見出し画像

言語とその含意ー政治思想研究の変容①(Languages and their implications: the transformation of the study of political thought)

※2024年4月12日 再翻訳編集

『マキャヴェリアン・モーメント』の翻訳者のうちの一人である田中秀夫先生は、この論文について、以下のような評価をしています。

ポーコックは多くの方法論考を書いているが、政治思想史の方法を初めて徹底的に考え抜いたのは今述べた七三年の論文である。この論文はきわめて挑戦的であり、時期的にも『マキャヴェリアン・モーメント』の方法の序説をなしており、その後のさらに洗練された方法論考にもまして重要であるとみなすことができる。

小笠原弘親・飯島昇藏編『政治思想史の方法』早稲田大学出版部、1990年、92頁

便宜上、段落番号を振りました。個人的に重要であると感じた部分を太字で強調しました。ポーコックの英語はなかなかにハードであるため、誤訳や構文の取り間違い、また、より良い表現があればご指摘していただけると幸いです。
以下、本文の訳です。

個人的な副題
「これまでの政治思想史研究における方法論に対するポーコックによる批判」

1 「革命」という用語は、絶えず乱用されてきたことでそのすべての意味が空虚になり、まもなく通用しなくなるかもしれない。したがって革命的な理由と保守的な理由、この二つの理由のためにその用語はわずかに利用されるべきである。あるいはむしろこう言うべきか。過去10年間に、政治思想の諸体系の研究に関心を抱いてきた研究者らは、そうしたディシプリンにおけるラディカルな変化(changes)を経験してきたのだと。そして、そういった変化はある変容(transformation)に匹敵するものであるかもしれないのだ。これらの変化は歴史家と哲学者を中心に引き寄せた。また、この特定の研究において歴史と哲学が結びつく(meet)方法の再評価にこれらの変化は本質的にあった。しかしながら、他のディシプリン、たとえば政治学(political science)や文学、あるいはもしかすると社会学も、関与し、そして寄与してきた。現在、著者〔ポーコック〕は、早い段階からこうした変容に関心を持ってきたのであるが、ここにその変容の性質を説明することを意図したいくつかの論文を提示する。最初と最後の論文を除いて、それらの論文は以前に発表されたもので、そしてそれら全ては、私〔ポーコック〕が歴史家や政治哲学者といった公的な肩書きをさまざまに背負っていたときに書かれたものである。そして、また、ケンブリッジの歴史学と哲学の学生、シカゴの英文学の学生への献辞の最初の部分は、現在行われていることの学際的な性質を強調している。

2 ある革命の歴史を辿るということは、藁人形から始めるということであり、そしてそれはほぼ必要なことである。運動のレトリック(the rhetoric of the exercise)は、変化が始まる以前の物事のあり方の解釈(construction)を強要する。その解釈は、変化はすでにある程度起こっており、アンシャン・レジームの人びとの諸活動が、変容の過程の結果として重視されるにいたる諸活動とどれほど類似していたのか、ということを等閑にする。批判し、払拭しようする必要のある知的な営みにおける混乱(intellectual confusions)を説明する際に、私〔ポーコック〕は、そうした混乱が見境なく私の上の世代の者たち(my seniors and predecessors)のせいであるというふうにはしたくはない。さらに、そういった混乱がある程度残っていて、今日に至るまでこのディシプリンの新参者に及ぼされているといったことも軽視したくはない。従って以下のようになろう。私は、ある革命の歴史を辿るのではなく、むしろ、現在の専門用語で「論争(confrontation)」として知られている、まさに種々の物事の歴史を辿る、ということである。(ほとんどの学術的なディベートと同じように、それはほとんど対話(dialogue)ではない。)私のこの論文に付されている「変容」とは、強調点を変えること(a change of emphasis)であり、認識を強めること(a heightening of awareness)である。そして、これらがこの「論争」を可能にしてきたのである。そこで、私が論じているものが種類(kind)ではなく程度(degree)の問題であるということが明らかとなれば、私の藁人形が方法論的な、あるいは、叙述的な装置(methodological or narrative device)であるということ、そして、あらゆる知的な営みにおける混乱が特定のライバル集団のせいであるといったことや、あるいはあらゆる知的な営みにおける分かりやすさ(intellectual clarity)が私自身が属している集団のおかげである、というつもりはないということが、よりお分かりいただけると思う。

