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ほんとうに怖い情報操作(4)

 湾岸戦争では、情報操作の一環としてもうひとつのワナがメディアに仕掛けられていた。政府による情報源の一元化と取材規制だ。

 日本で湾岸戦争の記憶を調査すると、きまって一番に挙げられるのはが「油まみれの水鳥」の姿であった。それほどあの写真のインパクトは強かった。

 91年1月26日、米国防総省のピート・ウィリアムス報道官は、イラクによる組織的な原油流出による環境破壊を発表した。そして、タイミングよく真っ黒の油まみれになった水鳥の写真が通信社によって配信されたのだ。世界の批判に晒されたイラクは、国営放送を通じ原油の流出は米軍機によるイラクのタンカー攻撃によるものと反論したが、後の祭りだった。

 その後、油まみれの水鳥の汚染原因は問題になったシー・アイランドからの流出によるものではなく、カフジ製油所の原油であることが判明したのだが、事実関係はどうであれ、アメリカは一枚の写真を利用して「環境破壊者サダム・フセイン」を世界に印象づけることに成功したわけである。

 印象的という点では、当時国防総省から発表された爆撃シーンの映像もあった。ご記憶の方も多いだろう。まるでテレビゲームで戦闘機のパイロットになったような画面の中で、ハイテク兵器が見事に標的に命中していた映像である。そして「攻撃目標は軍事施設であり、目標命中精度が極めて高い」という説明が付け加えられていた。

 湾岸危機の際、世界中のジャーナリストが集められたバグダッドのアル・アシードホテル。その目前にあった国際会議場へのピンポイント攻撃はまさにハイテク兵器の「精度」を印象づけるためのメディア向けのプロパガンダだったと言われている。

 いかし、実際の命中率はどうだったのか。

 その後の調べでは、発射された「正確無比」なレーザー誘導ハイテク兵器の7割がが攻撃目標にじつは命中していなかった。言い換えれば、多国籍軍(実質はアメリカ軍)の空襲で多くの民間人の犠牲者が出た可能性が高かったのだ。加えて、湾岸戦争で死亡した148人のアメリカ兵のうち35人は味方の誤射によるものであったことも後になって判明している。つまりテレビ映像に映し出されたハイテク戦争のイメージとは違い、現実は血なまぐさい戦争が43日が続いたのである。

ペンタゴンが、ベトナム戦争によって学んだ2つのルール

 しかしなぜこうした情報操作が可能だったのだろうか。その答えは、国防総省が考え出した極めて制限的な戦争取材のルールにあった。ニュース取材現場では一般的に「プール取材」と呼ばれる代表取材形式なのだが、ペンタゴンは限定されたジャーナリストたちを厳重な監督下において情報の内容と流れを統制することに成功したのだ。

 「現場に誰よりも早く行きたいと思うジャーナリストたちはペンタゴンの出した条件に合意してしまい、結果として自らの手足を縛ってしまったのだ」

 湾岸戦争時の取材規制に詳しいハーパーズ出版社長(当時)ジョン・マッカーサーは、当時の軍と報道機関の関係をそう私に説明してくれた。

 この関係が出来上がるルーツを探るにはじつは1965年から75年にわたったベトナム戦争にまで溯らなければならない。じつに150万人のアジアの民が命を落とし、5万8000人のアメリカ兵が戦死したベトナム戦争では、泥沼化した戦場の様子やアメリカ兵による民間人の虐殺などが現地取材したジャーナリストによってアメリカ本国に衝撃的に伝えられた。そしてその報道が少なからず国内の反戦意識を高める結果となったのだ。

 米軍当局にとって屈辱的な結末となったベトナム戦争から、ペンタゴンは次の2つのことを学んだ。

 1.戦争は短期に決着させること。 2.戦争初期段階でメディアを軍の完全なる管理下において国民に軍事行動が正当なものであるように情報操作すること。(戦争は通常、初期段階で作戦ミスが起こって混乱したり、民間人の犠牲を出したりすることが多いからだ)

グレナダとパナマの経験が軍と政府のメディア対策を磨いた

 このルールをまず実践したのが、83年10月のグレナダ侵攻だった。報道機関へのリークを恐れて、ホワイトハウスや国防総省の広報担当官にさえ軍の動きは侵攻が始まって1時間経つまで知らされなかったのである。報道陣は完全に情報のブラック・アウトの状態に置かれたわけだ。

 ジャーナリストがグレナダ上陸を許された時には、すでに戦闘現場は「片づけられて」いた。血だらけの民間人犠牲者の姿はそこにはなかったのである。戦死したアメリカ兵の数が公表されたのは侵攻から随分経ってからだし、いったい何人のグレナダ人やキューバ人が犠牲になったかに至っては分からずじまいだ。

 当時、軍事行動を正当化するためレーガン政権は「グレナダはソ連とキューバの武器補給基地」であると主張したが、それも事実ではないことが後になって分かった。それでも暫くすると移り気がニュースメディアはグレナダに感心を失い、次なるネタへ目が移って行った。軍(そして勿論アメリカ政府)による戦争におけるメディア対策は、89年12月のパナマ侵攻でさらに磨きがかかった。

 グレナダでの露骨な報道規制に対して主要報道機関からの抗議が相次ぎ、ホワイトハウスの広報官が辞任に追い込まれたため、その後「ナショナル・プール」と呼ばれる代表取材精度が導入されたのだ。

 複数の主要報道機関の記者が、持ち回りで代表で取材をしてその情報を他メディアと平等に分配するシステムである。一見民主的に聞こえるが、じつは軍や政府にとっては情報操作に都合のいいやり方である。しかし、当時、そのことに強く抗議したメディアはほんの一握りだった。

 グレナダと違いパナマ侵攻では、戦闘が始まる2時間前に代表記者たちはアメリカを出発することが出来た。しかし、現地入りしたジャーナリストたちを待っていたのは「安全確保」を理由にした米軍基地での5時間にわたる缶詰状態。そしてその間は、軍が提供した情報を元にした記事や映像を本国に送信させられていたのだ。現実の血みどろの惨状はこうして巧みに包み隠されたのである。

 ペンタゴンの公式発表ではこの戦闘で202人のパナマ民間人が犠牲になったとあるが、実際の民間時の犠牲者の数は4000人だったという説がある。

 最終回となる次回は、ジャーナリストは情報操作の戦場でどう戦うべきかについてです。

                (写真はcourrier.jp)



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