コロナ禍のいまこそ、フーコー「監獄の誕生」を読もう!

 昨日は憲法記念日だったというのに記事を書かなかった私。こんな好機を逸してしまうとは、ミルに言わせれば「愚行権の行使」ですね。

はじめに・・・緊急事態宣言に翼賛体制をみたというおはなし

 さて、コロナ禍によって私達の「愚行権」が簒奪されていっています。いや、簒奪「しあっている」と表現したほうが適当ですよね。だって今発令中の緊急事態宣言では罰則がない、つまりお上からの命令なんて無視しても何もない筈なのに、市民が自発的に営業中のお店に対して嫌がらせのような電話を掛けるなど威圧を加える。そして身の危険を感じさせて閉めるように仕向ける。営業の自由の観点から罰則付きの「宣言」は違憲訴訟のおそれがあるから罰則なしとしたのではと筆者は想像しています。しかし市民が互いに監視し合うようにするから権力者からしたらありがたいものです(戦前の翼賛体制みたいですよね・・・)。

ここから本題。いまこそフーコーを読もう!

 そんな「市民の人権を狭める動きをする市民」がたくさん居るという、自分の首を真綿で絞めるような、冷静になると首を傾げてしまうような現象の中を私達は生きています。何だそりゃ。こういう「ようわからんことが起きた」時こそ哲学の出番です。碩学泰斗に知恵を借りましょう。今日はフーコー「監獄の誕生」に力を借ります。

なんで「監獄の誕生」?

 フーコーは「監獄の誕生」において受刑者に規律を与えるための存在として「パノプティコン」という形式の監獄について述べました。時を問わずに監視されているという認識が規律を植え付けるといった風に述べています。筆者はここにコロナと自粛について似たものを見出しました。

ここからフーコーの論をなぞってコロナについて考えていきましょう。

嫌なら従わなければ良いのに、自ら監視し合う市民たち。この市民たちは監視の目を意識することで自らの良心の声を聞いているのです。そしてその良心に従い、自らを断罪(=自発的に店に電話をしたり、互いに自粛し合ったり。。。)するのです。

なるほど、市民たちは「良心に従った断罪」としては自らの人権を縛っているのですね。。。

おわりに

 感染症は人類の歴史を変えて来ました。14世紀ペストとルネサンス、スペイン風邪と第一次世界大戦、このコロナと・・・?

こういった危機の時に哲学を少しでもかじっていると冷静になりやすいです。「あぁ、どこぞの哲学者が言っていた現象だなぁ・・・」と一歩引いて考えられます。このコロナ禍において、人文知の必要性を再認識すべきなのではないのでしょうか?

参考

ミシェル・フーコー「監獄の誕生―監視と処罰 ―」2020/4/24、新潮社

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