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徳、権利、マナーズー政治思想の歴史家にとっての一つのモデルー④(Virtues, rights, and manners: A model for historians of political thought, (1981))

13 支配と被支配という考えは、配分の考えには全く適さない平等の考えを伴っていた。ある人が政治的・配分的プロセスにおいてその人の社会的人格に適する分前や役割を与えられ、また別の人物が彼の分前や役割を与えられれば、各人(cuique)には各自のもの(suum)が与えられた、と言えるのであろう。しかし、支配と被支配という考え〔古代ギリシア的な意味における市民であるということー訳者〕は以下のことを求めたのである。すなわち、ある一つの基準以外のあらゆる基準から見て、各自に与えられた分前は相応しいものではあるが不平等であったにもかかわらず、(支配し支配されるなかでの)平等の基準が存在し、それによって各自が他方にとっての等しいものであり続け、各自は共通の、すなわち公的な人格の所有を共有した、ということ。この平等は配分と正義の両方を前提としながらも、それはそれらを超越し配分不可能であるという意味が存在した。

14 もし参加(partecipazione)が、ただ社会的に専門特化した必要によって配分されれば、公的なもの=共和国(res publica)は存在しないだろう(このように共和主義的徳の擁護者は述べた)。また、アリストテレスの語彙で述べれば、ポリスは存在しないだろう。公的なもの=共和国、ポリスにおいて、参加、平等、支配と被支配が可能であった。公的な権力を私的な権利の問題として配分することは、彼らにとって腐敗の典型的な定義であり、腐敗のもとでは最終的に全く権利が存在しなくなるだろう。平等は、自分のものに対する各人の権利を保証する問題としてではなく(確かに平等は他者間においてそうした機能を果たしたのだが)、公的なもの=共和国を保証する唯一の手段としての道徳的義務であった。さらに、私的なものが公的なものの仮面を被るのではなくインペリウムが真に公的なものであるよう保証するものであった。

15 共和政あるいはポリテイア(「国制」)は、各人が支配される権力に各人を参加させることで権力と自由の問題を解決した。このことは平等の関係を伴っていたが、実際は極めて厳しい要求が各人になされた。しかし、各人はそのようなシティズンシップに参加するように“自然に”(kata phusin)形成されていると想定することによって、そうすることが彼の「自然」、「本質」あるいは「徳」なのだと、述べることができた。しかし本性(nature)は発達するが配分され得ない。テロスは配分することはできず、ただテロスのための手段のみ配分できる。従って徳は権利問題に還元され得ないのだ。共和政の法律―モンテスキューのいう政治的徳によって守られる法(lois)―は従って、法の規則(regulae juris)や紛争解決の方法では全くなく、むしろ共和政の法律はoridiniや命令=秩序(orders)なのであった。また、その法律は、政治的な本性がその固有の目的に向かって発展するための形式的な構造であったのだ。これが、ハリントンの言葉(dictum)の意味である。その言葉とは、「良き秩序は悪しき人間を良いものにし、悪しき秩序は良い人間を悪きものにする(“Good orders make evil men good and bad orders make good men evil”)」(10)、である。ハリントンがこの言葉を述べたのは、人が生まれつき善であり政治的であると信じていなかったではなく、そうであると信じていたからだ。

16 しかしながら、法学における典型的な性向があたかも、参加のレベルを引き下げ、人が本性的に政治的であるという仮定を否定することであるかのように見え始める。これはなぜかといえば、法学者の圧倒的に強い関心が配分可能であるもの、事物と権利に向かっているからだと述べる者もいるかもしれない。もし、各人に各自のものを〔という文言において〕われわれがsuum(各自のもの)を形容詞として読めば、述べられていない名詞はresやiusである。resが法学の語彙において負う意味やそれらの意味の歴史に関しては、述べるべきことがたくさんある。しかし差し当たり、法は共和制ではなく帝国由来のものであるために、法の関心は政治的なもの(politicum)ではなくむしろ商業的なもの(commercium)に固定されているのだという主張を展開することにしよう。ポリスや共和国(res publica)が地方自治体(municipality)のレベルに縮小していくにつれて、二つの事柄が生じた。第一に、世界(the universe)は法で充満し、その主権の所在は市民=都市国家的なものを超えたということ(extra-civic)第二に、市民は彼の行動や徳ではなく事物に対する/における権利によって定義されるようになったということ。Resを物質的な客体として過度に厳密に定義(overdefine)してしまう誘惑には、われわれは抵抗しなければならない。しかし、精神史(the history of mental culture)における法学の主要な価値の一つは、政治的動物(the animale politicum)を取り巻く社会的・物質的現実の分厚い幾つかの層と、こうした複数の層を構成する事物を配分したり、もし配分するのでなければ管理したりする際に〔政治的動物である〕人が送らなければならない複雑な規範的生活を法学が主張してきたこと、また、われわれのその理解を豊かにしてきたことだ。

