なのかもしれない。支援の先人が使ったから、支援者の共通言語としてそれを真似て使う。「入る」と表現すれば自分を支援者だと明確に規定できる。

 行く側は「入る」というけれど、被災地の人は「入ってもらった」とは言わない。「来てもらった」と言う。「炊き出しが入って来た」ではなく「炊き出しが来た」だ。
支援者と受援者が違う動詞を使っている。ここが少し気になる。気になるくせになぜ気になるかを説明できないことも気になる。

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