3 当時は(illo tempore)、政治思想の研究は混乱しており、自身が選択した学問領域にとって適切な名称が「政治思想」なのか「政治理論」なのか、あるいは「政治哲学」なのか、分からなかったという次第であった。プラトンから、アリストテレス、アウグスティヌス、トマス・アクィナス、マルシリウス、マキャヴェリ、ホッブズ、ロック、ヒューム、ルソー、バーク、ヘーゲル、マルクスまで、主要な諸著作の正典(canon)はアカデミックの伝統によって他とは切り離されていた。遅くともここにおいて、混乱が始まったのである。「古典的伝統の崩壊」といったような曖昧な議論があったし、たとえばケンブリッジ歴史学部のトリポス(the Cambridge Historical Tripos)では、「政治思想史」に関する論文(プラトンからルソーまで、あるいはマルクスまでか)が、今日においてさえ、「現代国家理論」に関する論文に取って代わられている。ーこうしたタイトルは、論文の著者が勉強しているものはもはや歴史ではないのではないか、もしそうでないならば何なのか、ということについての論文の著者の確信のなさを紛れもなく明らかにしているように思われる。19世紀と20世紀の政治思想は、こうした伝統を作り上げてきた者たちによって正典化されないままであり(実際、そういった研究は勧められていないわけではない)、それだからなおいっそう望ましいのだ。ところが、古典的な正典における人物のほとんどは、かなりもっともらしく哲学者(philosophers)として描かれてきたために、古典における地位を維持していた。と同時に、確かに彼らのうちの多くは神学や法学(jurisprudence)、歴史、経済学、そして美学などといった多様な学問を実践してきたのだ。また、フィレンツェの外交官やクロムウェル派の軍人が、自身と同じくらい正式な哲学とはかけ離れているような他の者たちがなぜ(その古典的な正典に加わることが)認められないのだろうかと不思議に思いながら、あちこちでガレー船から驚いた顔を覗かせていた。しかしながら、そうした思想の相違(divergencies of thought)は、まるでそれらが政治哲学であったかのように扱われることで処理され、そしてその結果、その途切れなく続く流れの中のコメンタリーとして、あるいはモーメントとして処理された。20世紀半ばの歴史研究の主要な部門の中でのみ、政治思想史は伝統的な正典の研究として扱われたのである。そして、伝統を歴史へと転換することはこの場合、伝統の知的な内容に関する哲学的な注釈(commentary)の方法によって行われ、そして、恣意的に哲学として定義されてきたのである。

4 哲学者も歴史家もーましてや、自らのアプローチの方向で関わるようになった政治理論家(political theorists)もー、他の者たちと同じくらい責められるべきであった。というのも、それぞれのグループは他のグループと同じくらい混乱から逃れるのに必死だったからである。しかしながら、トラブルの根源は、歴史と哲学との間の不適格な関係(maladjusted relationship)にあったのだ近年、数多の著者によって十分に立証され、正確に批判されているように(1)、政治哲学として、あるいは、政治理論としての政治的著述の一つの著作、あるいは多数の著作における一貫性は、歴史的現象のような性質と誤って同一視された。テクストの歴史的な解釈(interpretation)、分析(explication)、説明(explanation)は結果として、上記の形態のうちのどれかにおける一貫性の発見と同一視された。そしてこの同一視は、その他の点においては歴史学的に正しい原理と一緒に根強く残ったのである。その歴史的に正しい原理とは、解釈者の目的は、著者あるいはその著者と同時代の読み手の心の中で意味を持つようなテクストを提示すべきである、というものだ。この原理を受け入れることで、研究者が一貫性の再発見や、あるいは著者が与え損なった一貫性をテクストに付与し得るような方法の提示といった取り組みに集中することが必ずしもできたというわけではなかった。この後者の目的は、歴史的洞察や再構成(or 解釈 reconstruction)といった手段によって追求される時でさえ、明らかに非歴史学的であった。なぜならば、ある思想家が一貫性を獲得し損なうということは、一貫性を獲得することに成功するのと同じくらい原理上はあり得ることだからである。そして、このことが歴史学的問題となった時、著者が実際には達成しなかった一定の一貫性を著者に与えるということは、明らかに歴史家の仕事ではないのだ。歴史家が企てうる多くの事柄は、以下のことを示すことである。それは、われわれが歴史家としてある人物の思想はある方法で解釈されるべきであるということを一度理解すると、そういった知識の観点から、ある人物が一貫性を求める中での彼の問題はなんであったのか、また、彼が行った手順によってなぜ彼は問題を解決できると思ったのか、ということをわれわれは理解しうるのだ。実にこの仮説は、著者は一定程度の形式上の一貫性の獲得を目指していたということを前提としている。そして、更なる歴史学的研究が、著者は一貫性を獲得していなかったということを明らかにするかもしれない。

