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宮古島にベルリンの壁がある理由

 32年前の11月9日夜、世界の歴史が動きました。28年間も東西冷戦の象徴として難攻不落と思われていたベルリンの壁が突如崩壊したのです。共産主義国家だった東ドイツから、わずか数時間の間に何万人が自由を求めて西側へ流れ込みました。壁の上でハンマーを打ち下ろす人、抱き合って踊る人。彼らの姿は喜びに溢れていました。世界各地でニュースの現場を取材してきた私も、あれほど感動させられたことはなかったと思います。

◎胸を打ったメルケル首相の言葉

 しかし、誰よりも自由の大切さを心に刻んでいたのは東ドイツにいたひとりの女性物理学者でした。その女性とはアンゲラ・メルケル独首相。
ベルリン市内で行われた30周年記念式典では、薄茶のコートに身を包んだメルケル氏が多くの参加者とともに残存するコンクリート壁の隙間に赤や黄のバラの花を一輪ずつ挿す姿がありました。

「人々の自由を束縛するいかなる高い壁でも私たちが打ち破ることができない壁はありません」「自由、民主主義、平等、法の支配、人権擁護といった価値観は自明のものではないのです。何度も息を吹き込み守っていかねばいけません」
 そんな彼女の言葉が聴衆の胸を打った。

 西側のハンブルグで生まれながら東西統一まで東の市民として生き、暗黒政治を体験したメルケル氏だからこそ、そして世界が分裂の時代に逆戻りしようとしている時だからこそ、説得力があったのです。

◎ベルリンの壁との再会

 そんな折、私は思いがけぬ所でベルリンの壁と再会しました。南西諸島西部の宮古島です。南国のテーマパークに展示されていたのは高さ3.6メートル、幅1メートルほどに細長く切り取られた2枚のコンクリート製の壁。紛れもなくあの壁の一部でした。

 当時を思い出して胸が熱くなりました。西ベルリン側にはカラフルな落書きがありましたが、東側は灰色のコンクリート色のみでした。しかも東側の底部はL字型に長くなっている。地面に穴を掘って西側に逃亡するのを阻止するです。冷戦時代の暗黒の歴史が昨日のように蘇りました。射殺されたりした“壁の犠牲者”の数は子供2人を含む136人にも上ったそうです。

◎なぜ宮古島にベルリンの壁

 それにしてもなぜ宮古島にベルリンの壁があるのでしょうか。きっかけは1873年(明治6年)7月、中国からお茶などを摘みオーストラリアに向かっていたドイツの商船R.J.ロベルトソン号が台風に遭遇して宮古島沖合で座礁したことでした。

 それを発見した島民たちが荒波の危険を顧みず乗員を救助し、食事を与え負傷者には手厚い治療を施したのです。その後、ドイツに帰国した船長の話が地元の新聞で伝えられたところドイツ皇帝ウィルヘルム1世の知るところとなり、交流が始まりました。時を経て、冷戦終結後にベルリンの壁の一部が友好の印として寄贈されたのです。まさに予期せぬ出来事が繋いだ運命の絆です。

 私の宮古島での予期せぬベルリンの壁との再会は、一枚の写真となって今も仕事場に大切に飾られています。


 

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