花水木の道の長さ(土岐友浩「リアリティの重心」を読んで)

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
/吉川宏志『青蝉』

土岐友浩さんが書いているコラム「ハヤブサが守る家から」に、この歌の解釈が世代によって分かれている。という興味深い論をよんだ。

リアリティの重心(月のコラム「ハヤブサが守る家」/砂子屋書房ウェブサイト)

コラムで紹介されていた東さんの鑑賞を読んで、この歌のリアリティに深く納得したのは、私もまったく同感で、あらためて主体の気持ちの繊細な揺れが伝わってきた。

「告げられなかった」という否定を用いて、実際には告げることができた、ということを示唆しているのは、愛の告白という個人的な事柄の報告に対する照れがあるからだろう。ここに表現としてのポイントもある。(中略)「長くても短くても」には、「言いたい、でも言えない、でも言わなければ」と、その道を歩いている間中ずっと逡巡していた気持ちが込められているのである。
/東直子『愛のうた』

この鑑賞に対して、まったく異なる解釈があることを土岐は示す。

鑑賞の前提である「否定を用いて、実際には告げることができた」という部分が、いまの若い人には共有されず、愛の告白の歌のはずが、愛を告げたいのに告げられなかった歌として、どうやら読まれているのだという。
/土岐友浩(前掲)

「いまの若い人」というくくり方には若干の違和感があるものの、解釈の相違は主に世代による価値観の相違によるものだ、という指摘にはハッとさせられた。

解釈の相違を世代による比較文化論で語る前に、ひとまず文法をベースにした解釈を試みる必要があるのではないだろうか。どうして「告げられなかった」と書いてあるのに「告げることができた」と解釈することを妥当だと思うのかについて、考えてみる。

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
/吉川宏志(前掲)

あれが示す道の長さをLとし、数直線上に点Lを取る。

画像1

A:道がLより長い → 告げられなかった
B:道がLより短い → 告げられなかった

ても(接続助詞)
ある事柄を仮定条件として示し、それと内容上対立する後件に結びつける。逆接の仮定条件を表す。たとえ…しようとも。「たとえ成功し━、被害が大きいのではないか」「どんな人に逢っ━、気を許してはいけませんよ」「死んでも手から離すものか」
既定の事柄を条件として示し、それと内容上対立する後件に結びつける。逆接の既定条件を表す。「いくら…ても」の形をとることが多い。…したけれども。「いくら言い聞かせ━、わからない」「眼をとじ━、まぶたに浮かぶ」
『大辞林』第三版 #daijirin

AおよびBは同時に成立しないため、ふたつの「ても」は、①の逆説仮定条件と解釈するのが適当である。 よって、道の流さがLの場合のみ「告げられなかった」の反例の順接として「告げることができた」と読み解くのが自然ではないか。

①と②の違いは、逆説で書かれた命題の限定された反例を順接で捉えるか、逆説で書かれた命題を既定し、帰納することでほかの内容も逆説と捉えるかの違いとも言える。

この書類は、4月1日より早くても遅くても受け取れません。
A:3月31日 → 受け取れない
B:4月2日 → 受け取れない
よって、4月1日に限定して受け取ることができる(はず)

名前を聞いてもわからない、お家を聞いてもわからない。
A:名前を聞いた → わからなかった
B:お家を聞いた → わからなかった
よって、何を聞いてもわからなくて困ってしまう(だろう)

この違いは、短歌ではどのような形で現れるのだろうか。

コンビニに生まれかわってしまってもクセ毛で俺と気づいてほしい
/西村曜『コンビニに生まれかわってしまっても』

同じコラムに引用されていた「ても」を含む歌だ。

西村の想像力は、この世界から離脱することはない。そこにはパラレルな「私」がいる。想像の尊さ。もちろん有間皇子も、西行法師も、想像の歌を詠んだ。しかし小木曽や西村の歌を読んでいくと、そのリアリティの広げ方に、僕は歌の重心が、現実と地続きのどこかへ移動しつつあるのを感じる。
/土岐友浩(前掲)

この歌を読むときには、どちらの「ても」で解釈しているのだろうか。

コンビニに生まれ変わる → 気づいてほしい
①コンビニに生まれ変わらない → 気づいてほしくない
②コンビニに生まれ変わらない → 気づいてほしい

この命題は仮定か既定かで捉えるならば、コンビニに生まれ変わることはあり得ないから仮定①だと考えてしまうと、この歌の切実さは伝わってこない。
むしろ、あり得ない状況をイメージで既定②することによって、気づいてほしいという気持ちそのものが、逆説のイメージを負っていることを強調している。そして、当然の希求であるその気持ちを逆説と規定すること自体にも、分断された社会と向き合う主体の孤独を感じてしまうのである。

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
/吉川宏志(前掲)

花水木の歌に戻る。この歌は過去の回想がベースにあると読んだ。また「長くても」と「短くても」は同時に成立しないから、逆説仮定条件だと読んだ。しかし、この読み方の前提は、この歌を「実景として読んでいる」からなのではないか。

この一首、特に「長くても短くても愛を告げられなかった」という下句を読むとき、若い読者はまず「長くても愛を告げられなかった」「短くても愛を告げられなかった」少なくとも二パターンの主体の姿を思い、その想像にリアリティの重心を置くために、何割かの読者は「どのようにしても、この愛は告げられなかった」と結論するのではないか。
/土岐友浩(前掲)

実景で読まなければ、土岐が言うように、この歌を一読した際に二パターンの主体の姿をイメージとして並列して読むのが自然なのかもしれない。短歌において、実在する主体の気持ちが込められているはず、という読み方そのものが、もしかすると閉ざされた世界の共通認識に過ぎないのではないだろうか。

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げなかった
(改作1)

①あの長さ → 告げた
②あの長さ → 告げなかった

花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられた
(改作2)

①'あの長さ → 告げられなかった
②’あの長さ → 告げられた

花水木の道があれより長くても短くてもわれは愛を告げた
(改作3)

①’’あの長さ → 告げなかった
②’’あの長さ → 告げた

それぞれにおいて、命題の捉え方はどのように変化するだろうか。
どれも②、②’、②’’で読むことに、そんなに違和感はないのではないか。

そう考えると「告げられなかった」と書かれたシチュエーションにおいて、主体が「自分の愛の告白を自分の意志だけではできなかった」という認識や前提を基盤においているからこそ「告げられた(告げることができた)」と読むことができるということを、短歌のコードで読んでくださいと差し出されているように思えてならない。

土岐が感じた「持って回った感じだなあ」「好き嫌いが分かれそう」という印象は、字余りを含むレトリックを使うことで「持って回った感じ」を出すことの効果なのかもしれないし、「好き嫌いが分かれそう」というのは、これだけの人が何か言いたくなってしまうことをどこかで感じていたのかもしれない。 

私自身はこの歌を読んだときに、会話が告白に変わる瞬間の偶然性を、時間を距離に置き換えて描いているのだとばかり思っていた。花水木の道の物理的な長さは決定的な要因では全くなくて(ほんとうはあるのかもしれないけど)会話をしている時間そのもののタイミングが、沈黙に沈むのではなく、雑談に発散してしまうのでもなく、告白に昇華するだけの勇気に変わったんだ、という主体の感慨に心を揺さぶられるのです。

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