17 レトリックによって補強された法学(共和国においては、この二つは敵対する傾向にあった)は、社会化された事物の世界を理解するルネサンス的精神の主要な鍵であった。最近の論文において、ドナルドー・ケリーは以下のように主張した。歴史の近代的な理解を始めたのはその時代の法学的人文主義者(the legal humanists)であり、シヴィック・ヒューマニストの役割は誇張されてきたのだ、と(11)。そのことは正確には新情報ではないけれども、もちろん共和主義者ではなく法学者が最初の社会史家であったというのは事実である(12)。古典的市民に対して常になされてきた主張は、古典的市民は本当のところ(at heart)悲劇的英雄で、交際するには危険な存在であり、また、彼は自分が必然性=必要の領域(necessity)ではなく自由の領域(the realm of freedom)に生きているのだと主張している、という事であった。このことは、なぜ彼が平等や徳といった配分不可能な善に関心を持っているのか、ということの理由である。さらに、そのことはなぜ彼が絶えずフォルトゥナに直面しているのかということの理由でもある。『マキァヴェリアン・モーメント』において私は、物質的基盤―第一に軍事力、第二に財産―を研究することに関心を持ったのだが、その物質的基盤は徳が必然性=必要の領域で持つべきものであり、古典的な市民が必要であると考えたものだった。

18 私の用いる言語がアーレント的になってよいと私は思っている。なぜならば、法学は圧倒的に社会的なものであり、事物の仲介(the mediation of things)によって導かれる事物の管理=統治(the administration of things)と人間関係(human relations)に関係していると言われ得る可能性に、私は関心があるからだ。また、これらは純粋に政治的なものに含まれるシヴィックな語彙とは対照的だ。そのシヴィックな語彙は、平等や支配・被支配によって引き起こされる直接的な人格的関係性(the unmediated personal relations)に関係している。さらに私は、マルクス主義の言語が正当に用いられる状況を見つけることに関心を持っている非マルクス主義者でもあり、法・自由主義・ブルジョワジーの間にわれわれが見つけつつあると思われる結びつきに興味をそそられている。欽定訳聖書(13)によれば、『使徒行伝』第21章においてローマの官吏は「多大なお金を払って私はこの自由を買ったのだ」と述べている。しかし、1588年にジュネーヴにおいて出版されたフランス語訳版においては、「私はこのブルジョワジーを大金を払って手に入れたのだ」と述べている。ローマの官吏は、君主の下僕による恣意的な行為を受けずに自身の生や善を享受するという消極的自由という限られた意味においてシティズンシップについて語っているのだ(ローマの官吏は、聖パウロもまたローマのブルジョワジー(bourgeoisie romaine)を享受しているために彼を非難することはできない、とちょうど気づいたところであった)。われわれは以下のことを発見しつつある。(1)法によって定義された自由は市民に権利を付与するが、インペリウムへの参加は与えないということ。(2)法は、法が市民に対して保証している自由と、法を執行する君主や執政官のインペリウム(支配権)やアウクトリタス(権威、auctoritas)とを区別するということ。(3)事物の占有、移転、管理における役割を通して市民が獲得する事物への権利(ius ad rem)と事物における権利(ius in re)の観点から法が市民を定義するということ。したがって、ローマ法は初期近代の資本主義よりずっと以前の形態の所有的個人主義をわれわれに提示し、またそれは、政治理論家が自由主義と名付ける権威と自由の分離と再結合の古代の形態をわれわれに提示している。法と主権権力(sovereign authority)に従属している事物の占有と移転から構成されている消極的なシティズンシップを表すために用いられたブルジョワジーという言葉を発見することは、少なからず興味深い。というのも、このことはほとんど研究されてこなかったあの対象に、すなわちマルクス主義的な意味を獲得する以前のブルジョワジーという名詞・概念の歴史に光を当てるからである。