5 しかし、ある人物の思想の歴史学的方法による解釈さえも歴史学的に非正統的な方法によって展開されることがあるとすれば、それはさらに明確に以下のようになる。哲学者、政治理論家による解釈ーあるいはこのアリーナに入場する文芸批評家による解釈も、歴史家による解釈と同一視されるべきではないし、もっと厳密に言えば混同されるべきではない、ということである。これらの実践家(practitioners)のうち、どの実践家による陳述(statements)も、歴史家によるそれではないのである。実践家による陳述は、形式的な(formal)関係性や経験的に実証可能な命題を生み出すか、あるいは引き出すことが意図されている。それは実際に起こったこと(what eigentlich happened)ーこれは思想史においてとる特別な型であるーや実際に意味していたこと(what eigentlich was meant)によってそうするのではないのである。歴史(学)に携わらない実践家は、彼が生きている現在において彼がある陳述に意味を持たせることのできることほど、遠い過去の著者のある陳述がその陳述によって意味したことに対して関心を持っていない。実践家が彼自身の目的のためにその陳述でできることは、〔本来の〕著者の目的と合致するかもしれないし、合致しないかもしれない。従って、それらは〔本来の〕著者の目的と合致する必要はないのである。著者と解釈者が共有する企ての形式的な(formal)性質か、歴史(学)的な一貫性の検討(considerations of historical continuity)のどちらかが、著者と解釈者がある程度合致する(coincide)ということと、この程度死者と今生きている人びととの間の事実上の意思疎通(effecrtive communication)が可能であるということをもたらすかもしれない。おそらく、この種の意思疎通がある程度なければ、解釈者は、彼自身の目的にとってでさえも、著者の言葉を用いることはできなくなるだろう。しかしながら、ただ歴史家のみが、あるいはより正確に言えば、歴史的探究におけるモーメントに携わる人のみが、著者の言葉の使用が解釈者の生きる現代の言葉の使用とどれほど(how far)合致するのかという問いに興味関心を抱くのである。彼の観点から、彼は、著者と解釈者との間のコミュニケーションが、ペトラルカがペトラルカ自身とキケロやリヴィウスとの間に想像した類のものであるということを観取しなければならないー“from you, in your age of the world, to me in mine”ー。そして、それは必然的に翻訳(translation)の要素を伴い、結果としてtraduttore traditore(翻訳者 裏切り者)の要素を伴うのである。しかし、彼は自身のディシプリン以外のディシプリンに対する自律(autonomy)を許す覚悟があるので、この種の裏切りが成功すれば、それはもはや裏切りではなくなるということもまた観取するだろう。「ホッブズはあのような言葉によってそのようなことを意味していたのではなかったのだ。」と、彼は哲学者や政治理論家に囁くであろう。「少なくとも、正確に言えばそうではない。しかし、もしあなたがそれを有益であると思うならそうしたまえ。しかしながら、「ホッブズは言った」という言葉からあなたの考えを論じ始めることはするな。ましてや、不誠実な偽の現在形の「ホッブズは言う」という言葉によってそうするな。「もし一定の状況下でホッブズのこうした言葉を我々が繰り返せば、後の結果がすぐに起こる」といったようなことは、むしろあなたが意図していることなのである。」

