コロナで「野戦病院」?

大阪府知事がコロナ対応で1,000床単位の「野戦病院」を作るのだという。阪大病院に相談しているというから、本気だろう。100の病院に、例えば2割ずつコロナ対応のベッドをあけてくれと要請しても、医師と看護師の確保、他の病気への対応等、実現を阻む要素は多い。目の前の患者と真摯に向き合っている病院は、新たなコロナ対応までなかなか人員、設備を割けない。だから、既存の病院への依頼だけではなかなか病床を確保できない。

各病院に一定数の病床確保を依頼するより、100の病院のうち2割をコロナ専用の病院に転じ、医師、看護師を手厚く配置するほうが、現実的な対応ではないだろうか。その意味では、新型コロナウイルス感染症専門の病院を作るのは良い方向だとは思う。ほとんどの都道府県でそれが今までできていなかった事実のほうがおかしい。

だが、一つだけ考えて欲しいことがある。なぜ、「野戦病院」なのか。野戦病院は、戦場に作られるものだ。もちろん、コロナ対応の病院が戦場のような危機と向き合っている事実は理解できる。だが、戦場の野戦病院に運び込まれる兵士の多くは、治療の甲斐もなく亡くなっていく。いや、治療すら満足に受けられずに、傷口に蛆がわき、亡くなっていく。多くの戦場で、野戦病院は死を待つ施設となった歴史がある。そんな施設の名称を、なぜコロナ対応の施設に使おうとするのか。戦場のような大変さをアピールしたいのだろうが、言葉の配慮が足らなすぎる。

死を待つしかなかった「野戦病院」と、コロナ禍で回復を目指す希望の施設を同じ名称で呼ぼうとする政治家の感性のなさとそれをそのまま無批判に報道するマスコミの主体性の欠如にがっかりする。コロナ専門病院はぜひつくってほしい。でも、名称は「野戦病院」ではなく「コロナ、希望病院」とか「コロナ回復病院」とか、もう少し市民の希望を表現できるものにできないか。

ところで、政治家は戦争用語が好きだ。選挙となると、戦い、弔い合戦、必勝…と、争いの用語を並べ立てる。そんな政治家に平和を語る資格はない。もちろん、コロナに打ち勝っていく未来を語る資格も。考え直してほしい。

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