  The notion of ruling and being ruled entailed a notion of equality to which that of distribution was not altogether adequate. When one had been accorded the share or role in the political-distributive process appropriate to one’s social personality and another had been accorded his, it might be said that cuique had been accorded suum; but the concept of ruling and being ruled demand that each of them should recognize that though by any standard but one the shares accorded each were commensurate but unequal, there was a criterion of equality (in ruling and being ruled) whereby each remained the other’s equal and they shared in the possession of a common, public personality. While this equality presupposed both distribution and justice, there was a sense in which it transcended them and was not distributable.
  If partecipazione was distributed according to socially specialized needs and nothing else, there would (said the advocates of republican virtue) be no res publica – in Aristotle’s term, there would be no polis – in which participation, equality, and ruling and being ruled were possible; to distribute public authority as a matter of private right was to them the classic definition of corruption, and under corruption there would in the end be no rights at all. Equality was a moral imperative, not as a matter of ensuring quisque’s right to suum – though it did discharge that function among others – but as the only means of ensuring res publica: of ensuring that imperium should be truly public, and not private masquerading as public.
  The republic or politeia solved the problem of authority and liberty by making quisque participant in the authority by which he was ruled; this entailed relations of equality which made in fact extremely stern demands upon him, but by premising that he was kata phusin formed to participate in such a citizenship it could be said that it was his “nature”, “essence”, or “virtue” to do so. But nature may e develop, but cannot be distributed; you cannot distribute a telos, only the means to it; virtue cannot therefore be reduced to matter of right. The laws of a republic – the lois obeyed by Montesquieu’s vertu politique – were therefore far less regulae juris or modes of conflict resolution than they were ordini or “orders”; they were the formal structure within which political nature developed to its inherent end. This is the meaning Harrington’s dictum: “Good orders make evil men good and bad orders make good men evil”. (10) He said this not because he did not believe that men were by nature good and political, but because he did.
  It begins to look, however, as if the characteristic tendency of jurisprudence was to lower the level of participation and deny the premise that man is by nature political. One might argue that this is because the overwhelming preoccupation of the jurist is with that which can be distributed, with things and rights; if in suum cuique we read suum as an adjective, the unstated nouns are res and ius. There is much to be said regarding the meanings which res can assume in the juristic vocabulary and the history of those meanings; but for the moment we may develop the contention that since law is of the empire rather than the republic, its attention is fixed on commercium rather than politicum. As the polis and res publica declined toward the level of municipality, two things happened: the universe became pervaded by law, the locus of whose sovereignty was extra-civic, and the citizen came to be defined not by his actions and virtues, but by his rights to and in things. We must resist the temptation to overdefine res as material objects; but one major value of jurisprudence in the history of mental culture has been its insistence upon, and enrichment of our understanding of, the thick layers of social and material reality by which the animale politicum is surrounded and the complex normative life which he must lead in distributing and otherwise managing the things composing these many layers.
  Jurisprudence reinforced by rhetoric – it was in the republic that the two tended to become enemies - was the Renaissance mind’s main key to understanding the world of socialized things. In a recent years, Donald Kelly has suggested that it was the legal humanists of that era who inaugurated a modern understanding of history, and that the role of civic humanists has been overstated.(11) It is not exactly news, but of course it is true, that the lawyers and not the republicans were the first social historians.(12) It has always been the case against the classical citizen that he is at heart a tragic hero, unsafe to associate with, who insists that he is living in the realm of freedom and not that of necessity. This is why he is concerned with nondistributable goods like equality and virtue, and it is also why he is constantly confronted with forutuna. In The Machiavellian Moment, I was concerned to study the material foundations – arms first and property after – which he found it necessary that virtue should have in the realm of necessity.
I am allowing my language to become Arendtian because I am interested in the possibility that jurisprudence can be said to be predominantly social, concerned with the administration of things and with human relations conducted through the mediation of things, as opposed to a civic vocabulary of the purely political, concerned with the unmediated personal relations entailed by equality and by ruling and being ruled. I am also a non-Marxist interested in finding circumstances under which Marxist language can be employed with validity, and I am intrigued by the connection we seem to be uncovering between law, liberalism, and bourgeoisie. “With a great price bought I this freedom”, says the Roman officer in Acts 21 according to the Authorized Version(13); but in the French translation published in Geneva in 1588 he says; “j’ay acquis ceste bourgeoisie avec une grande somme d’argent”. He is talking about citizenship in the limited sense of a negative liberty to enjoy one’s life and goods in immunity from arbitrary action by servants of the prince (he has just discovered that he cannot flog St. Paul because the latter enjoys bourgeoisie romaine too). We are discovering (1)that liberty defined by law invests the citizen with right but no part in imperium; (2)that law discriminates between the libertas which it guarantees to the citizen and the imperium or auctoritas of the prince or magistrate who administers the law; (3)that the law defines the citizen in terms of the ius ad rem and ius in rewhich he acquires through his role in the possession, conveyance, and administration of things. Civil law, then, presents us with possessive individualism in a form long predating early modern capitalism, and it presents us with an ancient form of that separation and recombination of authority and liberty which political theorists term liberalism. It is of no small interest to find the word bourgeoisieemployed to denote a negative citizenship, consisting of the possession and transference of things subject to law and sovereign authority; for this casts light upon that little-studied subject, the history of the noun and concept bourgeoisie before it acquired its Marxist meaning.

原注
(10) Harrington, Oceana; Works, p. 838.
(11) Donald R. Kelley, "Civic Science in the Renaissance; Jurisprudence Italian Style", The Historical Journal XXⅡ, 4 (1979), pp. 777-794.
(12) J. G. A. Pocock, The Ancient Constitution and the Feudal Law (Cambridge, Eng.: Cambridge University Press, 1957); Donald R. Kelly, The Foundation of Modern Historical Scholarship: Language, Law and History in the French Renaissance (New York: Columbia University Press, 1970).
(13) Hexter, On Historians, pp. 295-296.


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