6 当時の哲学者や理論家、批評家は、何が歴史であるのか彼が分かっているところのものを研究するうわべの義務(apparent)を嫌悪していたのはもっともであろうし、ましてや、それを書くといううわべの義務はなおさらそうであろう。古代の人々(ancients)の思想や前の時代の人々(predecessors)思想を自らの時代の言語で再述する(restate)するという正統な活動がある。ーそれは人文主義的な活動であると述べた方が正確かもしれない。それは、そのように論じられた際に、問題(concerns)について彼らが何を言わなければならならないのかということを理解するためのものである。この意味における人文主義者とは、行動科学(behavioral science)からではなく、むしろアリストテレスから政治学を学ぶような人文主義者である。しかし、20世紀の人々は自らが巨人の肩に乗る小人と見做されることを嫌っていたし、彼らのうちの多くは伝統から概念装置を取ってくるのではなくて、むしろ自らの概念装置を作り上げることを好んでいた。人文主義者とoperationalistとの間の分業は完全に正統なそれであった。当時あの問題〔これまでに触れてきた事柄〕が起こったのは、学生が彼らの意志に反して人文学に徴兵されたからではなくむしろ、哲学者らが人文主義的な活動に関わるようになると、哲学者らが能力を身につけていない歴史学的解釈の研究をするよう期待されていると思ったからであった。彼らがそのタスクを嫌悪しようが、あるいは熱心に受け入れようとも、結果は等しく残念なものであった。哲学的説明歴史学的説明の代わりに用いることの典型的な例は、R. I. アーロン*1の著作に見られるであろう。アーロンは、ロックが政治における歴史的な説明に明らかに無関心であるということに関心を抱いて、そのことを、ロックが生きた時代は合理主義者の時代で、どんな種類の歴史的な説明にも無関心であったのだということによって説明したのである(2)。しかしながら、ロックは彼の生きた時代の理論家の中でも、ロックと最も近しい仲間を含めて、歴史的な説明に対する無関心という点で類まれな(unique)存在であったし、また、ロックのこの特徴を説明するのはかなり困難である、ということを歴史的探究は明らかにした(3)。さらに、アーロンの主張した歴史的な説明は、アーロンによるロックのテクストの哲学的な分析から導き出されるように思われる。そしてそれは完全に堂々巡りのもの(circular)であり、彼の頭の中では、歴史の一部に変装している(masqueraded)のである。この悲しき混乱の原因は、明らかに、誤った分業ーこれは方法論的な議論の主要な原因であるーにあったのである。

7 しかし、哲学者の思考様式が歴史家自身の思考様式に押し付けられるのを許した時点で、歴史家にも責任があったし、混乱もしていた。哲学者の問題(business)は諸概念の間の関係性を明確化することであるから、哲学者は適切にも、自分に提示された政治思想の塊(the bodies)を引き抜いて、少なくともその著者が目指したものと同程度に、時にはそれ以上に形式化した哲学の体系(systems)にしていったのであった。著者自身が、哲学的な形式度合いを目指したとき、このことは非正統的な活動というわけではなかったし、歴史家はこのことから多くを教わった。しかしこのことはいつも真であったわけではない。とはいえ、それが真であったときでさえも、ある体系における諸概念が互いにどのように結びつくのかという哲学的な説明は、著者の発言の意図(what the author meant to say)の歴史(学)的な説明とは一般的に異なるし、ただ偶然に一致するにすぎない。そして、なぜ著者はそのことを言いたかったのか、あるいはそのように言うことを選択したのか、という歴史的な説明は言うまでもない。というのも、哲学的な説明と歴史的な説明とは、異なる手続きによって到達されるものであるし、そして異なる問題に答えるのである。当時の歴史家にとっての結末とは、歴史的な諸現象を構成しているとされた(そして時には実証可能な形の)一連の時系列的に並べられた主要な知的諸体系(a chronologically ordered sequence of major intellectual systems)に直面することになった、ということであった。これらの諸体系間における知的類似性は 歴史的な順序の連続性を構成し、また、それらの間の非類似性は変化のプロセスを構成していると考えられた。しかし、その順序は歴史家の諸方法によって構築されたのではなかった。

8  したがって〔これまでの〕歴史家はパラ・ヒストリー(para-history)あるいはメタ・ヒストリー(meta-history)を扱うように求められたのであった。そのパラ・ヒストリーあるいはメタ・ヒストリーは、哲学的な諸体系から成り、歴史家が扱うその他の歴史的な連続性や順序(sequences or orders)とともに、また、何とかして哲学的な諸体系と関連づけるよう期待されたそれらとともに存在していた。この分析が示してきたように、もし歴史家に提示されたいわゆる(the)「政治思想史」が歴史家の言説体系(his universe of discourse)に全く属していないとすれば、その作業は明らかに不可能であった。しかしながら、歴史家は、単にそうであることを否定するだけでこの困難から逃げたわけではなかった。つまり、マルクス主義者が行ったように、構築されたもの全体を「観念論」であると烙印を押すことで、彼は応答するかもしれなかった。そして実際、それはW・G・ゲリーンリーフ(1927-2008)のような現代の観念論者であり、彼はそのように構築された「政治思想史」に最も満足していると公言しているのである(4)。しかし、観念論の対極は唯物論である。歴史家はしばしば自身の苦境に反応して、彼がよりうまく処理する用意のあるその他のいくつかの順序(order)と同一のもの(identity)へと諸概念の順序(order)を痩せ細めよう(reduce)としたのだ。〔例えば〕もしマルクス主義者(少なくとも旧左派)であれば、「概念(ideas)」は社会的現実の単なる反映にすぎないと宣言した。一方、ネイミア*2学派であれば、「概念」は独立して認識され到達された政治的利害の合理化であるされた。しかしこれはどちらも事足りなかった。還元論(reductionism)は、歴史家を以下の境遇から救うことはできなかったのだ。歴史家が思い通り(control over)にしようとしている思想史の構成(intellectual constructs)は全く歴史(学)的現象ではなかったという境遇である。それは、非-歴史学的な探究の様態(modes)によって思想史の構成がつくられており、さらには、せいぜい、歴史家ではない知識人による発見という幸運(the luck of some intelligent non-historian's discovery)によってのみ思想史の構成が歴史(学)的な現象であったという次第であったのだ。還元主義者の技法は単に、どのようにしてリンゴがダンプリング*3に変わり、また、どのようにして精神(ghost)が機械の中へ入るのか、ということを説明する試みでしかなかったのである。

9 上記の厳しい批判は、多くの優れた政治思想史がこうした制約のもとで研究を営む研究者によって書かれなかったという意味で解釈されるべきではない。このような制約の解体に着手する前に、マインドがこのような制約を乗り越えているのだ(the mind overcomes limitations of this kind)。しかし、方法論的混乱がみられるコンテクストにおいてなされた素晴らしい研究は、ある意味で、偶然によって、あるいは、ヴィルトゥとフォルトゥナの偶然の一致によって、なされている。利用できる方法があるにもかかわらずそれはなされるのであり、それは批判的自律性(the critical autonomy)を欠いている。批判的自律性とは、研究を生み出すために方法が実証的に(positively)に機能しているときにのみ、生じるものだ。われわれが経験してきたと主張することのできる変容とは、真に自律的な方法(a truly autonomous method)の出現に他ならない。その方法とは、政治思想の現象(the phenomena of political thought)を歴史(学)的現象(historical phenomena)、そして歴史(学)的な出来事(historical events)としてさえーなぜならば、歴史は生じている出来事についてのものだからであるー厳密に扱う手段を提示するものである。それは出来事がどのようなものであるのかを定義づけるあるコンテクストにおいて生じている出来事として扱うのだ。ゴーストはいまだに戦場をふらついている。つまり、政治思想史は古典の研究からなるのか、あるいは、絶えず続いているいくつかの問題からなっているのか、また、選択は観念論者の解釈のスキームにあるのか唯物論者のそれにあるのか、という重大な問いが未だにあるのだ。しかし、われわれは歴史(学)的な夜明け(historical daylight)を目の当たりにしつつある。そして、これまでの混乱の多くは、歴史家と哲学者の役割の混同に由来すると強調されてきたため、哲学的分析は歴史家自身の方法の追求のために歴史家を解放し始めた作用(agency)であった、ということを記録することは喜ばしいことである。


(1)クェンティン・スキナー"Hobbes's Leviathan", The Historical Journal, Ⅶ, 2(1964)、"The Limits of Historical Explanations", Philosophy, XLI(1966)、"Meaning and Understanding in the History of Ideas", History and Theory, VIII(1968)、ジョン・ダン"The Identity of the History of Ideas", Philosophy, XLIII(1968);  The Political Thought of John Locke(Cambridge University Press, 1969)
(2)R. I. Aaron, John Locke(2nd ed.; Oxford: at the Clarendon Press, 1955), p. 271
(3)J. G. A. ポーコック, The Ancient Constitution and the Feudal Law(Cambridge University Press, 1957), chi. 8 and 9; ピーター・ラズレット, ed., Two Treatises of Government by John Locke(Cambridge University Press, 1960), introduction; and Dunn, op. cit
(4)W. H. グリンリーフ, Oakshott’s Philosophical Politics(London: Hutchson, 1966)、”Hobbes: The Problem of Interpretation” in Reinhart Koselleck and Roman Schnur, eds., Hobbes-Forschungen(Berlin: Duncker and Humblot, 1969)

訳注
*1 リチャード・アーロン(1901-1987)
*2 ルイス・ネイミア Louis Namier(1888-1960)
*3 アップルダンプリングのこと。りんごの皮をむいて芯をくりぬき、砂糖・バター・シナモンなどを詰めてパイ生地で包み、オーブンで焼いたもの。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?